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許せない「中日新聞」 (いすけ屋の戯言) 『社説 河村市長発言 なぜ素直に撤回しない』  
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/723.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 2 月 28 日 20:49:35: igsppGRN/E9PQ
 

許せない「中日新聞」
http://isukeya.iza.ne.jp/blog/entry/2611529/
2012/02/28 16:38 いすけ屋の戯言


(いすけ屋)

 例年なら、明日から3月なのだが、今年はオリンピックの年、つまり「うるう年」なので明日まで2月だ。歳をとると、なんか1日寿命が延びたような、得したような気がする。なんとなく幸せな気分だ。

 ところが今日の我が家で取ってる「中日新聞」を見て、またまたがっくりとさせられた。中日新聞・東京新聞は朝日新聞以上の左巻き中国隷属マゾ新聞であることは、当ブログでも訴えてきたところであるが、今日の「社説」でその本性を現した。とにかく下記の記事を読んでほしい。

 タイトルからして、全く変だ。「河村市長発言 なぜ素直に撤回しない」とは、どこの国の新聞なのか。おそらく、この社説子も最新情報を知らない。20年前の論争を傍観していたのみの知識しか持ち合わせていないだろう。

<南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない>というのも、その頃の話であり、「ほとんどいない」として、逃げている。戦争だから民間人でも不慮の死はある。しかし、中国兵は南京市内に設けられた安全区域に逃げ込んで、民間人の衣服をはぎ取り、それを着て日本兵から逃れようとした。それが見つかり処刑されている場面を見たという伝聞を、ラーベは日記に書き、ティンパーリは『戦争とは何か』に書いた。

 20年前は、二人とも第三国の外国人ということで、日本の研究者もそれぞれ1次資料とみなし、「少なくとも〇〇人の虐殺はあった」とする意見が主流で、従軍慰安婦を否定した秦郁彦の4万人説を中間説として、上は40万から、下は「なかった派」まであり、当時南京には20万人しかいなかったのだから、30万、40万はおかしいという上限数の議論しかなかった。

 そのようななか、これらの疑問を完全に氷解させる資科が出てきた。それが、平成15(2003)年に台湾の国民党党史館で発掘された国民党宣伝部の「極機密」文書〔中央宣伝部国際宣伝処工作概要〕(1941年)である。

 その内容は、一つは、南京大虐殺の有力な根拠となっているティンパーリ編『戦争とは何か』は、国民党宣伝部が工作して出版した「宣伝本」であったことが明記されていたこと。もう一つは、国民党宣伝部の宣伝工作の対象として南京大虐殺はあげられていなかったことである。

 この極機蜜文書のなかの「対敵課工作概況」には、宣伝工作の対象として南京の「強姦、放火、略奪、要するに極悪非道の行為」が記されるのみで、南京の「虐殺」の文字はない。「対敵課工作概況」だけでなく編集課その他の「工作概況」においても、国民党宣伝部の宣伝工作の対象として南京の「虐殺」はあげられてい

なかった。第2次国共合作下の国民党も共産党も、南京で大虐殺が起きたという歴史認識は持ち合わせていなかったと言ってよい。

 つまり、南京大虐殺などという事件は、もともとなかったのである。ここまで、知った上で、下記の社説を書くとなると、もうこれは中国の工作員であるしか考えられない。マスコミ界には「左巻き中国隷属マゾ」人間が多い。それにしても、日本の新聞が事実を曲げてでも中国に屈しろというのは、いかがなものか。こういう時に、なんだかんだ行事を中止させるのは中国の常とう手段である。いちいち反応していては、術中にはまるだけだ。向こうが頭を下げてくるまで、シカトするのが、喧嘩の仕方だ。

 それにしても、「中日新聞」は許せない。   


【社説】河村市長発言 なぜ素直に撤回しない   
2012年2月28日
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012022802000015.html

 名古屋市長は「南京事件はなかった」との発言を撤回せず、訪問団にも非礼ではなかったとの考えを、きのう述べた。率直な議論で「ノドのトゲを抜こう」と主張するが、その土台は一体あるのか。

 河村たかし市長は会見で「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言が「南京大虐殺はなかったという持論を展開」と報道され、「南京では何もなかった」と誤解されたと釈明した。

 市長は「象徴的に三十万人とされるような組織的大虐殺はなかったとの趣旨」と説明。「友好団に面と向かって三十万人の大虐殺と申し上げるのは言葉がいかにも残虐なので、あえていわゆる南京事件と申し上げた」と釈明した。

 当初の発言は、市長が南京大虐殺はなかったと公にしたと受け止められる言葉である。報道により南京市民の誤解を招いたというのは、とんでもない責任転嫁だ。

 南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。日中歴史共同研究の日本側論文も「集団的、個別的な虐殺事件が発生し」と明記する。市長自身「非戦闘員の殺害はあっただろう」と認めており、日中で隔たりがある被害者数を問題にする意図であったのなら、そう明言すべきであった。

 市長は共同研究を「学者の個人的見解」と批判するが、国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった。中国主張の「三十万人」を市長が真っ向から否定しては、南京市側は率直な議論のテーブルにはつけぬだろう。

 敏感な問題でも、政治家が主義主張を掲げるのは結構だ。だが、首長は政治家であるとともに自治体のリーダーでもある。歴史的な米中、日中国交正常化の扉を開いたピンポン外交の舞台である名古屋のトップの公式発言としては不適切だった。日中四十周年の記念すべき年に、友好都市が公の交流を停止し、記念行事や経済活動にも影を落とす。苦しい釈明ではなく、素直に撤回できないものか。

 昨年春、南京市の公園で日中の百人以上が友好の桜を植えた。南京出身で十五年以上も名古屋に住む韓金龍さんが中心となり、過去五年で千本余を植えた。韓さんは「手を携えて桜を守り、友情の証しにしたい」と話した。

 「公の交流停止」と言う南京市のシグナルを、敏感に受け止めてほしい。民の交流の根は深く、広い。民の交流を支えてこその市長であろう。


 

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コメント
 
01. 2012年2月28日 21:10:07 : IYyRSPdFJA
【拡散希望】通州事件を忘れるな(2)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html
通州事件・・・「友愛精神」が招いた惨劇
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html
南京攻城戦〜(2)城内突入
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1178.html

南京大虐殺など朝日新聞がねつ造した架空のおとぎ話にすぎないが、通州事件は野蛮な中国人が起した国際法違反の大虐殺だった。日本人は「通州事件を忘れるな」なのである。被戦闘民を大虐殺した罪は重い。


02. 2012年2月28日 22:01:42 : s4HU6UmybU
南京事件を丹念に調べてゆけば、「嘘っぱち」がわかる。

鈴木明氏は詳しく検証している。

歴史は勝者が作るもの。勝者にとって都合の悪いことは隠蔽される。

 「不都合な真実」は見つけに行かなければ見つからない。

学校や、新聞、TVは決して教えてくれない。


03. 2012年2月28日 22:01:43 : 6FjOjAov3A
川村さんひょっとして
市長を辞めるつもり?
その為の確信犯?

04. 2012年2月28日 22:56:26 : FijhpXM9AU
あのさ、何か気がつかない?

いまのシリアでアサドが大虐殺したとセンセーショナルに(大手企業メディアによって)報道されているのと全く同じじゃん。ま、シリアと違うの点はなんと言っても中国に日本軍が居ること自体が不正だった点だけど。でもやり口はそっくりだ。シナリオライターは脈々と同じ手法を受け継いでいる。


05. 大阪府民 2012年2月29日 01:14:52 : 2fc9REJTmRlzM : LGtLUVFW1w
馬鹿ばっか

06. 2012年2月29日 07:54:12 : SoEWAkSupI
この新聞の社説はまっとうだよね。

てか、このブログ主の言ってる意味がわからん。

なんで、国民党が宣伝工作しなかったら大虐殺の事実はないの?

それに国民党はどっちかというと親日本派だよね。虐殺という言葉をあえて使わない可能性もあったよね。

国民党が宣伝工作しなかったから大虐殺がないという論法をくわしくだれか教えてくれ。


07. 2012年2月29日 17:00:51 : LtUTOIQiHA

そもそも新聞社が主張に対して責任を負うことすらない。
米兵にまとわりつくパンパンと同じ構図。

朝鮮半島人、中国人の反日日本人の歴史の偽造と考えないB層に理解は無理。


08. 2012年2月29日 17:14:53 : BnPQDnro5g
>> 06

@「南京事件総合資料集」
http://kknanking.web.infoseek.co.jp

A「兵士たちの記録した「南京大虐殺(引き裂かれた記憶)」
http;//www.ntv.co.jp/document/back/200804.html

http://www.veoh.com/videos/v6608353j9h3gFdf


09. 2012年2月29日 20:22:43 : swsf4Tw1P2
問題にすればするほどこの南京大虐殺が世界に向けて拡散される。

そのうち従軍違反婦問題のようにアメリカの議会で非難決議がされるかも。

宣伝戦に弱い国。言えば言うほど土ツボにはまる。

国粋ウヨ同士だけで騒いで満足していればよいものを。


10. 2012年2月29日 22:33:07 : esmsVHFkrM

南京虐殺はもちろんあった。これをなかったと強弁しようとしている日本の右翼保守は事実を無視しようとしているに過ぎない。

事実について話そう。

南京虐殺については、発生直後から報告され、政府、軍部の上層部はそれを認識していた。具体的には発生と同時に南京の日本領事館から外務省に報告が送られ、それらは陸軍省、海軍省へ送付されている。

当時外務省東亜局長であった石射猪太郎は、戦後1947年東京裁判において、弁護側証人(注目)として以下の証言をしている。

「(1937年)12月13日頃、わが軍が南京に入場する、そのあとをおってわが南京総領事代理(福井敦氏)も上海から南京に復帰した。同総領事代理から本省への最初の現地報告はわが軍のアトロシテーズ(残虐行為)に関するものであった。この電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣はこの報告に驚きかつ心配して、私に対し早く何とかせねばならぬとお話があったので、私は電信写はすでに陸軍省に送付されていること、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべきことを大臣にお答えした。
その直後、連絡会議が私の事務室で行われ(中略)、その席上、私は陸軍軍務局第一課長にたいし右アトロシテーズ問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争においてこれは余りにもヒドイ、早速厳重処置することを切実に申し入れた。同課長もまったく同感で、右申し入れを受け入れた。
その後いくばくもなくして在南京総領事代理から書面報告が本性へ到着した。それは南京在住の第三国人で組織された国際安全委員会が作成した我軍アトロシテーズの詳報であって、英文でタイプされてあり、それをわが南京総領事館で受付け、本性に輸送してきたものである。私は逐一これに目を通し、その概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて、私は次の連絡会議の席上、陸軍軍務局第一課長にその報告を提示し、重ねて厳重措置方要望したが、軍はもはやすでに現地軍に云ってやったとの話であった」。(桐富雄『日中戦争 南京大虐殺事件資料集 第1巻』青木書店 1985年)

このうち、「軍はもはやすでに現地軍に云ってやった」ことの中には、参謀総長閑院宮載仁親王から中支那方面軍に1938年1月4日付けで下達された訓示を、中支那方面軍参謀長塚田攻少将から各部隊に向けて下達した「軍紀風紀に関する通牒」があり、それは以下の通りである。

「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり、惟うに一人の失態は全隊の真価を左右し一隊の過誤もついに全軍の聖業を傷つくるに至らん。(中略)軍紀を厳正にし戦友相戒めてよく越軌粗暴を防ぎ、各人みずから矯めて全軍放縦を戒むべし」。(『続・現代史資料(6)軍事警察』)

さらに陸軍上層部の南京虐殺認識について傍証を続けたい。

当時陸軍軍事課長であった田中新一大佐は、詳細な『支那事変記録』を記していて、その中で、1938年1月12日の陸軍省局長会報において、中国戦線から帰国した陸軍省人事局長阿南惟幾少将が中支那方面軍の軍紀について次のように報告したと述べている。

「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず、現に厳重に取り締まりに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なお絶えず」。(『支那事変記録 其の四』防衛研究所図書館蔵)

また、当時陸軍省兵務局防諜班長であった宇都宮直賢少佐はその回想録において、陸軍中央の南京虐殺対応について以下の通り記している。

「南京の暴行残虐事件についても私は帰京後に聞いた。(中略)私は参謀本部の本間(雅晴)第二部長、渡(左近)支那課長、米(アメリカ)班の西(義章)班長以下に会ってこれらの事件の対策について諮問におよばずながら応えいろいろ進言した。
米班長で大本営参謀の西中佐(31期陸代同期)が実地調査のため直ちに南京へ急行することとなり、広田大佐と協同して事件の究明と解決に努力した。次いで杉山陸相の要請で、本間第二部長も急遽南京に向かい事情調査を実施することとなった。
南京の暴行虐殺事件のニュースについては、日本側はこれを発表することを禁止したが、全世界に知れわたって轟々たる非難の的となったことはまことに遺憾千万だった」。(『黄河・揚子江・珠江 − 中国勤務の思い出』 非売品 1980年)

ここにある本間雅晴参謀本部第二部長の調査結果を受けて、陸軍中央は松井石根中支那方面軍司令官の不作為による南京虐殺発生を確認、松井を処分する方針となったが、それはあくまでも内部処分の形(直接その責任を問わない)をとり、1938年2月14日松井を中支那方面軍司令官から解任して日本に召還した。

このようなことなかれ主義的処分には陸軍中央内部にも不満が残り、田中隆吉は1939年に1月に兵務局兵務課長となって以後憲兵隊の調査報告書の提供も受けて、松井石根ら中支那方面軍幹部を軍法会議にかけて裁くように提案したが、参謀総長らに拒否されたという。(『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』大月書店 1994年)

一方松井も、南京虐殺が国際的な非難をあびて自分の更迭につながるであろうことは認識していたと見えて、1938年2月7日に行われた慰霊祭(1973年12月18日の第一回とは別の2回目)において、全部隊長を集めて行った訓示でみずからの悲憤の心中を吐露している。それを目撃した上海派遣軍参謀課長飯沼守少将はその日記に以下の通り松井の言葉を記している。

「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭(1973年12月18日の第一回)またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたりたればなり、何をもってこの英霊に見えんや」。(「飯沼守日記」『南京戦史資料集』偕行社 1989年)

さらに、この南京虐殺は南京に総司令部を置いた中支那派遣軍幹部の間では歴代一大不祥事として語り伝えられていたようで、昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁はその自叙伝において次のように述べている。

「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」。(『古代オリエント史と私』学生社 1984年)

以上、南京虐殺発生直後から政府、陸軍中央には報告が行われ、その存在は認識され、その抑制が指示され、将官を派遣した現地調査が行われ、それに基づいて松井石根中支那方面軍司令官の更迭が行われ、松井自身はそれを悔い、南京虐殺自体がその後の中支那派遣軍幹部の間で語り継がれたことが事実として確認される。

当時の日本政府および陸軍中央が「ある」ものとして調査、認識、対処、処分を行っていたものを、今になって「なかった」と強弁するのは、いったいいかなる精神によるものであろうか。歴史的事実を正しく客観的に認識できない知的障害があるのであろうか。自己の主張に都合の悪い事実は知らない、無視する、という道義的退廃があるのであろうか。

右翼保守のデマ本を読んで南京虐殺はなかったと信じ込まされてきたネトウヨは今からでも遅くはない。右翼保守のデマゴークが都合が悪くてその本に決して書かない事実を知ってほしい。世界はそれを知っているから、一部日本人の「南京虐殺はなかった」との主張に対して冷笑と軽蔑を返しているのだ。

ここまで書いて、どうせ「そのような不祥事が一部にあったとしても、その犠牲者数はわずかで虐殺と呼ぶには値しない」との右翼保守デマゴークの受け売りが出てくるだろうから、あらかじめ、述べておけば、

南京虐殺はなかったとの主張を行うものの内唯一歴史学者と呼べる秦郁彦でさえ、その主著『南京事件 − 虐殺の構造』(中公新書 1986年)において、南京虐殺の犠牲者数を3万8千から4万2千人と推計し、これは「あくまで中間的な数字に過ぎない」、「新資料の出現で動くこともある」としている。

秦の計算は、戦意を完全に失って逃げ回っている「敗残兵」や「投降兵」の殺害を「戦闘の延長として見られる要素もある」として虐殺とみなさないこと、また生存と逃走のため軍服を脱ぎ捨てて民間人の服装をした「敗残兵」がいるはずで、これらは「便衣兵」とみなせるとして、そのような「敗残兵」およびそのような「便衣兵」の容疑をかけられて殺された民間人をすべて虐殺から除くなどの操作を行って算出した数字で、とても妥当な計算であるとは言えないことは明らかだ。

しかし、その秦をしても3万8千から4万2千人という不法殺害の犠牲者数を認めている。これだけでも立派な「南京大虐殺」だ。

以上、長々と述べたが、これを読む人には「南京大虐殺などありえねーよ」という主張がどれほど荒唐無稽なものであるか事実に基づいてよくお分かりいただけるものと思う。

誇りあるまともな日本人は「南京大虐殺などありえねーよ」などという戦前の亡霊の復活を許してはならない。ほとぼりが冷めたからなかったことにしようなどという卑怯で女々しいまねを許してはならない。さもなければ、日本人は世界に特にアジアに友人を失ってしまう。

南京虐殺はあった。それは確かにあった。



11. 2012年2月29日 22:35:30 : XJL2YLIhEs
やめるのは市長をじゃなく、姉妹都市を、なんじゃないですか?そもそもは姉妹都市だから南京の代表と会ったんでしょ?
『この大嘘つきめ、仲良くしましょうね』?
南京1都市に限らず、中国共産党の意思だからって、まさか中国全部と名古屋が断絶!!はできないでしょうけど。
姉妹都市やめるつもりもないのに言うか?
名古屋市長の仕事しろよ、逸脱するならやめてから言え。

12. 2012年3月01日 02:07:43 : Ll9aNN6oVA
結局言い方だよね。

本気で議論したければ、南京虐殺がなかったと相手の神経を逆なですることは言わないで、日中の考え方にに相違があるんじゃないか?と言えば良かった。

そんなの小学生でも解るレベル。

なのにこんなアホな発言をしたのは票集めの為でしょう。多分、ネットのアホ2chのネトウヨの票が欲しかったんじゃない?多分次の国政選挙にでるよ。

しかし、南京大虐殺否定派が信用ならんところは、実行犯が死んでしまった後に無かったと言ってることだ。

朝日新聞が話題にしたのは1970年代だ。その時に否定すれば良かったのに、この15年くらい戦争に行った人が死んでしまってから、9条改正が声高に言われるのと同じくしてから否定している。まさに死人にクチナシだ。

なんかね、実行犯である俺らの爺が否定しなかった事を、戦争を見たことも感じたことも無い馬鹿な孫やひ孫が否定するってのは意味が良くわからん。


13. 2012年3月01日 07:30:08 : XJL2YLIhEs
フセインが見つからないからって、最初からフセインが存在しないことになるのか!?
って、あのコイズミも国会で言ってたじゃないですか。ねえ。
会議の資料を残しておかないと、会議しなかったことに...

14. 2012年3月01日 10:13:41 : BnPQDnro5g
●'08/4/6(日)NNNドキュメント(NTV.4CH 0h55〜1h50放映)「南京事件特集」

'37/12/16〜18に亘り、当時南京に駐屯していた、紛れもない日本軍元従軍兵士らの自筆で記された、陣中日記を中心とした生の記録!(収集された陣中日記32冊)

http://www.ntv.co.jp/document/back/200804.html

http://www.veoh.com/videos/v6608353j9h3gFdf



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