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第2回】 2011年4月12日香山リカ [精神科医、立教大学現代心理学部教授]
被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある
共感疲労を起こすと、
冷静に話を聞けなくなる
前回少し触れましたが、今回は共感疲労について掘り下げてみたいと思います。
「その人の身になって考えましょう」
「相手の立場に立って発言しましょう」
私たちは、親にも学校の先生にもそう教えられてきました。共感するという行為は、本来は褒められて然るべきことです。
共感する心を待てない人は社会から非難され、人の心がわからない、相手の立場に立てない、相手の痛みに対する想像力がないと言われます。特に若い世代がその批判の対象となっていますが、この大震災ではそうした人たちも被災者の身を案じました。
「なんて可愛そうなんだろう」
「たいへんだろうな」
津波によって家族を失った人、住むところを失った人の映像を見て、直接被災地に行って被災者に触れたわけでもないのに、思いを寄せ過ぎて精神が疲労しているのです。これが共感疲労です。
共感疲労はそもそも、介護士、看護師、ボランティアなどといった被害者や被災者を直接支援する人に起こりやすいものだと言われています。
具体例を挙げると、児童養護施設で働く人たちです。虐待を受けた児童と寝食を共にしながら接していくなかで、その子たちが親から受けた虐待行為を直接聞き、子どもたちの気持ちに感情移入し過ぎてしまい、ストレスとなってしまいます。
精神科医として仕事をしていると、よく「相手の悩み事を聞いていると精神的に疲れるでしょう」と言われます。けれども、患者さんの悩みを聞いていちいち疲れていたら、精神科医としてやっていけません。
私たち精神科医は、共感疲労を避けるためのトレーニングを受けています。なるべく相手から距離を置いて、相手の身にならないように話を聞く。私だったらどう思うかとは考えない。基本的に、共感し過ぎない態度を取りながら相手に向き合うのです。
自分の心を消して話を聞くというと、冷たい人と思われるかもしれません。でも、共感疲労に陥ってしまっては冷静に話を聞くことができなくなります。身がもたなくなってこちらが倒れたら、精神科医は務まらないので、そのためのトレーニングを受けるのです。
次のページ>> 「これは私のことではない」と思うこと
他人事として捉える
「分離」のメカニズムで心の平衡を保つ
とはいえ、精神科医も人間です。ときには思わず涙してしまうこともあります。100パーセント共感しないということはあり得ませんし、やろうと思ってもできません。
特に家族や親しい友人であればなおさらです。日常生活のなかで他人に共感するのはごく自然な感情ですが、心が疲労するところまで至らないのが普通です。
災害が起こると、直接関係のない人は、どこか高みの見物のようなところがあるものです。
災害の映像を見て「たいへんね」と思いながらも、「私じゃなくてよかった」「私の大切な家族は無事でよかった」と考える。被害者に同情しながらも、わが身と家族の安全を確認し、安心するのです。これは決して卑屈な考えではなく、どんな悲惨な事件や災害でも必ず起こる健全な心理です。自らの身を守るためのメカニズムといってもいいです。
ところが、今回の大震災は「私じゃなくてよかった」とは考えられないほどの規模でした。「私には絶対に起こらない」と安心できる材料もありません。原発の被害まで含めると、今回の災害を他人事として切り離すことができないのです。
他人事として切り離す行為は「分離」という心のメカニズムで、誰にでも備わっている心の防衛反応です。何かが起きたときに「これは私のことではない」と思うことで、心が不安定な状態に陥るのを防ぐ機能です。
被災していない人たちの心を共感疲労が支配し、「分離」メカニズムが働かない一方で、被災地にそうした人たちがいます。すべてを失ったのに、淡々としているのです。あまりにひどいことが起きたためある種の「分離」が起こり、どこか人ごとのように振る舞うことで心を落ち着かせているのだと思います。
ただしこの場合、心の崩壊を防ぐための一時的な「分離」は必要ですが、それが続く事態は避ける必要があります。すべてを失ったという現実が襲ってきたときに、パニックになってしまうからです。当初の緊急避難的な心理として「分離」は有効ですが、少しずつ現実を受け入れる方向に向かわなければなりません。
次のページ>> 一人ひとり震災への反応は違っていい
震災への受け止め方は人それぞれ。
反応の仕方も人それぞれでいい
被災地では多くの人が命を落とし、いまだ行方不明の方が多数いらっしゃいます。そのなかで、何日が経ってから家族の生存が確認された人が、テレビのインタビューに「周りの人たちのことを思うと、申し訳ない」と語った姿が印象的でした。
「私じゃなくてよかった」と思える状況でも、罪悪感を持つ人が少なくないのです。そして、これは直接被災していない地域の人たちにも見られる現象です。共感疲労を端緒とした罪悪感と言ってもいいでしょう。
ある人は、何も被害を受けていないことが申し訳ない、無事でいることが申し訳ないと言います。考え方としては珍しいことではなく、戦場や被災地を取材したジャーナリストが、何も被害を受けていないことに罪悪感を抱くケースは以前からありました。
今回の大震災でも、被災地の取材から帰ったテレビのレポーターが、周囲がものを食べたり飲んだりしている姿を受け入れられず、自分がいたもとの世界に戻れなくなったという話を聞きました。ジャーナリストが抱く心理としては不思議ではありませんが、一般の人にまでその傾向が表れている点が今回の特徴です。
もう一つは、何も支援できなくて申し訳ないという考えです。多くの人がボランティアやチャリティをやっているのに、自分は何も行動していない。まして、自分は義援金もあまり多く払う余裕がない。そんな人が、誰かに強制されたわけでもないのに、自分を責めてしまう。こんなことで心を痛めている人がいるというのは、本当に不幸なことです。
いまや日本は一致団結して「自粛」をしようという空気が蔓延しています。それはあたかも一人ひとりの行動を強制的に制するかの雰囲気が漂っています。自粛をしないと「不謹慎」と白い目で見られてしまう。これは社会として決して健全ではありません。
一人ひとり、今回の震災の受け止め方は違い、それに対する対応も違って当然です。それを共感を押し付けるかのような動きによって、多くの人が苦しんでいます。
次のページ>> 無理してやっても、いいことない
自分のことを自分で支えること。
これがいま被災地への最大の支援となる
一方で、自粛ムードに抗って、普段どおりの生活を送ろうにも「経済を回すために…」「こういうときだからこそ…」などと、まるで言い訳しないといけないかのようです。大きな惨事があったからと言って、社会全体で同じ対応をする必要はありません。遊びたい人は遊べばいいし、静かにしていたい人は静かにすごせばいい。無理せず、自分をいたわることです。無理してやっても、いいことありません。
共感疲労、そこから派生する罪悪感によって心の調子を崩す人は、もともと思いやりのある優しい性格の人です。それも否定しなくていいのです。しかし、その疲労によって、結果的には被災者への支援とは逆向きの効果になっています。
いま被災地以外の人がもっとも大切なことは、自分で自分を保つこと、自分のことを自分で支えることです。それによって、世の中の多くの資源が被災者へとつながるので、それが、最大の支援になるのです。そのためには、社会としてある行動を強制せずに、それぞれの人が無理なく過ごせるような情況が大切です。
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