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震災当日の運命の分かれ目          ウォール・ストリート・ジャーナル
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/117.html
投稿者 愚民党 日時 2011 年 4 月 13 日 07:20:10: ogcGl0q1DMbpk
 

               壊滅的な被害を受けた戸羽氏の自宅


震災当日の運命の分かれ目

2011年 4月 12日 22:27 JST


ウォール・ストリート・ジャーナル

http://jp.wsj.com/Japan/node_221071

【陸前高田】激震が市庁舎を揺るがす数分前、岩手県陸前高田市の戸羽太市長(46)は、この海沿いの小都市の市長に就任して以来、ひと月ぶりに静かな金曜の午後を過ごしていた。


 3月11日午後2時40分、戸羽市長は妻の久美さんに電話をし、夕飯は息子2人を連れて焼き肉にでも行かないかと提案した。妻は、子どもたちが学校から帰ったらメールで返事をするね、と約束した。

 2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード9の地震がこの町を揺るがし、電気と電話を不通にした。その後間もなく、高さ12メートルを超える黒い水の壁が6メートルの堤防を突き破り、市の中心へと流れ込んだ。

 市長と数十人の住民は、市の中心街にある鉄筋コンクリート4階建ての市庁舎の屋上目指し、慌てふためいて階段を駆け上がった。津波の水位は、市庁舎の最上階に達するほどだった。

 トラックやバスがもんどり打って倒れた。基礎から引きはがされた住宅は海へと流され、中にいた人々は泣き叫んで助けを求めた。

 自宅の方向を振り返ると、すべての家が押しつぶされようとしていた。木材がバラバラになるすさまじい音がしたという。

 戸羽氏の息子の大河君(12)と奏人君(10)は高台にある学校におり、津波の難を逃れた。しかし妻はいつものように自宅にいた。

 「みんなのことを無視して車で行くかな、と思ったが、でもそれもなかなかできない」と戸羽氏。市長として、職員を安全な場所に導く必要があると思っていた。「ちゃんと逃げればいいけどな、と思っていたが」。

 ようやく水が引き始めると、町は壊れた車、砕け散った木材、ねじれた鋼材が散乱する廃墟と化していた。銀行はすべて押し流された。ガソリンスタンドも消失。食料品店も、病院もなくなっていた。

 陸前高田市の人口の10分の1にあたる2,300人以上が死亡あるいは行方不明となった。

■厳しい復興への道

 震災からひと月、戸羽市長は、日本が史上最悪の自然災害からの復興を目指すなか、途方に暮れるほど困難で重い責務を担っている。

 政府は、ただでさえ落ち込んでいた東北の太平洋沿岸をどうやって再建するか、あるいはそもそも再建すべきかどうかすら決めかねている。戸羽氏ら地方の政治家が下す決定は、被災地が今後、存続し繁栄を取り戻すことができるかどうかを決定づける。

 港湾都市神戸を破壊した1995年の阪神・淡路大震災、東京周辺で10万人の死者が出た1923年の関東大震災 ――こうした地域は速やかに復興した。しかし、陸前高田をはじめとする今回の地震と津波の被害を受けた東北のリアス式海岸沿いの町々は、東京や神戸とはまったく異なる。

 この地方は、震災のはるか前から長く苦しんでいた。若者の多くはよりよい暮らしを求めて地元を離れ、あとには、高齢者と斜陽産業が残されていた。悲観論者は、先細りしつつある市町村の再建に投資することの経済的意味を疑問視する。

 ある土曜の午後、戸羽市長は、市の学校給食センターに設けられた仮庁舎の災害対策本部で、こんな状況の中、市長を務めるのはつらいと弱音を吐いた。また一からやり直さなければならないのだから、と。

 ベージュのジャンバーに揃いのズボンという借り物の防災服に、リーボックの黒のスニーカーを履いた戸羽氏。残り少なくなったマールボロ・ウルトラライトを吸いつつ、首から下げた携帯電話で国や地方の当局者と話し込みながら、仮庁舎の外の舗道を行きつ戻りつしている姿をよく目撃されている。

 戸羽氏のこれまでの成果 ― 陸前高田に残っている車両の一部をさらに数日走り続けさせられるだけの燃料の調達や、家を失ったまま市内に残っている1万人の避難民のための生活物資の確保 ― は、ある意味、前途に控える任務の途方もない大きさを浮き彫りにしている。

■津波で妻が行方不明に

 市長としての職務に没頭していても、久美さん、大河君、奏人君と過ごした日々を心の片隅から完全に消し去ることはできない。息子たちは戸羽氏の叔父に預けた。時間が許せば息子たちに会いにいくが、夜もたいてい、災害対策本部のデスク脇の布団で寝泊まりしている。

 町の中心街にあった自宅は、震災直後にちらっと見たが、戻ることはできなかった。あまりそばまで近づけなかったため、まだ残っている骨組みの上に別の家の屋根が乗かってしまっていることぐらいしか確認できなかった。

 戸羽氏の自宅を訪ねてみた。1階のクローゼットには泥をかぶったジャケットと数本のネクタイが下がっていた。床には写真が散乱し、その中には、グレースーツ姿の若き日の戸羽氏と久美さんの結婚式当日の写真もあった。泥まみれの別の写真には、青緑色の袖の白いTシャツを着た、肩までの長さの黒髪の久美さんが、息子の1人を両腕で包むようにして笑っていた。

 戸羽氏は震災後の数週間、忙しさのあまり、遺体安置所まで足を運んでそこに久美さんがいるかどうか確かめることもできなかった。見つけてしまうのも怖かった。

 3月末、戸羽氏は、夫として妻を捜しに行きたいが、復興活動を陣頭指揮する必要があるし陸前高田の多くの住民は自分と同じ境遇にある、と語った。

■日本百景の松林も消失

 陸前高田には1,000年前から人が住んでいた。背後に山を控えた平野に広がるこの町は、ホタテやウニ、東京のレストランで1個400〜500円もするカキで有名だ。高田松原と呼ばれる砂浜沿いに延びる松林は、かつて国によって、日本百景の1つに指定された。

 一方、ここには津波の歴史もある。1960年のチリ地震が引き起こした津波では、8人が死亡し、海岸付近の地域が水浸しになった。

 しかし、3月11日の津波ほど内陸まで到達した津波はこれまでなかった。

 大急ぎで住民に警報を出しにいった市職員らは波にさらわれた。市長の顧問の1人は高齢の女性をおぶって避難しようとしたが、おぶったままではとても逃げおおせないことを悟り、市庁舎の2階の階段踊り場に女性を置き去りにした。「ごめんね、おばあちゃん」と言い残して。その後、その女性の姿を見ることはなかった。

 津波は、緊急避難場所に指定されていた中心街の市民体育館の壁を突き破り、避難していた数十人の住民ほぼ全員をのみ込んだ。

 2人の消防士は消防署屋上の火の見やぐらにしがみついていた。ヘリが2人を救出し、暗くなる前に中心街のビルの屋上からも数人の生存者を無事救い出した。そこかしこで爆発するガスボンベが火柱を上げた。

 午後7時ごろには雪が降り始めた。一部の被災者は木材の切れ端をかき集めてかがり火をたき、暖を取るとともに救援隊への目印にした。戸羽市長と残った市役所の職員らはラジオのまわりに集まり、ニュース速報に耳を傾けた。

 余震は夜通し続き、濁った波が寄せては返した。戸羽市長は、庁舎全体が倒壊することを懸念していた。ただ夜明けが来るのを祈るばかりだったという。

 夜明けから、市の職員は安否確認に乗り出した。これまでに約2万3000人の住民のうち、1100人の死亡が確認されている。1200人近くが依然行方不明で、絶望とみられている。体育館に設けられた仮遺体安置所にある数百の遺体は、まだ身元が分からない。

 警察署長、2人の市議会議員、3人の学校幹部職員が津波にのみ込まれた。市職員も3分の1が亡くなった。

■被災者の迷い

被災者の多くは、地元にとどまるべきかどうか考えあぐねている。建設作業員のストウ・アキラさん(55)は、冷たい海水の壁になぎ倒されたときのことが脳裏を離れないという。避難しようと、母親(82)と二人で自宅から飛び出したところを津波に襲われ、握っていた母親の手を放してしまった。

 母親は、もうだめだ、とあえぎ声を上げたきり、津波にのまれたという。遺体はまだ回収されていない。

 妻と2人の子どもとともに緊急避難所の学校体育館に滞在しているストウさんは、できれば地元に残りたいと語るが、実際、それが可能かどうか分からないという。

 地場産業の柱さえ揺らいでいる。

 陸前高田最大級の雇用主の1つだった酔仙酒造の今野靖彦社長(64)は、市の中心街にあった酒蔵を再建すべきかどうかまだ決めかねているという。津波は酒蔵に穴をうがち、緑色の巨大な金属製のタンクを5キロメートルも先に散乱していた。

 今野社長は、この町生まれだが、ここで商売をしているのだから、町がこの被害から立ち直れるものかどうかを考えなければいけないと言う。周りに何もないところに酒蔵を建てたところで意味がない、と。

■復興を急ぐ

 戸羽市長は、地元にとどまるよう住民を説得することを自らの重要な仕事の1つととらえている。地元を引っ張る立場にある市民たちが地元を離れてしまわないうちに復興の進展ぶりを示すべく、国と県から十分な支援を引き出そうと考えている。

 その再建に必要な人員を確保するため、今年定年を迎える市職員には退職を先延ばししてくれるよう、説得に努めてきた。

 市はいままでより小さくなるかもしれないと市長は言う。しかし妻は行方不明だが、息子たちは健在なので、彼らが大きくなったときにまだ陸前高田があってほしいと願っていると語った。

 息子たちの顔を見るにつけ、頑張るしかないと思うと戸羽氏はいう。これが自分の定めなのだと割り切って、やるべきことをただやるしかない、と語った。

■市議から市長へ

 18年前に陸前高田市にやって来たとき、こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。

 東京都下で生まれた戸羽氏は、28歳のときに海辺のこの町に移り住んだ。不況のため、東京でコンピューター・プログラマーとして生計を立てるのが難しくなったためだ。戸羽氏がこの地を選んだのは、そこが父親の生まれ故郷だったからだが、この土地の自然の美しさとのんびりした雰囲気がたちまち気に入ったという。

 陸前高田にやって来てすぐ、戸羽氏は地元の鶏肉加工会社に就職した。そこで出会ったのが、沿岸の北寄りにある別の小都市出身の久美さんだった。

 久美さんは7歳年下。黒い髪に上品な顔立ちで、年より若く見えたという。宝石店で二人がエンゲージリング選びをしているとき、店員が、娘さんのためのお買い物ですかと尋ねたことを戸羽氏はいまも覚えている。「いまでも20代くらいに見えていた」と戸羽氏は言った。

 久美さんは、年代物の米国製ファイヤーキングのガラスのマグカップを集めていた。小物を作るのが好きで、携帯電話にぶら下げる型押し模様の入った革製の小物などを作っては、仲間とテントで販売したり、空いている店を借りて販売したりしていた。

 政治家になるという夫の決断に久美さんは一度も異を唱えなかった。本心は嫌がっていたかもしれないが、「歳が離れていることもあるのか、わたしの言うことには逆らわないで何でも協力してくれた」と戸羽氏はいう。

 政治家への転身は、実は戸羽氏本人の考えですらなかった。父親が政治に関わっており、十数年前、市議会選挙が間近になったとき、父親が戸羽氏の後援会組織を作ってしまった。ある日、戸羽氏が帰宅すると、「近所のおじちゃんとか、おばちゃんが150人くらいいて、拍手で迎えられて、何のことだか分からなかった」という。

 10年ほど前に亡くなった父親は、当時戸羽氏に、やることはたいしてない、ポスターを何枚か貼るだけでいいと請け合った。しかし父親の知らぬ間に、息子はいつしか選挙運動を繰り広げ、大勢の人に向かって演説をしていた。

 市議に当選するや、戸羽氏は、暇を見つけては近所を歩き回って住民の話を聞き、住民の要望に気を配った。

 ほどなく戸羽氏は一介の市議でいる限り、できることは限られていると悟った。「議員になってから、いつかは村長でもなんでもいいから、自分の思いで、町づくりができる立場になりたいと思った」という。

 その後、数年助役を務めたが、市長が病気で再出馬しないことを決めたため、市長選への出馬の意向を固めた。戸羽氏の決意を聞いた久美さんは、「うん、わかった」と言っただけだったという。

戸羽氏は市長選で、長年にわたる多額の財政支出に伴う市の負債の縮小を訴えた。戸羽氏の夢は、日本の富裕な高齢者層を呼び寄せ、陸前高田の浜辺を人気のリゾート・保養地にすることだった。

 今年2月市長に当選した後、戸羽氏は、市の予算編成と、地元の要人への表敬訪問に取りかかった。妻と一緒に過ごす時間があまりなくなるのは分かっていたが、そうした時間はいずれまたできるだろうと思っていた。

■市長としての覚悟

 市長として取り組もうと思っていた課題は、震災の発生で棚上げになった。震災直後の数日、戸羽氏は努めて平静を保とうとした。妻の消息は不明だったが、破壊の規模 ―そして、がれきの下敷きになった何百人もの行方不明者 ― を思えば、妻のことを考えている余裕はなかった。

 自宅は大量のがれきに行く手を阻まれて近づくことができなかった。政府の捜索・救助部隊が一帯の捜索にあたっていた。

 電気もなければ、救援物資もほとんどなかった。深刻に助けが必要な住民が何千人もいる。市長は自分にできることに集中することにした。被災者の救援だ。

 仲間に頼み込んで、できるだけたくさんおにぎりを作って被災者に配った。より多くの救援物資が届くよう、道路復旧を自衛隊に要請した。だが数週間後に振り返ったとき、記憶がおぼろげで何をしていたのか思い出せない部分が多かったという。

 震災の1週間後、食料と水が定期的に到着し始め、自衛隊が入って救援活動を開始した。しかし、歯ブラシや紙おむつといった必需品の不足はまだ続いていた。

 震災の1週間後に戸羽市長は、市の漁業の復興や、その他の再建活動についてはまだまだ先の話だと話した。最も切実なのは、ガソリンと高齢者に十分な医薬品を確保することだった。

 支援拡大の必要性を政府関係者に納得させるため、市長は国会議員を招き、市の緊急避難所の1つで一夜を過ごして欲しいと頼んだ。国の救援活動の遅さを知ってもらいたかったのだ。震災から3週間後の首相の陸前高田視察について尋ねられた戸羽氏は、ようやく、と言った。

 日がたつにつれ、日々の定例業務が定まってきた。毎日午後には、沈痛な面持ちで記者発表を行い、新たに遺体が発見された犠牲者を加えたリストを配布する。妻のことや子どもたちのことを考える時間はあまりなかった。ただ、息子たちとはときどき電話で話をした。

 生き残った市職員らは、コンピューターをかき集め、学校給食センターの災害対策本部で仕事をしていた。消防と警察のための仮詰所が駐車場を挟んだ向かいに設けられた。水道がないため、裏手に溝式トイレが掘られた。

■仮設住宅が市民を引き留める

 戸羽市長は電話を総動員して県当局者に連絡をとり、仮設住宅の建設開始を強く求めた。これは市民の流出を防ぐのに不可欠の措置だった。菅首相が戸羽市長に、住民を被害の少ない内陸の都市に一時移してはどうかと伝えたが、戸羽氏は断った。

 地域のきずながとても強い土地柄なので、住民をばらばらに避難させることはできない、と戸羽氏はいう。

 3月26日、仮設住宅の建設がようやく始まった。同市の仮設住宅建設着手は被災した自治体中でもっとも早かった。屋内配管・暖房付きのプレハブアパート36戸が大勢の建設作業員によって緊急避難所となっている中学校のグラウンドに急ピッチで建てられた。入居者の抽選には1000人以上が応募した。

 戸羽氏は、ほかにもいくつかの小さな成果を収めた。地元の衣料品メーカーの経営者に掛け合って、緊急避難所で暮らす女性が切実に必要としている女性用下着の寄付を受けた。

■復興事業の財源はどうなる

 緊急支援という喫緊の任務にめどがつき始めるにつれ、陸前高田市が直面する課題の大きさがいやが上にも明らかになってきた。

 橋、道路、鉄道は、黒い津波によって破壊された。送電網はすっかり流された。10年前に百数十億円で建設された廃水処理施設は跡形もなく消え去った。かつて市を守っていた巨大で高価な防波堤は崩壊した。市内の低海抜地区を守るためには、まず防波堤から作り直す必要がありそうだ。

 市役所に保管されていた市の文書はほぼ全滅した。契約書、青写真、近年の市税支払い記録はすべて津波にさらわれた。市職員は、破損状況を評価して市内の道路や橋の被害の見積もりや修理には、観光パンフレットから破りとった地図に頼らなければならない。

 市庁舎、消防署、体育館など市が所有するいくつかの建物は倒壊を免れたが、損傷がひどいため、解体しなければならない。戸羽市長は解体のための財源確保に頭を絞っている。市が自腹を切らなければならないなら、新しい施設を建てるための資金は一銭も残らないだろうという。

 陸前高田市の人口は、1970年からすでにじりじり減りつつあり、しかも、65歳以上が人口に占める比率は、全国平均が約20%に対し、陸前高田市では3分の1となっている。これまでの観光客誘致プロジェクトへの支出によって膨らんだ負債のため、再建計画の予算は限られる。そうしたプロジェクトの1つだった「海と貝のミュージアム」は、津波に押しつぶされた。

 市当局は、被害総額の算定にまだ着手していない。政府が再建費用を支払う公算が大きいとみられるものの、出資の時期や額はまだ皆目見当が付かない。

 再建には創意工夫が必要になる。ある土曜の午後、戸羽氏は薄くなった髪を手ぐしで整えながら、疲れきった表情で、何か思い切ったことをする必要があると語る。

 1つの案は、中心街を取り囲む山々の1つの頂上をブルドーザーで整地して高台の住宅地を増やした上で、余った土を使って市の中心部の海抜を20メートル高くするというものだ。しかし、その費用は果たしてどこから出るのか。

 陸前高田振興のために戸羽氏がこれまで抱いていたアイデア、すなわち観光は、もはや見込み薄に思える。陸前高田の白い砂浜を観光名所にしていた何万本もの松は、津波によってなぎ倒され、いまでは、わずか1本を残すのみだ。

■復興を担う仲間

 住民を地元にとどまらせようと努めていた戸羽氏は、何人かの援軍を見つけた。1人は、東京でコンピューター・システム・エンジニアとして働くため、何年も前に町を出た佐々木高志さん(35)だ。同世代のほとんどは都会に出たきりだが、佐々木さんは昨年、里帰りを決め、父親の経営する家業の印刷所を手伝うことにした。

 3月11日、佐々木さんは、津波のライブ映像をインターネットに流そうと、デジタルカメラで撮影を行っていた。だが津波の規模を目の当たりにして、父親とともに市庁舎に駆け込んだ。2人は市庁舎の上階で、市長とともに一夜を明かした。

 佐々木さんの母親、おば、祖母は津波で亡くなった。何日も捜し回ったにもかかわらず、自宅や家業の印刷所の痕跡を何一つ発見できなかったという。

 すべてを失ったにもかかわらず、佐々木さんは陸前高田にとどまる決意だという。町に残って再建に取り組みたいと語る。

 津波からひと月、戸羽市長の努力は明らかに実を結び、ますます多くの市民が市長にならい、粉々に打ち砕かれた生活を元に戻そうとしている。先週、市は、日本のほとんどの地域社会に必ず1つはある交番を震災後初めて再開した。

 その近くでは、岩手銀行がプレハブの建物で臨時出張所を開設し、平日4時間、営業している。角を曲がった先には陸前高田商工会が地元企業を支援すべく事務所を開設している。市の仮設住宅に当選した幸運な少数の住民は入居を始めた。

 しかし市内の低海抜地域では、膨大な作業がまだ残っている。がれきの山が脇へ寄せられ、車と土木機械の通り道が作られた。しかし、陸前高田の大部分はまだ、巨大なごみ埋立地さながらだ。

 4月5日、戸羽市長は、警察からの電話を受けた。前日が39回目の誕生日だった妻の久美さんに似た遺体が安置所で見つかったという。遺体が発見されたのは、自宅から数百メートルほど坂を上った場所だった。

 戸羽氏はその後も公務を離れられず、数時間後、ようやく遺体安置所へと足を運んだ。遺体はひどく損傷していたが、久美さんに間違いなかった。

 息子たちに何と伝えたものかいろいろ考えたが、時間がたって痛んだ遺体を2人には見せたくないと思った。母親のことをそんな姿で記憶に刻んでほしくなかった。「友達みたいにしていたから」と戸羽氏はいう。「わたしが忙しい分、いつもお母さんと一緒にいた子供たちなので、できればきれいなままのお母さんの印象でいてもらいたい」

 遺体の前で、捜しに来なかったことを何度も妻にわびた。市長としての責任があって捜しに来れなかったのだと。

 自分に言い聞かせながらも、釈然としなかった。「そういうのが人としてどうなのか」。そう思わずにはいられなかった。



記者: Gordon Fairclough and Daisuke Wakabayashi

http://jp.wsj.com/Japan/node_221071

 

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コメント
 
01. 2011年4月13日 11:31:03: 1bI51T5To6
戸羽太市長が国のトップならどんなによいか

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