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昔エリート今ヤクザ ー 渡邊、ベルルスコーニ、マードックに見る報道界の堕落
2011年11月30日09:00 アゴラ 北村隆司
http://agora-web.jp/archives/1409330.html
言論と報道の自由の本家である英国では、学問、文学、外交、金融の世界と並んで報道界はオックスフォードやケンブリッジの卒業生が憧れるエリートの職場であった。エリート教育の根幹は、騎士道や武士道に通ずる「高い教養と品格、倫理観」であった。
教養、品格、倫理観には無縁な渡邊氏が「お前ら、俺を誰だと思ってるんだ」と周りの記者達を怒鳴りつける映像を目の当たりにすると、唖然とするばかりである。「巨怪伝」で読売神話の実相を詳しく描いた作家の佐野眞一氏は渡邊氏を称して「大物ぶっているけれど、ふつうのチンピラに見え、悲しくなって来る」と証言しているが、納得出来る表現だ。
悲しくなると言えば、渡邊氏に群がった記者達がこの恫喝に何の反論も無く沈黙してしまった事も情けない。これでは、日本のジャーナリストが権力に屈することなく、自由で公正な報道ができるとは信じられない。寧ろ、権力に弱い記者に囲まれた読売社内での渡邊氏のパワハラの凄さが想像出来るだけである。
前述の佐野真一氏は「東大出身なのに、英語が苦手な正力氏はかつて『新聞の生命はグロチックと、エロテスクとセセーションだ』と胸を張って語った。いい言葉だよね。グロチックは凄くグロテスクだし、エロテスクは何だか妖しい響きを感じさせる(笑)。これはある面で大衆ジャーナリズムの核心をついている。新聞の躍進には徹底した大衆迎合路線が必要だ。それを実践してきたからこそ今の読売はある。」と書いているが、この正力氏に媚を売ってのし上った渡邊氏をトップに頂く読売が、大きくとも一流になれない理由が判った気もする。
メデイアの堕落は日本に留まらない。
市民からは敵意に満ちた「ピエロ」の大合唱を浴びせられながら首相の座から追われたベルルスコーニ氏の場合も、報道を私物化した結果の悲劇であった。メディアで巨万の富を積んだ同氏は、政治力を駆使し絶大な権力を誇示した結果、政治だけではなくイタリア社会全体の質を低下させたと非難されている。
報道機関の堕落は、言論と報道の自由の本家である英米両国にも蔓延した。その典型が、金に糸目をつけず多くのメデイアを買収して巨大な富と権力を握ったマードック氏の率いるニューズコーポレーショングループによる盗聴事件である。この事件で、支配下にあったイエローペーパーの廃刊とその編集長の逮捕に続き、オーナーであるマードック氏や後継者と見られる息子に対する捜査が進行中である。
事件が公になった当初は、記者の暴走くらいに捕らえられていたこの事件も、メディアと政界や警察権力との癒着などが明らかとなるにつれ、巨大な影響力をもつメディア王も裁きの表舞台に引っ張り出される事になった。
渡邊、ベルルスコーニ、マードックの3氏に共通する事は、エリートではなくやくざの所業に近い言動で、報道をヤクザから解放する事は、暴力団対策より喫緊の責務である。
権力から独立したマスメディアの自由な報道こそ、ウォーターゲート事件のように、場合によっては大統領を辞任に追い込むこともできた。それに比べ、読売やNHKを始めとする日本の大手報道機関が軒並み、不明瞭な裏取引で払い下げを受けた国有地に本拠を置いて居る様では、報道の自由を語る資格はない。
タイムマガジンの発行人であったかの有名なヘンリー・ルースは1942年に、自ら多額の資金を供給してシカゴ大学の総長に「報道の自由の将来」に就いての調査を依頼した。その結論は「責任ある報道が脅かされている現状が続く限り、報道の自由の将来は暗い」と言うもので:
(1)報道が小数の手でコントロールされる傾向。
(2)報道を支配する小数の人々が民衆の要望にこたえる事を忘れる傾向にある。
(3)この様な無責任な報道が永年続けば、何れ民衆は報道を自らの手に取り戻す日を迎えるであろう。
をその理由に挙げている。日本の現状は正にこの通りであり、インターネットが大手報道機関から報道の主役を奪う日が待ち遠しい。
日本新聞協会はその倫理綱領で、「編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。の干渉を排すとともに、利用されないよう自戒しなければならず、節度と良識をもって人びとと接すべきである。」と宣言しているが、渡邊氏はこの綱領に目を通した事があるのであろうか?
報道界の巨人の一人であるエドワード・モロー氏は「我々は異論と背信行為を混同してはならない。誠実なる反対者を殺した時にアメリカは死ぬ」と慢心を戒め、聖徳太子は「独り断ずべからず、必ず衆と共に宜しく論ずべし」と言う名言を残している。日本の報道陣も真剣に考えて欲しい言葉である。
寺田寅彦は、その著の中で「二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一箇所に故障が起こればその影響はたたちまち全体に波及するであろう」と説いている。
又、言論人として不退転の決意で自由主義を守り通した石橋湛山は「黴菌(ばいきん)が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気なのだ」と言う名言を残した。
現代国家の神経を司る報道の一箇所にでも故障が起きれば、その影響はたちまち全体に波及する以上、国民は渡邊氏の様なばいきんの繁殖を防ぐ重大な責任を持っているのではなかろうか?
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