http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/458.html
Tweet |
-----------------
まもなく3・11東日本大地震大津波被災、そして会津藩福島県、フクシマ原発第一の大事故放射能被害から4ヶ月目がくる。
首都圏の巨大テレビではバラエティー番組がてんこ盛り。
明るくそして笑う番組でなければ商品が売れないのだろう。
人間は忘却する動物でもある。
6月22日、神奈川県藤沢市にあるギャラリーに行ってきた。
わたしがお世話になった人たちの美術作品の展覧会であった。
1997年、わたしも舞踏仲間がやる展示に作品を出させてもらったことがあった。
そこで驚いたことは演劇・舞踏などの舞台関係者は絵を描いたり、人形をつくったり、パッチワークをやったり、陶器をつくったりする美術人でもあったことである。
それは表現を形にする多様なエネルギーが強度であることだ。
有名な歌手や俳優も書道をやったり絵を描いて、出展している。
6月22日、藤沢のギャラリーでは、今年の1月5日、わたしが主催した藤沢市民会館大ホール公演で、受付という表方をしてくれた佐々木さんが、「雨ニモマケズ」宮沢賢治の手帳の記録を、そのまま彫り色をつけた作品を出していた。「経典」の文字は遊行寺、一遍聖絵の一遍上人の文字を彫ったということだった。佐々木さんは宮城県気仙沼大島への支援現地活動に入った女性でもある。
永田さんとは1994年、とりふね舞踏舎公演「わたしが生まれた日」で共演している、その後何度も、神奈川や東京での舞踏公演で共演している。遊行寺本堂公演のときも、たびたびお世話になった女性である。
若林可南子さんは1994年、とりふね舞踏舎公演「わたしが生まれた日」のとき、制作という表方をやった女性である。1996年秋の遊行寺本堂での遊行舎「小栗判官と照手姫ー愛の奇蹟」初演公演のときは、ものすごく力を発揮していただいた。制作から衣裳制作、観客動員までやっていただいた。若林可南子さんは湘南の演劇鑑賞会に属していて、全面的に衣裳制作や観客動員、小道具の手配まで仲間を集め、初演を成功へと導いていただいた。これまで何度も何度も舞台公演ではお世話になってきた。
7月8日、文学をやっている兄と西大井で会って飲んだ。
「寺山修司は短歌を変えた人だ。寺山修司の言葉は短歌人に今も生きている。サラダ日記の女性歌人も寺山修司から強い影響を受けている。今の短歌界でがんばっているのは、ほとんど女性歌人だ。俳句もそうではないか。明治の石川啄木、昭和の寺山修司、それを継承する女性歌人たち」
そのような話を兄から聞いた。
若林誠さんは舞踏家である若林淳氏の父親である。
企業を定年退職するとシルバー海外協力の道を歩み、ブータンに行っていた方である。
若林誠さんの絵をみるたび、わたしは「いわさきちひろ」の絵を思い出す。
出会いを文化力にまで形成するエネルギーが人々にはある。
そして人々は表現者でもあった。
まもなく3・11東日本大地震大津波被災、そして会津藩福島県、フクシマ原発第一の大事故放射能被害から4ヶ月目がくる。
東北は生活力と文化力によって必ず、復興し復活すると、わたしは確信している。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。