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2012.01.03 「無責任の体系」は死なず
―2012年元旦6紙を読んで―
半澤健市 (元金融機関勤務)
元旦の全国紙6紙(朝日、毎日、日本経済、産経、東京、読売)を読むのは3年目である。2012年1月1日の、本紙と別刷のうち、本紙を中心に読んだ。原発問題を軸にしながら民主主義、財政危機などを頭において読み進めた。文中敬称略。
《後出しスクープではないのか》
朝日の一面トップ記事は、「安全委24人に8500万円」である。斑目春樹委員長を含む原子力安全委員らが06年度から10年度の間に、審査対象の北海道電力、三菱重工業などから寄付を受けていた。中立性を疑われた人々は、「便宜は一切図っていない」(斑目、三菱重工業から400万円)、「多忙につき答えられない」(関村直人東大教授、原子燃料工業から67万円、三菱重工業から167万円)、「審査に影響はないが、今後、中立性のあり方は検討されるべきだ」(森山裕丈京大教授、日立GEから120万円)などと答えている。
毎日のトップは「核燃直接処分コスト隠蔽」である。使用済み核燃料の処理方法は二つある。現在行われている「再処理」ではない「直接処理」の安いコストも実は試算していた。それを04年にエネルギー庁原子力政策課長安井正也(現在は経済産業省の官房審議官)が隠蔽を部下に指示していたという。再処理で約19兆円かかるのが、直接処理だと4兆2000億円〜6兆1000億円で済むという試算であった。安井は、毎日の取材に「(部下が試算をもってきたことは)あったかもしれないが(隠蔽指示は)記憶にない」と答えている。
二つの記事はスクープなのであろう。しかし「なぜ今頃になって出てくるのか」という素朴な疑問がわく。原子力ムラ建屋の一角が崩れたから見せ始めたのではないか。建屋が堅牢なうちに突き破るのがメディアの役割ではないのか。
《21世紀の特攻精神礼賛》
産経の社説にあたる「年のはじめに」は、「負けるな うそを言うな 弱いものをいじめるな」という薩摩藩武士の教育訓戒から説き始める。そして次のように書いている。
▼「負けるな」は、昨年3月の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の被災現場でも心の合言葉になった。東電の下請けを担う協力会社のベテラン社員(47)がいる。水素爆発を起こした3号機の隣の2号機で電源を復旧していた彼は事故直後、東電の要請に応じ、そのまま原発に残った。1日の食事は非常食2食、毛布1枚にくるまり雑魚寝という過酷な環境だった。「被曝の危険性があることは分かっていたが、復旧の作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた」。/こうした名もなき「英雄たち」の戦いは今も続いている。
この「剛毅さ、克己、礼節は日本人の奥深くに厳然とあるはず」なのに戦後日本はそれを忘れたのではないか。社説の筆者はそう書いている。
この労働者には頭が下がる。しかし産経社説の考え方は「大東亜戦争」における特攻礼賛と同じだと思う。私が論説執筆者であれば「〈負けるな〉を、沖縄基地交渉を担当する外務大臣に対して言いたい。〈うそを言うな〉を、原発事故を隠蔽し続ける日本政府に対して言いたい。〈弱いものをいじめるな〉は、東電とこの非人間的な労働条件を許す行政に対して言いたい。そしてそういう戦後日本を造ってきた自分自身に〈剛毅さ・克己・礼節〉は、どこへ行ったのかと言いたい」と書くだろう。
《原発再稼働の勧め》
朝日の経済欄に1頁使って左に米倉弘昌経団連会長、右に哲学者梅原猛の写真がある。対談だと思ったら別々のインタビューを並べただけだった。米倉は原発再稼働を言い、梅原は原子力は悪魔のエネルギー、脱原発は歴史の必然だと言っている。
朝日の社説は経済成長への懐疑論を書いているが、その文脈の中で「何万年もの後代まで核のゴミを残す原発は、できるだけ早くゼロにする。自然エネルギーを発展させ、環境重視の経済に組み替える」と述べている。6段組の5行に過ぎず新年のお「しるし」程度の記述である。
読売社説は単細胞的な明快さで次のようにいう。
▼再稼働が進まないと、停電や電力不足のリスクを避けるために、企業が海外移転を図り、産業空洞化に拍車を掛けることになる。菅前首相の無責任な「脱原発」路線と一線を画し、野田首相が原発輸出を推進するなど、現実を踏まえたエネルギー政策を乗り出したのは、当然である。
1ページの三分の二を使った長文の読売社説は「消費税、沖縄、TPP、原発の各課題は、いずれも先送りできない。日本が〈3・11〉を克服し、平和と繁栄の方向に歩を進められるか。世界が注目している」と結んでいる。首相の十分な説明を条件にしながらも消費税引き上げ賛成、与野党妥協賛成、沖縄日米合意実施賛成、日米同盟の深化賛成、農業再生の契機としてのTPP賛成、原発再稼働賛成。要するに政府に全部賛成なのである。財政危機については「負担減と給付増を求めるような大衆に迎合する政治(ポピュリズム)と決別することが、危機を克服する道である」と書いている。国論を二分している各課題に対して、これだけ一方的に野田政権に賛意を示す言説を我々はよく覚えておきたい。渡辺恒雄はどうしてそんなに野田佳彦が好きなのか。
《民主主義を論じているが》
その点、「民主主義」の視点から政治を論ずる毎日社説はまだマシである。「国民には政治への幻滅が再び広がり始めている」が、「国会で法制度を成立させ政策として断行する」という地道な民主主義の政治プロセスが必須だという。マニフェストに関して「何が達成され何が未達成なのか」を検証し、「一体改革やTPPといったマニフェストになかった課題をどう位置付けるか」に丁寧な説明が要るとしている。それでも問題が解決できないときは「いよいよ我々国民の出番である」とする。橋下的手法の批判も含意した論調である。
日経社説は「資本主義を進化させるために」と大上段である。しかも「中外商業新報」(日経の前身)の外報部長だった清沢冽(きよさわ・きよし)が29年大恐慌直前に書いた『転換期の日本』を材料にして語るのである。自由主義者清沢は同書を次のように締めくくっているという。すなわち「日本が再出発するためには」「国家の目標を高く掲ぐるを要する」「国家の目標とは(中略)世界を家とし、世界に友を求めることである」。そして社説はこう締めくくる。「これはまさに現在に通じる。今様にいいかえると次のようになるだろう。日本再生のためには、国家目標としてグローバル社会で生きぬくことを高く掲げ、転換期を乗りこえていこう――」。
しかしこの結語は抽象的で何事も語るところがない。「グローバリゼーション」は3年前のリーマン恐慌と今日の世界的な財政危機に帰結したのである。「グローバリゼーション」なる無機的な理念はいま世界的に、根本的に、批判的にその存在理由が問われているのである。国際感覚にすぐれた清沢冽はナショナリストでもあった。清沢が生きていたら「国家目標としてグローバル社会で生きぬくことを高く掲げ」ることを肯定しなかっただろうと思う。清沢は当時の日本を批判したのと同じ筆法で現在のアメリカを批判すると思う。
日本株式会社の広報紙として日経はしっかりと米倉経団連会長のインタビューを載せている。米倉は震災復興のための規制撤廃を強調している。「2012年を考える」という特集で14項目について各1ページを割いて解説を加えている。ビジネスの視点と承知して読めば、それなりに有益な解説記事であることは記しておきたい。
《今年も「東京」が奮闘している》
東京は紙面全体で脱原発論を発信している。私はそう感じた。
「雨ニモマケズ 3.11から」という10回の連続企画は期待できる。その予告編的な記事で愕然としたのは「経済協力開発機構(OECD)」の調査では、家族以外と交流がない人の割合は日本が15.3%と調査国の中で最も高かったという記事だ。さらに内閣調査府の調査でも国民の約三分の二が「近所に、生活で協力し合う人がいない」と回答したという。都市への人口集中、生活様式の変化などにより「向こう三軒両隣」と言われた日本のコミュニティーは壊れつつあると記事は指摘している。
東京社説は、2011年を民衆運動が世界の政治を変えた年として捉えている。ところが日本では「民主党は期待を裏切り続けている」。増税無用といって政権をとった政党が増税をいうのは信義にもとる。野田政権は消費税法案提出前に国民に信を問うべきである。勿論増税反対を主張する勢力が真っ向から論争を挑むのは当然だ。東京は他紙のように二大政党の妥協を勧めていない。震災と原発事故に関しては行政を信じない人々が立ち上がったとみている。一方、既成政党に失望した人々は橋下「維新の会」方式の政治を支持している。「しかし、維新の会はわかりやすい敵を定めて民衆を動員し「独裁」(橋下市長)の手法で、戦後築かれてきた教育の中立や労働基本権に挑戦する危険な側面も伴っています」と橋下的ポビュリズムの危険を明確に指摘している。そして次のように結ぶ。
▼民の力が真価を発揮するには、デマに迷わず判断を形成するために偏りない情報や多様な見方に触れることが欠かせません。そのためにも、新聞をはじめメディアの責任がますます重要になっていることを、ひしひしと感じ、自らに戒める新年です。
6紙の元旦記事でメディアの責任に触れた言語はこの1行だけであった。
「再生エネルギー元年」の4ページの特集もよい。「こちら特報部」の「脱原発のこころ」は、昨年12月8日の日本武道館コンサートをハイライトとするオノ・ヨーコの行動報告である。オノ・ヨーコの反原発活動に寄り添った見事な記事である。
いちいち触れなかったが各紙とも大震災に関する記事は多い。被災者の記事も多い。その視点は「頑張れ日本」、「立ち上がる東北」でありそのいくらかのバリエーションである。悪いというのではない。それどころか私はそれらの多くに感動し目が潤むのである。しかしそれらの記事には悲しみと慰めはあるが怒りがないのである。怒りがないところに責任追及はない。各紙の別刷に触れる紙幅がないが、読売の小森陽一、木村光一ら5人の識者が選んだ「井上ひさし芝居番付」は注目に値するものだった。
《貫通する「無責任の体系」》
以上、元旦各紙を早足で駆け抜けた。感想は三つである。
第一 大震災に関して責任を追及する観点が希薄である。
これについては詳しく後述する。
第二 問題提起力が貧困で構想力、想像力に欠ける。
体制側が設定するアジェンダを疑問なく与件としている。たとえば「社会保障と税の一体改革」(最近では「一体改革」)という表現はいつ誰が言い出したのか。「一体改革に名を借りた大衆増税」と書くのが正確であろう。
第三 世界と日本の総体へ鳥瞰的な視点が希薄なこと
たとえばカール・マルクスが「ニューヨーク・デイリ−・トリビューン」への寄稿者として日本の開国や植民地としての中国・インドを論じたような視点が欲しい。
三点を一言でいえば、記事に溢れるような主体的・内発的な魂が感じられないということだ。一番よく表現して客観的、悪く言えば外発的である。いまどきそんな政論新聞みたいな記事が書けるかという反論があるだろう。しかし私は表現のことを言っているのではない。歴史的な文脈、真の意味でのグローバルな文脈、国民国家だけに拠らない文脈、そういうものに立った記事がないというのである。
責任に触れたものが一つあった。東京の「本音のコラム」における政治学者山口二郎の言葉である。人気欄「こちら特報部」を論じた文章の一部を、少し長いが引用(省略あり)する。「多様な社会」の部分は、北朝鮮を「画一的」だとする批判への反批判である。
▼この特報面は原発事故の特集記事を連発して教えられることが多い。
そこから浮かび上がってくるのは、戦前―戦中―戦後を貫通する「無責任の体系」である。この言葉は、政治学者、丸山真男が満州事変以後の日本の指導者による戦争政策の決定・遂行過程を分析する中で考え出したものである。事実を国民に知らせず、希望的観測に基づいて自己満足的な行動を取り、政策が破綻しても誰も責任を取らない。丸山が描いた「大本営体質」は戦後日本にも引き継がれ、原子力政策の基調を規定している。福島第一原発の爆発と、それに続く政府の不手際は、現代日本の大本営体質を嫌と言うほど見せつけた。/はっきりと「負け」を認めなければならない。そして、敗因を徹底的に究明しなければならない。そのための道具が民主主義である。/私たちは本当に多様な社会の中で、多様な意見をぶつけ合っているのだろうか。原子力ムラの実態は、日本でも重要政策が一様な集団によって壟断されていたことを教えた。多様な民主政治は、私たちの意志でこれからつくり出すものである。
長すぎた2012年の元旦紙面論を終わる。
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