02. taked4700 2011年10月21日 11:22:23: 9XFNe/BiX575U
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http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187442778.htmlチュニジアやエジプトのデモでは、軍隊が民衆に銃を向けることを拒否した。つまり軍が権力者を武力で守らなかった。そのため、民衆のデモ活動が容易に膨れ上がり、時の権力者を退陣に追い込むことに成功した。 しかしリビアでは事情が異なっている。 リビア東部の主要都市であるベンガジから首都トリポリに拡大したデモに対し、軍はカダフィ大佐の忠実な僕として、民衆を攻撃している。 ちなみにカダフィ大佐とは言うが、実際は軍の大佐であるわけではないし、リビア軍のトップが大佐というわけでもない。 カダフィが大佐と呼ばれている理由は諸説あるようだが、Colonel Qadhafiのカーネルがいつのまにやら大佐と訳されてしまった。ただ、このカーネルには指導者の意味があるので、おそらくカダフィ指導者といった意味で使っている可能性がある。 が、この投稿でも習慣にならい、カダフィ大佐と表記する。 カダフィ大佐は既に41年も独裁者として君臨しているため、アフリカで最も長く政権を維持している記録保持者になっている。 それにしても治安部隊は容赦無いようだ。前述のトリポリでは、なんと戦闘機や軍用ヘリまでが民衆に向かって無差別攻撃を行っているという。阿鼻叫喚の地獄図となっている。 もちろん、空からだけではなく、地上部隊も実弾を民衆に浴びせ、手榴弾も使われているという。自体は既に殺戮状態と言える。 中東の報道では、既に死者が250人に達したとも言われているが、本当に無差別攻撃が行われているのであれば、犠牲者はもっと多いかもしれない。 カダフィ大佐は民衆を軍事力で黙らせるつもりだ。カダフィ大佐の次男であるセイフイスラム氏(後継者候補とも言われている)は国営テレビを通じて国民に告げた。 「軍は最後の瞬間までカダフィ大佐とともにある。騒乱に終止符を打つ」 これまでのデモ発生国とはかなり様相が異なる。 2/22に投稿した以下の記事でも書いたが、リビアは建前上直接民主制を採用していると宣言しているが、その実態はカダフィ大佐による独裁政治である。 『リビアやバーレーン、そしてサウジアラビアに飛び火する反政府デモとは何か』2/22 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187286755.html 民衆は軍の火炎に耐えうるだろうか。 リビアはアフリカ最大と言われている埋蔵量の石油を制御しながら輸出することで行動経済成長を実現している。一人あたりのGDPはアフリカでは突出して高く12,062ドル(エジプト:2,771ドル、チュニジア:4,160ドル)と先進国並みに近づいている。 しかし失業率は凄まじく、30%(外務省のサイトより)という。 すなわち、国民にとっては、リビアの経済発展の恩恵は、カダフィ大佐一族や、その側近と言った、現政府関係者に集中しており、一般国民には行き渡らないという不満がある。実際、食べていくのが大変だろう。 これに加えて、表現や報道の自由もかなり制限されているに違いない。社会主義の特徴だ。 これがデモのエネルギーだろうが、隣国チュニジアやエジプトの民衆の勝利(一時的かもしれないが)を知ったリビアの国民は、軍の躊躇ない国民への武力攻撃に面食らいつつも憤慨しているに違いない。 それにしてもカダフィ大佐の国民を恐れること尋常ではない。それは、近隣諸国での民衆の勝利(一時的かも)を見たこともあるが、何よりも自分自身が革命を起こし、成功させた人間だからではないか。 かつて自分自身がリビア王国のイドリース1世を追放した様に、今、自分が追放される恐怖を味わっているに違いない。 そのため、武器を持たない民衆に向けて、軍隊の兵器を国民に容赦なく使わせている。狂気だ。 この惨状に対し、国連の潘基文(バンキムン)事務総長が非難したのが21日であり、それだけでなくカダフィ大佐と電話会談により武力弾圧を停止するように求めたが、平静ではいられないカダフィ大佐は、どれほど国民の血が流れようと、鎮圧することだけを考えている。 また、リビアの治安部隊の特徴に、外国人の傭兵が多いということがある。彼らにとっては、リビアの国民は異国の民だ。銃火を浴びせるに躊躇はしまい。 ただ、既に各国のリビア大使が続々と辞任している。また、軍の一部の将校たちもカダフィ大佐を非難し始めており、軍が分離の兆しを見せている。 カダフィが頼れるのは軍だけだ。しかも最後は外国人の傭兵(つまり金で動く兵士)しか頼れないかもしれない。 少々長くなったので、カダフィが思い出しているであろうことについては次の投稿で書いてみたい。 カダフィ大佐の革命を恐れること甚だしい。そのテンションの上がり様は、記事の最後にリンクしたYoutubeでご覧いただきたい。 カダフィ大佐は思い出している。かつては自分が革命を起こすことで、「リビア王国」からイドリース1世を追放し、自らが「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」に君臨することになったという経緯を。 そして今、新たな革命が自分を追放しようとしている。しかもその理由には思い当たる節が──十分にある。 ここでカダフィ大佐が革命を起こした前夜までのリビアを大急ぎで振り返ってみたい。 リビアの地は、地中海に面してヨーロッパと向き合い、背後にアフリカを控えているその地理的な条件により実に様々な権力が交代してきた。カダフィ大佐が権力の座についてからの41年間など、リビアの激動の歴史から見れば、ほんの一瞬の出来事のようにすら感じる。 ベルベル人が居住していた先史時代に始まり、ギリシャ人が支配した古代に入ると、支配者はフェニキア人に変わり、カルタゴに支配され、ローマ帝国がそれに代わり、東ローマ帝国がさらにそれに変わった──とこのあたりは飛ばそう。 やがてイスラム教がアラブに広まると7世紀にはウマイヤ朝(アラブ人)が征服した。 そして16世紀。この地をオスマン帝国が支配する。しかしオスマン帝国が勢いをなくし始めるとトリポリ総督であったトルコ系出身のトリポリ州のパシャ(オスマン帝国の高官)であるアフマド・カラマンリーが自らのカラマンリー朝を打ち立てた。ただし、オスマン宗主権下という立場であった。 まだこの時代、世界はこの地域の石油に目覚めていない。そのため、このカラマンリー朝は、地中海に支配力を持ち、通行料を取り立てることで財を成していた。 しかしここに、通行料を払わない若い国が現れる。アメリカ合衆国であった。 1801年、カラマンリー朝はアメリカと戦争を始める。戦争は1805年まで続き、カラマンリー朝の敗北に終わる。 そのころから、この地にイギリスとフランスが触手を伸ばし始める。そのことに危機感を覚えたオスマン帝国は、改めてリビアを征服した。 しかしイタリア王国とオスマン帝国の間で伊土戦争が20世紀初頭に勃発し、勝利したイタリア王国はローザンヌ講和会議によりリビアを植民地として統治することになる。 しかしイタリアの統治は決して平坦な道のりでは無かった。それこそ先史時代からこの地に暮らすベルベル人の抵抗激しく1930年代まで平定に費やした。 と、ほっとするのもつかの間。すぐに第二次世界大戦が勃発した。北アフリカ戦線で敗北したイタリアに代わり、リビアは英仏の共同統治領となる。 実にめまぐるしい。リビアに安定した社会は到来しないのか──。 と思った矢先に国連がある決議をした。1949年のことである。 すなわち、リビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国として独立しなさい、というお達しだった。 それじゃぁ、ということで早速2年後にはリビア連合王国として独立した。国王には、イドリース1世が即位した。そう、ようやくカダフィ大佐と接点となる人物の登場である。 イドリース1世は、元々キレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったので、まぁ、流れとしてはふさわしいと言えた。 そして、このイドリース1世こそ、若き日のカダフィ大佐が革命で倒すべき権力者となっていくのであった。 ──また長くなってしまった。第3部に続く。 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187515409.html 前回、イドリース1世を国王としたリビア連合王国が独立したところまで書いた。 ただ、この連合王国の連邦制は14年後には廃止され、リビア王国になる。国王はそのままイドリース1世だ。 このイドリース1世は、国連により独立への道を開かれたこともあり、当初より親欧米路線の政治を行った。 国防は英軍や米軍に基地を提供することで賄い、さらにその見返りとして経済援助も得ていた。また、経済と言えば、旧宗主国であり、地中海の対岸にあるイタリアからの入植者たちが牛耳る傾向にもあった。 そしていよいよ世界がリビアの石油に目覚めると、リビアには潤沢なオイルマネーが流れ込んでくる。 しかし、この富は、国民には行き渡らない。どうしてもこうなってしまう。権力を握った者やその支援者たちにのみが石油の恩恵に浴することができていた。 激しやすいカダフィのことだ。まして彼が若い頃のこと。どれほど国王たちがリビアの富を独占していることに憤ったことだろうか。 やがてその富の恩恵による格差社会は地域格差にもなり、階層対立や地域対立を生み出していった。 こうして、若き日のカダフィたちには、国王一族とその取り巻きたちの腐敗ぶりが目に付くようになっていく。 そんな頃、隣のエジプトで「スエズ動乱」(第二次中東戦争)が起きた。 ここで寄り道になってしまうが、隣国エジプトで起きたスエズ動乱を見ておきたい。というのも、このスエズ動乱は、カダフィが革命を起こすことに多大な影響を与えた事件だからだ。 そしてこのスエズ動乱の主役とも言えるエジプト大統領ナーセル(ガマール・アブドゥル=ナーセル)こそ、カダフィが憧れた人物だった。 ※エジプトが共和国になる経緯については、是非過去に投稿した以下の記事にお立ち寄りください。第五部まで連続投稿しています。 『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第一部。』(1/29) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183082938.html さて、スエズ動乱──。
当時のエジプトは王国とはいえ、実際はイギリスの支配下にあった。しかもスエズ運河への投資が災いして経済も疲弊しており、国民はあえぎ、社会が不安定になると共にイスラム主義が噴出し始めていた。しかし、ただ国王とその取り巻きだけは豊かな生活をしている。 このころ、エジプト軍の内部に秘密組織ができていた。その名を「自由将校団」と呼ぶ。 ──親英路線を続ける腐敗したエジプト王国政府を倒さねばならない。 それが彼らの目的だった。 この自由将校団の主なメンバーを見てみよう。 ガマール・アブドゥル=ナーセル アンワル・アッ=サーダート ムハンマド・ナギーブ なんとエジプトが共和制になった後の大統領たちではないか。そう、彼らこそが、エジプトの王制を打倒したメンバーだった。そしてナーセルはその中心的存在だった。 1952年7月23日。クーデターは成った。 エジプト国王のファールーク1世は亡命し、その子であるフアード2世が即位した。 しかし自由将校団の目的は王制打倒だ。先ほどの自由将校団メンバーの一人であるナギーブが首相になり権力を掌握すると、わずか1年足らずの後に、この幼い王は廃位に追い込まれる。 そして、エジプトはナギーブを初代大統領として共和国を宣言した。 その後権力を巡って同じく自由将校団の急進派であるナーセルに権力が引き継がれ、彼が次の大統領となった。ナギーブはナーセル暗殺の疑いをもたれ、軟禁されることになる。 ナーセルは大統領になる前から改革を進めていた。 農地改革から始まり、主力産業や銀行を国有化した。アラブ社会主義の実践である。そして汎アラブ主義を目指した。簡単に述べると、汎アラブ主義とはアラブ民族主義と社会主義の混合のようなものだろう。 次にナーセルはスエズ運河に目を付ける。 ──この要衝の地を国有化したい。 しかし未だにスエズ運河にはイギリス軍が駐留していた。ここでナーセルは本領発揮、イギリス軍をまんまと撤退させる協定を結ばせることに成功する。 そして汎アラブ主義を目指すナーセルは、米ソのどちらにも依存しない非同盟主義を実行する。 ところがこのころエジプトはアスワン・ハイ・ダムの建設を予定していたが、ナーセルがチェコスロヴァキアから兵器を購入すると、米国を始めとする西側諸国からのダム建設融資が受けられなくなってしまった。 ──金を出さないなら、スエズ運河で稼いでやるまでのこと。 そうしてナーセルはスエズ運河の国有化に踏み切った。 スエズ運河に多大の投資を続けてきたイギリスは怒る。こうなったら軍事力に物を言わせてナーセルをぎゃふんと言わせてやろう。 利害を共にするフランスを誘ってエジプト攻略を検討する。それを知ったイスラエルも「おいらも混ぜてもらうぜ。」と密かに武器をそろえ始め、いつでも参加できる準備を始めた。 しかし時代は第二次大戦を反省する時期にある。侵略目的の戦争はおおっぴらにできない時代に入っていた。 しかしそこは老獪なイギリスと仲間たち。武器をせっせと磨いているイスラエルに目を付ける。そうだ、イスラエルをそそのかしてしまえ。 イスラエルは既にナーセルの軍艦によってインド洋への出口であるアカバ湾と紅海を繋ぐチラン海峡を封鎖されていた。ナーセルへの恨みは深い。 イスラエルはイギリス・フランスの後ろ盾を得ると、シナイ半島に侵攻した。エジプトをこの半島から追い出してしまえ。 そこに台本通りにイギリスとフランスがシナイ半島での戦争回避を名目に、イスラエルとエジプトにシナイ半島からの撤退を通告した。 イスラエルは筋書きを知っている。しかし自国領から撤退することな考えないエジプトは筋書きを知らない。 「国際正義の名の下に、撤退しないエジプトに天誅を加える。」 英仏のマッチポンプである。しかしそれが国際社会。ともかくも大義名分をでっち上げた英仏両軍はエジプトを攻撃した。どさくさに紛れてシナイ半島を占領してしまえ。めちゃくちゃである。 そして奸計に嵌められたエジプト軍は3国を相手に苦戦を強いられる。しかしそれで屈するナセルではない。この男は思わぬ行動に出た。なんとスエズ運河に艦船を沈めて通行不能にしたのだ。 それでも圧倒的に強いイスラエルは単独でもエジプトに向かって快進撃を行っていた。 いよいよエジプト降伏か。 しかしこれまたナーセルの運の強さよ、なんと冷戦中のはずの米ソが手を組み、この戦争の停戦と英仏そしてイスラエルに対し、撤退を通告してきた。国連の緊急総会の決議によるものだった。 これには米国の思惑もあった。エジプトを追い詰めると、兵器を提供しているソ連の介入が有るかもしれない。それは困る。ならば今のうちに停戦させてしまおう。 エジプトのナーセルはまんまとスエズ運河の国有化を実現した。しかもおまけとして、英仏並びにイスラエルと戦ったナーセルは、アラブ世界の英雄と成った。 そしてナーセルは国有化したスエズ運河のみならず、国内の英仏の銀行をも国有化した。 いよいよナーセルはアラブ社会の英雄としてその名をとどろかせた。 そしてその英姿に熱い視線を向け、自らの拳を握りしめる若者がいた。 ──これがアラブの強さであり、正義だ。 若き日のカダフィだった──。 ようやくここに、リビアの革命前夜に戻る──が、また長くなってしまった。 私は絶対にTwitterには向いていないなぁ。 四部に続く。 スエズ動乱(第二次中東戦争)でのアラブの英雄ナーセルを見た若きカダフィにも、クーデターへの思いが高まっていく。 このとき(も)、リビアはエジプトと似たような状況にあった。どうやらリビアの革命は東からの波に煽られる。 前回も書いたが、既にリビアにはオイルマネーが流入していた。しかしその恩恵は国民には行き渡らない。欧米の資本家や国王とその取り巻きたちは豊かである。 この状況──つい最近も見ているが──ここで述べているのはあくまで1950年代の話だ。歴史は繰り返すのか。 スエズ動乱の影響で、リビアにも反欧米の機運が高まってきた。そしてそれに取って代わる汎アラブ主義が広まり始めていく。 さすがに空気を読んだイドリース1世は慌てて対策を始める。遅きに逸したがオイルマネーを国民全体に行き渡るように手を打ち始めた。そして、爆発寸前のアラブ民族感情を抑え込むために、英米の軍事基地を撤退させる動きを見せた。 しかし遅かった──。 1969年。イドリース1世が病気療養のためトルコに滞在している間に、青年将校たちによるクーデターが起きた。イドリース1世はそのままエジプトへ亡命する。ここに無血革命が成った。 そしてこのクーデターの立役者こそ、27歳のカダフィ大尉(大佐ではなかった)だった。 ──尊敬するアラブの英雄ナーセルの様に、リビアを変えるのだ。 リビアは共和国となり、カダフィ大佐は事実上の元首となった。 (カダフィ大佐とは呼ぶが、実際は大尉だった。ただ、尊敬するナーセルが大佐だったことに倣ったなど、大佐を称する理由には諸説がある。) その後、リビアは社会主義を目指し、欧米諸国と敵対すると同時にソ連と近づき援助を受けるなどした。 同時に反欧米活動として数々のテロに関与し、欧米からは経済制裁を受けるにいたり、国際社会からの孤立を招いてしまう。 そして国内にも不穏な要素がはびこっていた。 革命以後、アラブ社会主義連合の一党独裁だったが、この党の機能が国家機関に移行すると同時に政党は存在しない国政状態になっていた。建前上は直接民主主義を標榜しているため与党や野党といった組織の対立はない。 しかし標榜する建前上の直接民主主義と、実際の国政運営には乖離が見られた。 現実的に、国民全員が直接参加する議会など運営は不可能だ。そのため、全国人民会議なる1000名前後の代表者会議が存在し、年数回の会議も政府に忠実な者しか参加していないという茶番が続いている。 また、会議中の発言はあらかじめ検閲が行われており、イレギュラーな発言は認められていなかった。そう、現実はカダフィ大佐と共に王制を倒した将校団のメンバーが政権の座を占めていた。 しかし、反政府勢力も残った。リビア民主運動、リビア国民連盟、リビア救国国民戦線、イスラム殉教者運動など、様々な思想(イスラム過激派、王党派、民主主義派など)と目的を持った活動が国内に残っている。 これらはカダフィ大佐にとって不安の種であり、みずからの周辺を武力で固める動機になっていると思われる。最後のよりどころは、思想でも政策でもない、武力なのだ。 そしてまだ、王党派などは、前国王の親族(弟の孫)を王位継承者として支持している。 このように国内に不安要素を抱えながらも、カダフィ大佐のリビアは、反欧米、反イスラエルとしての外交政策を行い、欧米からは「テロ国家」の烙印を押されていた。 しかし、国際的孤立やアラブ中心の外交に行き詰まりを感じたのか、カダフィ大佐の外交方針に変化が現れる。米国を始めとする欧米諸国からの経済制裁によるリビア経済への悪影響や、イラク戦争を目の当たりにし、欧米の標的にされることを恐れ始めたとも言われている。 さらに国内のイスラム過激派(リビア・イスラーム戦闘団など)を押さえ込まなければならない。 そして、カダフィ大佐はリビアをアラブ主義から欧米の協力を得やすい汎アフリカ主義へと移行しようと考え始めた。 カダフィ大佐の政策は変貌していく。 ──やっぱりまとめきれなかったので、五部に続く。 歴史は繰り返す──。 経済政策の転換、そして国内のイスラム過激派を押さえ込むためにカダフィ大佐は方針を変えていった。そうして欧米に近づいていく。 特に米国の経済制裁はリビア経済に打撃を与えたとされる。以下、カダフィ大佐が欧米に歩み寄っていった経緯だ。 1999年、カダフィ大佐はパンナム機爆破事件の容疑者を国際法廷に引き渡すことに応じた。続けて2003年には、リビア政府の関与は認めなかったが、「リビア公務員の起こした事件に政府の責任はある」という理屈で、遺族に対する27億ドルの補償金支払いに応じた。 そして2001年9月11日、世界を震撼させた「9.11テロ」が米国で発生すると、カダフィ大佐はアル=カーイダに対して激しい非難を表明した。 これは米国への支持と言うよりは、世界的なテロ批判の流れに便乗することで、リビア国内のイスラム過激派(リビア・イスラーム戦闘団など)を押さえ込むためだったとも言われている。 2003年、リビアは核放棄を宣言。査察団の受け入れを行う。このこと評価した米国は、ようやくカダフィ大佐の思惑通りに経済制裁を解除し、テロ国家指定を取り下げた。 2006年、リビアはついに米国との国交正常化の発表にこぎ着ける。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償金を15億ドル米国に支払ったが、同時に米国からも米軍機がリビアを空爆した際の民間被害の補償金として3億ドルをリビア政府に支払った。 2008年にリビアによる米国への補償金支払いが完了すると、国交の完全正常化がなされた。 国連の経済制裁が解除されると、革命後には撤退していた米国のオクシデンタル・ペトロリウムなどの石油関連企業を始めとして、リビアに「外国資本」が流れ込んできた。 リビア経済は息を吹き返した。 といっても我々はリビアの経済状況を実感できない。そこでグラフによって「見える化」してみたい。 ※出典:IMF - World Economic Outlook(2010年10月版) ※グラフ作成:「世界経済のネタ帳」(http://ecodb.net/)を利用。 まず国際収支 国際収支は、一定期間においての対外経済取引の状況を示している。9.11テロ以降、つまりカダフィ大佐が欧米寄りになってから、急激に上昇していることがわかる。 次に名目GDPはどうか。 有名な指標で一定期間において国内で生産された価値の総額を示し、おおざっぱに言うと、経済の成長具合がわかる。やはりカダフィ大佐が欧米よりの姿勢を示した頃から急激に成長している。 今度はインフレ率を見てみる。前年比において物価がどれだけ上昇しているか。 これは逆にカダフィ大佐が欧米よりになってからそれまで下がり続けていた物価が急激に上昇しているようだ。その結果、リビアが国単位では経済成長をしているが、国民の生活レベルでは物価の上昇に悩まされているであろうことが想像できる。 そして失業率をグラフ化使用としたところ、IMFとしての統計がとれていないらしくエラーが生じてしまった。 そこでもう一度外務省のサイトを見ると、30%という凄まじい数値が掲載されている。(エジプトは8.8%。日本は総務相の発表では2010年で4.9%。但しこれには問題があり、実質は9%ともそれ以上とも言われているが、それは別の機会に見てみたい。) つまり、カダフィ大佐は、リビアの経済成長を促すという点では、それほど間違った政策を採ってはいなかったと言える。 しかし、その経済成長の旨味を、国民に行き渡らせることが全くできていなかったのではないか。 その上、カダフィ大佐一族や、その取り巻きたちに富が集中し、しかも官・軍・警といった石油利権を独占しやすい地位にはカダフィ大佐の子供たちが就いている。 そして実際、カダフィ大佐の一族の贅沢ぶりは有名だ。下世話なところでは、有名タレント(マライヤ・キャリー、ビヨンセなど)がカダフィ大佐の家族のためだけに高額でプライベートコンサートを開いたことや、息子が高額な大型住宅を購入し、高級ホテルに投資した見返りで派手な放蕩生活をおこなっているなどだ。 国民は仕事にもありつけない。 カダフィ大佐はここで既視感に襲われたはずではなかったか。 かつてイドリース1世を中心とした国王一族やその取り巻きたちだけが潤沢なオイルマネーにより豊かになり、国民にはその豊かさが配分されていなかったことに憤った若き日の自分を思い出さなかったのか。 そして隣国エジプトでスエズ動乱が起き、国王は慌てて富の配分対策を打ったが、間に合わなかったこと、そしてエジプトのナーセルが主導した革命がリビアの王制を倒したことを忘れたのだろうか。 そしてこのたびも、エジプトで起きた民衆の蜂起は、かつてと同様にリビアに飛び火した。 そしてカダフィ大佐は、いつの間にやら自分たちが倒した親英米政策を進めて豊かさを独占した憎むべきイドリース1世と同じ道を歩み始めては居なかったか。 ナーセルが立ち上がり、カダフィ大佐が立ち上がったように、エジプトの民主が蜂起し、リビアの民衆が蜂起した。 カダフィ大佐が革命を恐れること甚だしい。それは自分自身が革命によって前政権を打倒したことを知っているからだ。 リビアの民衆は、カダフィ大佐を追い詰めていく。 ──完。 (ここまで調べながら書き続けて、要約リビアで起きていることの背景がぼんやりながらも見えてきたような気がします。次回から、通常の投稿に戻ります。) 以下、投稿記事のURLをまとめてみました。
『リビアの革命指導者カダフィ大佐が、新たな革命に襲われる:一部』(2/23) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187442778.html 『リビアの革命指導者カダフィ大佐が、新たな革命に襲われる:二部』(2/24) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187515409.html 『リビアの革命指導者カダフィ大佐が、新たな革命に襲われる:三部』(2/26) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187796721.html 『リビアの革命指導者カダフィ大佐が、新たな革命に襲われる:四部』(2/26) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187858908.html 『リビアの革命指導者カダフィ大佐が、新たな革命に襲われる:五部』(2/27) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/188019764.html 参考記事
『リビアやバーレーン、そしてサウジアラビアに飛び火する反政府デモとは何か』(2/22) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/187286755.html エジプト関連の投稿記事
『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第一部』 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183082938.html 『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第二部』 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183086820.html 『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第三部』 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183150487.html 『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第四部』 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183159468.html 『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第五部』 http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183236111.html 『エジプト争乱に指導者が現れるか』(1/31) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183328003.html 『ムバラク大統領の退陣は、新たな対立を産む可能性がある』(2/2) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/183849084.html 『デモの長期化はムバラクに有利か、反ムバラクに有利か』(2/5) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/184439695.html 『ムバラク大統領は、権力亡者となり暴走しているのか。後ろ盾の米国にも読めず。』(2/11) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/185457860.html 『エジプトの、新たな混乱が始まるのか。』(2/12) http://newsyomaneba.seesaa.net/article/185542674.html |