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http://diamond.jp/articles/-/12839【World Voiceプレミアム 第64回】 2011年6月23日
大惨事でパニックするエリートと機能しない政府 どん底で助け合う普通の人々と機能する市民社会 100年の災害史が示す人間コミュニティの真実とは――「災害ユートピア」著者レベッカ・ソルニット
大地震、大爆発、巨大ハリケーン、テロ攻撃……。気鋭のノンフィクション作家、レベッ カ・ソルニットによれば、世界の災害史を振り返ると、危機に直面した人間社会の行動にはある共通項が見出せるという。それは、パニックに陥る少数派のエ リートがいる一方で、見ず知らずの人に水や食料そして寝場所を与え、時として命すら投げ出し助け合う普通の市民の姿である。ソルニットは、なぜこのユート ピアを平時に築くことができなのかと問題提起する。東日本大震災後に、世界の知識人のあいだで注目を集めている「A PARADISE BUILT IN HELL」(邦訳『災害ユートピア』)の著者に話を聞いた。(聞き手/ジャーナリスト 瀧口範子)
――あなたは著書「A PARADISE BUILT IN HELL」(邦訳『災害ユートピア』亜紀書房刊)の中で、大災害後の一時期に、人々が自分の利益は二の次に互いを支え合う、まるでパラダイスのような理想 的社会が生まれることを書いている。そうしたユートピアはどんな災害の後にも立ち現れるものなのか。
レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)全 米批評家協会賞、マーク・リントン歴史賞、アメリカン・ラナン文学賞など数多くの賞を受賞し、現在注目を集めているノンフィクション作家。『災害ユートピ ア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)、『暗闇の中の希望――非暴力からはじまる新しい時代』(七つ森書館)など著書多数。カリ フォルニア大学バークレー校ジャーリズム大学院修了。サンフランシスコ在住。
私は、戦争などの人災そして自然災害の後に(人間社会に)何が起こったのかをつぶさに調べてこの本を書いたが、第二次世界大戦のような最悪の人災 の後も、そして(2005年夏に米国南東部を襲った)ハリケーン・カトリーナのような自然災害の後にも、似たような「束の間のユートピア」があったことを 知った。普段は忘れている互いのつながり、第三者を介さない直接性、人生の意味を災害後に人々は共通して見出していたのだ。
もちろん、災害自体は悲劇だ。だが、それはまるで「革命」にも似ていて、人々は突然未来が大きく開けたことを感じ、何かが可能であることを、驚き やパッション、強烈な思いを持って語るのだ。それは、自分の生活、アイデンティティ、コミュニティがこれまでとはまったく異なるものになり得る、という感 覚だ。怖いことでもあるが、同時に解放的なことでもある。
――それは、あなたが取材した被災者がみな等しく感じたことなのか。
もちろん人によって違いはあった。ハリケーン・カトリーナの時には、これを深い意味のある体験だったと感じた人もいれば、最大の悪夢だったと思った人もいた。その両方だったと考える人もいた。
私の著書に対しては、よく「本当に100%パラダイスなのか」「全員がハッピーに感じるのか」と疑ってかかる人がいる。だが、私が伝えたかったの はそんなことではない。災害は起きないほうが良いに決まっている。ただ、事実として災害の後には“地獄の中のパラダイス”のような“束の間のユートピア” が出現するということだ。それはまるでポケットのような可能性の空間だ。わたしたちに何ができるのか、わたしたちは何者なのかについて、深く考えさせ、そ して教えてくれる。
次のページ>>死を覚悟して警報を出し続けた鉄道通信員
私は禅の信者だが、取材活動を通じて知った災害直後の人の心に生まれるものが、禅で説かれる無執着、自分を取り巻くすべてとのつながりの感覚、深い慈愛の心、死の存在、死を怖れないといったことにあまりに近いので驚いた。
たとえば、1972年(12月23日)のニカラグア・マナグア大地震に遭ったジョコンダ・ベッリという女性は、こんなことを語っている。「一晩に して自分の生活の一切を失うことがあるかもしれない。だから人生は非常に貴重なもので、自分の信じるように生きなければならない」と。
普通の生活において、われわれは未来、過去にまつわる心配事をいろいろ抱えている。兄のほうがお母さんにかわいがってもらったとか、年金で十分に 暮らしていけるだろうかといったことだ。ところが、そうした心配事は災害ですっかり吹き飛んでしまい、心配やねたみなどの感情から解放される。金持ちも貧 乏人も、同じように瓦礫の中から親を見つけ出そうとする。現実の出来事が、世界を一瞬にして平らにし、人々を直接的に結びつけるのだ。
――災害時には助け合うほうがいいという自己防衛本能も働いているのでは?
確かに、協力したほうが生存率が高くなると人々が現実的に判断した結果がユートピアだという側面もある。災害現場では、あなたを助けるが、私も助 けてくれという相互扶助がよく見られる。それはそれで素晴らしいことだ。だが、それだけではない。他人を助けるために自分が犠牲になることもいとわないと いう、他愛主義や自己犠牲も見られるのだ。
強制収容所では、子供たちを飢えさせないように、大人が自分の食べ物を与えた例はよくある。また、1917年(12月6日)のカナダ・ハリファックス大爆発(約2000人が死亡した、火薬による世界最大級の爆発)の際には、鉄道通信員や電話局のオペレーターが死を覚悟して警報や救援要請を出し続け、自らの命と引き換えに、何100人もの人命を救った。
次のページ>>一般市民はパニックしない
ダーウィン主義者の間では、すべての現象は遺伝子を次世代に受け継ぐためにあると語られているが、偉大な進化生物学者であるE.O.ウィルソンは、これに異を唱えて、動物も人間も遺伝子だけでなくコミュニティ自体を存続させることを目的としていると結論づけている。
この本を書き出して気づいたのは、途方もなく大きなことへ足を踏み入れてしまったということだ。つまり、人間の本性とは何か、その上に立つと本来どんな社会が可能なのか、というところまで考えなければならなくなった。
しかし、本の中ではできるだけ事実の記述に集中し、そうした哲学的な考察はあまり行わないようにした。それでも、災害時に見られる人びとの本性はかなりいいものだとだけは言っておきたい。
――通常、災害が起こると人々はパニックに陥り、略奪事件などが起こって、社会は混乱すると考えられている。実際は違うということか。
それは、私も不思議に思ったことだ。そうした説は繰り返し流れるが、それにはふたつの理由があるのだろう。
ひとつは、政府の制度や公の文化環境が受け入れている社会ダーウィン主義やその先駆者である思想家のトーマス・ホッブス(1588-1679年) 的なモノの見方によるもので、人々は競争環境の中で生きているとするアプローチのせいだ。分かりやすくいえば、「あなたが得をすれば、私が損をする」とい う考え方だ。
自由市場や資本主義はこうした考え方に基づいていて、人間は元来、利己的であるとする。一部の偽科学も、この説を支持している。しかし、近年の進化科学や神経科学、社会心理学の研究によると、われわれは実はもっと協力的に生きる種であることがわかっている。
蟻や蜂社会とまではいかないだろうが、人間は家族やコミュニティの中で生き、自分の生存も競争より協力関係により多くを依っているというのだ。戦争などの人災や自然災害の直後に見られるのは、人々の寛大さ、他愛主義、勇敢さ、深い創造性だ。
もうひとつ一般市民のパニック説を演出しているのは、ハリウッドに代表される娯楽映画だろう。災害時にみなが落ち着いて整然としていては、チャールトン・ヘストンやトム・クルーズら英雄の出番がなくなってしまう。
次のページ>>なぜ災害が起こるとエリートたちはパニックするのか
――「災害ユートピア」の中では、災害時に一般市民のパニックが起こると想定し実際にパニックするのはエリートたちであり、むしろその“エリートパニック”こそが社会を危険に陥れると説明している。
エリートパニックは、優れた災害社会学者であるリー・クラークとカロン・チェスの言葉だ。
説明するとこういうことだ。われわれの社会制度は競争や利己主義に基づいて作られているので、競争心や利己心の強い人間が成功して、社会のトップ に上り詰めるようになっている。彼らの目から見ると、世界全体が競争社会だ。だから、災害時には略奪のような事件が起こると恐れ、その恐怖に駆られた過剰 反応からパニックを起こす。
彼らがパニックを起こすことは、一般市民が起こすよりも、重大な影響を社会に与える。なぜなら彼らには権力があり、その高い社会的地位を利用して情報操作を行うことなどができるからだ。
――ハリケーン・カトリーナでは、住民による略奪もあったと報じられたが。
私は、カトリーナ以前からリサーチを始めていた。結局ニューオリンズにはこれまで12回も行き、多くの生存者に話を聞いた。そこでわかったのは、ごく少数悪事を働いた人間はいたが、多くの人々が他人を助けようと勇敢で素晴らしい行動に出たということだ。
たとえば、ドネル・ハリングトンという若者は、避難するのを拒んだ祖父母と共に貧民街の家に残った。その場所が洪水に襲われた時、いとことボートを探し出 してきて、付近に取り残された何100人もの人々を運搬した。祖父母を運んで、それで終わりにもできただろう。だが、見ず知らずの他人も助けたのだ。とこ ろが、白人ばかりの海軍がやってきた時、こともあろうに、黒人の若者だというだけの理由で、彼を略奪者扱いして狙撃した。ボートを漕いで、住宅地に入ろう としていたからだ。幸い、彼はこれまた利他的な人々によって病院に運び込まれ、一命を取り留めた。
ここからわかるのは、エリートパニックは(情報操作どころではない)第二の災害を引き起こし得るということだ。そして、略奪に見えることも、実際には他人を助けるために行われていたという事実もあるということだ。
――東日本大地震後の被災地の様子から、ユートピアの存在は感じられたか。
残念ながら、英語による報道があまりにひどかったので、はっきりしたことはわからない。アメリカでの報道が、日本人は整然としてお行儀がいいというクリシェ(常套句)に終始していたからだ。
しかも、その後は原発報道だらけで、問題は日本のことではなくて、自分たちのことに変わってしまった。日本から5000マイル離れたサンフランシ スコや8000マイル離れたニューヨークで、人々が放射能を心配し始め、被災者への理解や同情は消えたのだ。私自身は、カリフォルニア州という原発もある 地震多発地帯に住んでいるし、ここは日系人も多いので、災害の現実の様子をもっと知りたかったが、そうした情報はなかった。
次のページ>>束の間のユートピアが消えた後に、われわれに残るものとは
――災害ユートピアに話を戻そう。あなたも指摘しているように、ユートピアは束の間の存在でしかない。夢のように現れて消えた後に、われわれの手元に残るものは何かあるのだろうか。
二つのことが言えるだろう。まず、あなたは「夢のように」と言ったが、私は「目覚め」と呼びたい。つまり、もっと深い現実へ、もっと大きな世界に目覚めるということだ。
災害は、文字通り人々を揺り起こすものだと思う。ほとんどの人は寝返りを打って、再び眠りに陥るだろう。だが、2001年9月11日の同時多発テ ロ事件や05年8月のハリケーン・カトリーナの後に、積極的に政治に参加するようになったり、利他的な活動にもっと従事するようになったりと、人生が根本 的に変わってしまった人は多い。これは命を脅かす病気にかかった人の状態にも似ている。時間を無駄にせず、深い信念のために生きようと決心するのだ。
実際にどの程度か計測するのは難しいが、多くの人は元の仕事場に戻っても、市民社会やコミュニティを以前より大切にするようになる。人生における優先順位や自分とは何者かという感覚が変わるのだ。
もうひとつは、そうした意識を保ち続けるには鍛練が必要だということだ。ものへの無執着や他への慈愛といったことは、積極的な訓練があってこそ持 続できるものだ。革命は一時的に開放性や可能性、団結をつくり出す。災害も同じだ。だが、革命や災害の後、良くなる社会もあれば、悪くなる社会もある。要 は、可能性の窓が開けられ、何かを手渡された。さて、ここからどうするか、という問題なのだ。
振り返れば、ハリケーン・カトリーナ後にも災害資本主義のような動きがあり、災害を餌にして儲けに走った人間もいた。ブッシュ(当時)大統領は、 自分の支持者においしい工事を回したりした。とんでもないことはたくさんあったのだ。だが今やニューオリンズでは、熱心な市民の参加のもとで復興が進めら れている。他人任せにせず、マスコミも信用せず、自分たちでコミュニティを組織化し、事にあたっているのだ。こうした市民の動きはメキシコ湾原油流出事故 後にも見出すことができた。
次のページ>>サンフランシスコが2度の大地震を経て学んだこと
――日本では東日本大震災や原発事故への政府の対応が遅く、国民はひどく落胆した。そもそも政府に何かを期待し、まともになるよう求める議論自体が間違っているのだろうか。
いや、そうした議論自体は素晴らしい。災害が起こってはじめて、人々は政府とは何か、いったい政府に何が期待できるのかを知ることができるし、深く考えることになるからだ。
アメリカでは、1970年代の大型ハリケーン後にFEMA(緊急事態管理庁)が設立された。FEMAはクリントン政権下では優れた政府機関であ り、今またオバマ政権下で良質な機関に戻った。ブッシュ政権下では、政治的組織となり、政権がテロリズムに焦点をあてすぎたため、ハリケーン・カトリーナ にうまく対応できないという惨事を呼んだ。だが、先述したように、注目すべきは、カトリーナ後に市民のコミュニティがより機能するようになり、政府に要求 を突きつけるようになったことだ。民主主義における政府の質の向上は、何といっても国民の圧力の大きさいかんにかかっている。
たいていの民主主義社会では、人々が積極的に政治参加していないので、国民のことを眼中に入れず自己利益の追求に走る政治家が多くなるものだ。そ の意味でも、政府の過失を指弾し、国民への責任遂行を求める災害時の人々の怒りは極めて生産的なものだと言える。また、機能不全に陥った政府のひどい姿を 見て、一体政府とは何かを考えるようになることも悪いことではない。
――つまり、政府には向上するよう求めながら、完全な信頼は置かないということか。
そうだ。それに、政府は官僚制度で成り立っており、よくオバマ大統領がオーシャンライナー(スケジュール通りに大洋を渡る船)にたとえるように、大きくて動きが鈍い。方向を変えるだけでも、計算とやりとりに大変な時間がかかる。
それに対して、災害時の最初の救援者は、市民社会、コミュニティ、近所の住民、あるいは、そこにたまたま居合わせた人々だろう。普通の人々は、自己組織化に長けている。ところが、政府は、地震や二次災害の火事が起こると、そのすべてに対応するリソースを持たない。
サンフランシスコ市は1906年と1989年に大地震に襲われ、その経験から非常に美しいことを言っている。つまり、救済者は市民であって政府で はない、と。だから、市民を管理すべき対象や敵としてではなく、協力者とみなし、彼らに訓練をほどこして必要な道具も与えている。訓練を受けた市民の数は まだまだ十分ではないが、救援や消火、トリアージ(災害時の治療優先順位分け)を市民が自分たちで行えるようにしているのだ。
次のページ>>人ではなく資産を守ろうとして第二の災害になり果てた軍隊
1906年の大地震後には、軍隊が市内に入り、他人を救い出そうとする人々を押さえつけ、さらに500人以上の市民に対して発砲した。軍隊は、人 ではなく、不動産などの資産を守ろうとするあまり、自身が第二の災害になり果てたのだ。現在のアプローチは、その苦い経験を繰り返さないためのものだ。
――ユートピアは、災害時以外では実現されないのだろうか。法律などによって、社会制度に組み込むことはできないのか。
アメリカでも進歩派の人々が、もっと親切で寛大で、市場主義的でない世界をつくるべきだと叫んでいる。だが、そんな世界はもうできている。たとえ ば、親は子供を育てるのに金を取らないし、友人の話を聞いてあげた後に請求書を送りつけたりはしないだろう。もちろん、ボランティア活動や慈善事業をする 組織もたくさんあり、すでにそうした社会は存在しているのだ。
つまり、こういうことだ。政府や企業など公式の組織は冷徹で、貧困を生み出し、食糧や医療や住まいに恵まれない人々を生み出す。だが、非公式な組 織がその埋め合わせをし、ホームレスの人々を助けたり、病院でボランティア活動をしたりしている。目覚めた人々がいて、彼らが非公式な制度として、隠れた 「心ある政府」として機能しているのだ。
災害は、彼らの存在を求めるだけでなく、顕著に光をあてるのだ。この世は資本主義だと言われるが、こうした非公式な制度が多くの生命の持続を可能にしていることを忘れてはならない。
次のページ>>人生とは本当にプライベートなものなのか
――東日本大震災に伴う原発事故は、安全対策を怠った人災でもあった。ユートピアは、この種の人災後にも見られるものか。
先ほど述べたように、日本で実際にどうなっているのかは分からないが、そもそも人災と天災を分けて議論する必要はないだろう。この本を書く際に話 をした災害社会学者たちの多くは、純粋な自然災害などないと言っていた。日本では、以前大津波に襲われた地域に建造物を建てる許可が下りていた。これは人 間が下した決断だ。
また、冒頭で述べたとおり、人災の最たるものである世界大戦後にも束の間のユートピアは出現した。独裁政権下の社会にも共通して見られる。束の間のユートピアとは、換言すれば、地獄の中のパラダイスなのだ。
そう考えると、われわれは今、なんと災害の起こりやすい時代にいるのだろうか。貧困問題、過剰な都市開発計画、気候変動など、われわれを脆弱にす る要素は枚挙にいとまがない。そうしたなか、自分たちが誰で、どんな人生を送りたいかを考えることは、今、非常に貴重なことだと私は思う。
われわれは、ともすれば、心理的な私有地の中に生きていると思いがちだ。人生とはプライベートなもので、愛もロマンスも家族も消費も、休暇までも がプライベートなものだと感じてしまう。だが、それは本当に私たちが望んでいる世界なのか。災害の際に見せる人間の姿が人間の本質だとすれば、その発露を 阻む日常は、別のかたちの災害ではないのか。是非考えてもらいたい。
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