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http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyazaki/news/20120209-OYT8T01132.htm
新しい生き方宮崎で一歩
念願のレストランオープン
昨年末に念願のレストランを開店した中村さん(手前) 「避難してきたとは思っていない。震災を機に違う生き方を決めただけです」
埼玉県上尾市から宮崎市に家族3人と移り住んだ中村嘉郎さん(38)は昨年12月19日、同市広島1にレストラン「RAW」を開業した。東京・池袋の百貨店で総菜売り場の店長をしながら、「いつか自分の店を持ちたい」と考えていたが、思いもしなかった場所で、予期せぬ時期に実現した。
東日本大震災が起きた昨年3月11日、勤め先の百貨店の地下から一時、出られなくなった。都心は電車もバスも動かなくなり、自宅に帰れない人たちであふれた。混乱が続く状況に「いざという時、子どもを連れて避難できなくなるかも知れない」と、震災の2日後、東京を離れる決意をした。
宮崎県綾町に移り住んだ両親を頼り、妻と小学1年の長女、幼稚園児の次女を先に移した。中村さんは4月、百貨店を退職して後を追った。周りには遠方まで避難する人は少なかったが、「子どもが小さい。大げさだと笑われるのは構わない」と家族の暮らしを優先した。
東京で生まれ育ち、地方での生活は初めて。にぎやかな都会と比べてしまいがちだが、しばらくして、食材に恵まれ、生産者との距離が近い宮崎の強みに気づいた。食の仕事に携わり、将来は関東で飲食店を開きたいという夢を抱いていたが、舞台を変えて成し遂げようと思い立った。
理想は「体に楽」な食事。「誰かと一緒に食卓を囲み、野菜や肉、果物などを作った農家の人たちに思いをはせる。それが食べる人にとって、一つの『楽』だと思う。宮崎はそれを実現するのに絶好の舞台」。現在、様々な県産食材を使ったメニュー作りに取り組んでいる。
「地方都市は『あれもない』『これもない』と言われるが、それは都会と比べるから。自分自身で『何をしたいか』という明確な物差しを持っていたら場所は関係ない」と言う。2人の娘も最初の頃こそ環境の変化に戸惑っていたが、新しい友だちができて元気を取り戻した。
レストランのオープンから1か月半が過ぎ、食材にこだわったメニューは口コミで評判を呼び始めた。日によって変化を持たせた料理は、幅広い年代に親しまれている。
中村さんは「都会より人やモノが集中していない宮崎で新しいサービスを生み出せるなら、震災復興のヒントにもなる」と強調。ゆくゆくは農産物の生産なども手がけたいと考えている。
◇
東日本大震災を機に多くの人が県内に移り住んだ。前向きに生きようとする人もいれば、不安を拭いきれない家族、移住を希望しながら県外で暮らし続ける人もいる。震災から間もなく11か月。移住を巡る家族の思いに触れた。
(2012年2月10日 読売新聞)
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自然災害17
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