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今回は、震災後一年の感想を書くつもりだ。
3月11日に最も近い掲載日を期するなら、タイミングは、次回の方が適切なはずだ。が、来週はどうせ日本中が震災回顧一色になる。であるならば、その前に言うべきことは言っておきたい。埋没したくないということもあるが、原稿の内容について、余計な詮索をされたくないからだ。
ここで言う「余計な詮索」は、私の側の言い方からすれば「要らぬ心配」ということになる。つまり私は、自分がこれから書く原稿に対して返ってくるであろう反響について、あらかじめ神経質になっているのである。
実に面倒くさい事態だ。説明しにくい状況でもある。が、このことは、今回の主題とも関連しているので、一応解説しておく。
思うに、震災以来、わが国の言論状況は、目に見えて不寛容になってきている。私が、「余計な詮索」を恐れるのは、この「不寛容」な空気と無縁ではない。具体的に言うと、私の原稿の内容が、ほかの誰かがどこかで書くかもしれないテキストと重複していた場合に、即座に「パクリ」を指摘するみたいな空気が漂っているということだ。で、私は、そういうふうに言われるのが心外だから、その不愉快な指摘を回避するべく、ひとまわり早いタイミングで原稿を脱稿する決意を固めているわけだ。
過剰反応かもしれない。
でも、震災を機に、メディアの記事をチェックする人々の目が不必要に険しくなってきていることはたしかなのだ。
ふつうに考えれば、たとえば震災について何人かの人間が思うところを書いた場合、内容に似たところがあるのは当然のことだ。なぜなら、マトモな人間の感覚や考えは、多くの部分で重複しているものだからだ。とすれば、誰かと似た原稿を書くことは、書き手にとって、恥じるべきことではない。
なのに、どういうものなのか、震災以来、一部の読者は著しく不寛容になっている。で、書き手である私は、その不寛容さに反応して、いくぶん神経質になっていて、だから、こういうややこしい前置きを書いている次第なのだ。
発端はメディア不信にある。
震災直後に大量配信された情報は、たしかに混乱していた。かなりの部分で誤報や思い込みを含んでもいた。そうした状況からすれば、政府の発表や東電の会見に対して人々が不信の念を抱いたのは当然だし、その彼らの一部がついでに新聞やテレビの報道に対しても疑いの目を向けるようになったことは、むしろ健康な反応だったと言って良いことだ。
でも、それはそれとして、現在、特にネット上でささやかれているメディア不信の言説に、私がうんざりしていることもまた事実なのである。
マスメディア発の情報を鵜呑みにしないということころまでは良い。
複数の情報源をクロスチェックする態度が一般化しつつあることも、基本的には歓迎すべき傾向なのだと思っている。
でも、一部の人々は、疑うだけでは満足せず、一定の予断を持って情報を読み解きにかかる作業を習慣化している。と、この読み方は、「邪推」を生む。別の言葉で言えば、陰謀論だ。
さよう。私は、震災以来、陰謀論が大きな力を持ち始めていることに懸念を持っている。
陰謀論は、いつの時代にもある。
私が学生だった当時も、それは、知的な人たちの心を捉えていた。ここで「知的」という言葉をあえて使ったのは、オリジナルの陰謀論を発明するためには、一定の教養が不可欠で、デキの良い陰謀論には、それなりに秀逸な観察が含まれているからだ。
事実、昭和の時代の陰謀論は、もっぱら知的な人々の娯楽だった。
「キミたち、ニクソン・ショックは、穀物メジャーの陰謀ですよ」
「中東戦争の真の狙いは、中東の原油価格を上昇させることによってアメリカの国産原油を採掘可能な採算ベースに乗せることだったわけだよ」
「知ってるか? アポロの映像って、ハリウッドで撮ってるらしいぞ」
「ブッシュさんが宮中晩餐会でゲロ吐いたのって、あれ、わざとだよね」
「ゴルバチョフのおでこのアザはフリーメーソンへの忠誠の証ですよ」
というこれらの立論は、その真偽はともかくとして、もっともらしいものから笑えるネタまで含めて、それなりの教養がないと楽しめないお話だった。特に、時事問題をベースにした陰謀説は、国際常識や、地政学や、一定の歴史教養がないと、意味を解することができない。だから、昭和のキャンパスにおいて、陰謀ネタをたくさん知っている人間は、こまっしゃくれた学生仲間の間ではなんとなく尊敬されてもいたものなのだ。ついでに申せば、陰謀論を好んだわれわれは、必ずしもそれらを本気にしていたわけではない。あくまでもハイブローなゲームとして楽しむことが、その種の議論を弄ぶ際の不文律で、本気になって悲憤慷慨するのは、野暮な態度と見なされていた。
ところが、ネットという培地を得た21世紀の陰謀論は、秘密の社交的議論である立場を離れて、悪い意味で大衆化している。
悪い意味というのは、ひとつには陰謀論を語るメンバーの知的水準が低下したということであり、もうひとつは、その陰謀論を本気にする人たちが大量発生しているということだ。要するに、陰謀論は、それを語るメンバーの拡散によって質的に低下し、低質化することによって大衆化し、大衆化することによって凶悪化したわけだ。
陰謀論の真骨頂は、
「こういうふうに考えたら面白くないか?」
「こっちから見るとこんなふうに見えてあらまあびっくりだぞ」
という、見立ての奇天烈さと、その奇橋な見立てを本当らしく見せる論理の鮮やかさにある。だとすれば、その場で笑って使い捨てにされるのが陰謀論の宿命でもあるし、潔さでもある。
その意味からすると、本気にされることを期待している21世紀の陰謀論は、そもそも邪道なのだ。
過ぎ去った時代を惜しむわけではないが、インターネットが登場する以前は、与太話にも固有の愛嬌があった。俗流心理学や、ニューエージ怪談や、UFO目撃譚や、ユダヤ陰謀論といった、まかり間違えば相当に有害な話でも、昭和の学生トークは、到達範囲が限られているという意味で安全かつ特権的で、それゆえ、どんなに不埒千万な内容であっても、行きずりの茶飲み話として楽しむことのできるものだった。デマも中傷も罵詈雑言も同様だ。ネットを得る以前、あらゆるジャンク情報は娯楽として消化可能な範囲にとどまっていたのである。
だが、もはやそういう時代は終わった。
インターネットという世界規模の増幅回路に回収された与太は、与太のままでは終わらない。ある場合には有害不滅なゴシップに成長するし、別の場合にはより深刻な情報犯罪を構成する。どっちにしても無事では済まない。個人名を特定できる中傷は、言った者と言われた者の双方を致命的に傷つける。悪意のない事実であっても、そこに立場を超えた言及が含まれていれば、発言者の社会的生命を奪いかねない。
で、震災からこっち、ネット上では、マスメディアを敵視するタイプの陰謀論が猖獗(ろうぜき:ダイナモ注)を極めている次第だ。
「日本のマスメディア(←「マスゴミ」と呼ぶ連中もいる)はひとつに結託して情報を統制している」
「商業メディアは事実を隠蔽している」
「記者クラブメディアは取材チャンネルを独占し、権力と癒着している」
「東電の影響下にある放送局は原発に批判なジャーナリストを排除している」
と、こういうお話を本気でコピペして歩く面々が大量発生しているのだ。匿名掲示板を根城に騒いでいるだけではない。ツイッター経由で、メルマガ経由で、彼らは、上記のような言説を繰り返し発信している。それも実名で、だ。
どういう神経なのであろうか。
無論、マスメディアの側に問題がないわけではない。
商業メディアである以上、ある程度の商業的な腐敗は原理的に避けがたいはずだ。また、情報が権力を伴う以上、それを扱う者が癒着や利権の泥にまみれるケースは当然考えられる。
が、弊害と本質は違う。
欠点を持っているということと、本質的に邪悪だというのは話が別だ。
交通事故を起こすクルマが一定数存在することが事実であるのだとしても、そのことは、すべてのドライバーが潜在的な殺意を抱いていることの証明にはならない。ふつうに考えれば誰にでもわかることだ。
雪が降るのはスキー産業の陰謀のせいではない。
が、陰謀論に固執する人たちは、あらゆる害悪について、「犯人」を探そうとする。
彼らは、「そのことによって利益を得る誰かが背後で動いている」という形式でものを考えることを好む。しかも情報については、「メディアが報じた部分にではなく、報じなかった部分に、より重要な真実が含まれている」と信じこんでいる。
ということは、彼らにとって、世界は見えているあり方とは反対の姿をしているわけだ。
実に厄介な観察だ。
理屈はどうにでもつけられる。
風が吹けば桶屋が儲かる式の論理は、実用上の詭弁としてほぼ無敵だが、陰謀論は、この論理に、「犯人」を仮定することで、より強力な構造を獲得させる。
「考えてもみろよ。どうして春先のこの時期に風速20メートルなんていう風が必要なんだ?」
「暴風によって明らかな利益を得る人間の存在を考えないと説明がつかないだろ?」
「しかも、暴風が砂塵を伴うことを報じているメディアはひとつもない」
「彼らは、砂塵と失明の因果関係を意図的に隠蔽している。なぜなら彼らもまた暴風ムラの一員だからだ」
「暴風ムラの記者クラブメディアは、どうやら花粉の飛散というより軽微な被害を強調することで目くらましをしているんだね」
「というよりも花粉症という病気自体がひとつの陰謀である可能性を考慮すべきなんじゃないのか?」
「つまり首都東京の風上に当たる多摩の山林に大量の杉を植林した者がいるということになる」
「それが桶製造業者だとしたらどうする?」
「杉の桶だ!」
「つながった。すべてが符合した!」
いや、笑いごとではない。この話(杉桶理論)などは、まだまだデキの良い方で、実際に世間に流れている陰謀論は、もっと粗雑で、より救いようがなく、どうにもならないほど悪質だ。なにしろわれわれは、「永田メール」(宛名部分を塗りつぶした電子メールプリントアウト《笑》)みたいなものを「証拠」に、国政調査権を要求した議員を選出した国民なのだから。
今回の震災についても、実に多くの偽情報が飛び交っている。
たとえば、福島第一原発の事故が深刻な事態を迎えている頃、ある週刊誌が、事故処理にあたる自衛隊員の前線基地となっていた「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町にある「サッカーナショナルトレーニングセンター」の愛称)について、次のような記事を書いた。
Jヴィレッジの経営者が部屋を汚されることを嫌って、命懸けで働く自衛隊員を通路で雑魚寝させていたというのだ。
この記事は私もよく記憶している。とても腹が立ったからだ。
が、この話には異論が出されている。
週刊誌の記事が出てから約1カ月後、あるサッカー専門誌にJヴィレッジの現状を伝えるレポートが掲載されたのだ。
読んでみると、Jヴィレッジが自衛隊を通路に雑魚寝させた件について、「どこを見てもそんな事実はない」と書いてある。
なるほど。
記事によれば、一部の自衛隊が床に寝ていた理由は、単にJヴィレッジの寝具が、震災翌日に避難してきた近隣の被災者に提供されていたからに過ぎない。つまり、二つの記事を見比べると、事実関係がまったく逆なのだ。
どちらの記事が真実であるのかについては、私自身が現地を取材したわけではないので、ここで断定することは避ける。
が、ともあれ、世間では、週刊誌の記事の方が圧倒的に受け入れられている。
というよりも、サッカー専門誌の記事は、部数も部数だし読者層も読者層なので、一般の読者にはほとんどまったく知られてさえいない。
だから、Jヴィレッジが自衛隊に対してひどい仕打ちをしたということを信じている人は、いまでもたくさんいるはずだ。私自身、偶然手にしたサッカー専門誌の中でこの記事を発見していなかったら、いまでもJヴィレッジを敵視していたかもしれない。
週刊誌の記事は、とても断定的に、他罰的に、扇情的に書かれている。いま読むといかにも乱暴な書き方だと思う。
が、こういう記事が喜ばれた時期がたしかにあったのだ。
福島第一原発が水素爆発を起こしてからしばらくの間、東電の関係者はどんなにひどい中傷を受けても反論できない立場にあった。この状況はいまでもそんなに変わっていないかもしれない。で、私自身もそうだったが、その、春先の最も困難だった時期、人々は他罰的な情報に飛びつく心理状態にあった。だからこそ、こんなひどい記事が書かれていたのだ。
東電関連については、ほかにもひどいデマが流れている。事故直後、現場を放り出して真っ先に逃亡した原発の職員が福島で酒を飲んでいたとかいった調子の感情を煽るデマが、その目で見てきたような目撃談として、確信的に配給されたのである。なんともなさけない話ではないか。
震災以来、目的のためには、手段を選ばないタイプの論説が勢いを得ている。
通常の意味で言う報道というよりは、プロパガンダに分類したくなるような記事だ。
脱原発を志す人々や、逆に原発の再開に望みを託している人々が、それぞれの主張を補強するために、自分たちに有利な材料を集めにかかることは、ある程度仕方のない傾きであるのかもしれない。
でも、おかげで、メディアにはバイアスのかかった記事が流れるようになっている。そして、そのバイアスが、メディアに対する不信感を生み、そのメディアに対する不信感が奇妙な陰謀論を成立させてしまっている。とても厄介な事態だ。
陰謀論を語る人々は、選民意識を抱いている。この部分は、昭和の時代から変わっていない。彼らは、自分たちが一般人の知らない情報にアクセスしており、ふつうの人間がたどり着くことのできない洞察を抱いているという共犯意識のようなもので結びついている。
結局のところ、
「マスコミが一般人を洗脳している」
という主張は、
「オレ以外はみんなバカだ」
と言っているのと同じことであり、その種の陰謀論を共有している人たちは、なによりも愚民思想によって連帯している仲間なのである。
今週から来週にかけて、震災を主題とした回顧記事や総括報道が大量に出まわることになる。
震災のような歴史的な出来事を一定のタイミングで振り返る作業は、それ自体、とても意義深いことだ。被害の記憶を風化させないためにも有効だし、なにより、通常のニュースとは別の、より巨視的な枠組みで事態を見直す意味で貴重な機会を提供してくれる。おそらく、録画に値する番組や、切り抜いて保管しておくべき優秀な記事がたくさん書かれるだろう。
私自身は、それらの記事を、他罰的であるかどうかを基準に読み直してみようと思っている。
春一番を桶屋の陰謀と決め付けて非難する記事よりは、風力発電の可能性を示唆する記事の方が私は好きだ。
とってつけたような落ちだと思う人はそう思ってもかまわない。
とってつけてでも建設的な結末を求めなければならない。われわれはそういうところに来ている。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120301/229323/?top_rcmd
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