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物事には必ず原因と結果がある。
我が国では政治の世界において、ここ十数年の間に僅か一年足らずで首相が交代してしまうという異常現象(惨劇?)が起こっている。
この間、国家の衰退とも言うべく国力は低下を続け、他国にも自信を持った対応が出来ていないため、総じて我が国の地位が相対的にどんどん低下しているという有様である。
そしてこのような状況に陥ったことについても当然“原因”がある。しかもその原因は決して他国には見られない我が国特有の原因である。
あえて結論から言わせていただこう。その原因は日本のマスコミの存在である。極端な言い方をすると日本のマスコミという次元の低い集団は我が国から消滅したほうが国家にとってどれだけ有益であるか分からない。
恐らくかつては彼らも自負すべき“誇り”というものが在ったであろう。それは例えば戦時下における情報統制の時代から“言論の自由”を国民の手に取り戻したかのごとく気高きものであったかも知れない。不屈の精神を以て権力に挑む姿は、少なからず国民も共感を覚えたに違いない。
しかし今や日本のマスコミは勘違いとも言うべく伝統的誇りを背に三流誌の如く目先の利益を追い求め、国民の声を代弁しているかの如く錯覚の果てに他人を攻撃する集団に成り下がってしまっている。真に望むべくは本当に国民に必要とされるマスコミの出現である。
日本のマスコミのどこがいけないのか。これには色々と理由があるがその最大のものはマスコミ自身の驕りである。彼らは総じて国民をバカ扱い(B層化)しており、結果くだらないことでも騒ぎ立てることを優先し、更にそれをネタにしてゆく。従って国民は常にまずい料理を食わされ続ける。
次なる理由は業界カルテルよろしく互いの仕事振りを決して批判しない。従ってマスコミを自負するだけの競争心も向上心も生まれてこない。
今日においてこれは如何にも不自然であるが、既に彼らはその自浄能力さえも併せ持たなくなってしまっている。
本来のあり方として事実を正確に伝えるのがマスコミの役割だとすれば、伝えるべき事実はひとつなのだから各社にそれほどの違いは無いはずなのに、実際にはそれをどのように伝えるかという恣意的な要素が入ってくる。
たとえば特定の政治家のムスッとした表情だけを切り取って、見る側に印象付けてみたり、雑談の中の他愛もない一言だけを批判して大げさに報道するといったケースである。そしてこれらを前提とした出来レースのごとく記者会見が彼らの手によって行われている。これはもはや記者会見とは呼べないのではなかろうか。
そして情けないことに、政治家もこの手のマスコミの手法を知っているから、マスコミの餌にされぬよう発信力が極めて小ぶりになり、国民に向かってズバッとものを言う、いわゆる“らしい”政治家を拝見する機会が非常に少なくなった。翻ってマスコミとは本来“媒体”でしかないのだ。
そもそも我が国では主権者たる国民が投票を行い、その結果新しい政治体制が出来上がったとしても、やがて時間の経過とともにマスコミは時の政府が如何に能無しであるかを報道し続け、国民は一層(騙される方が悪いんだと言わんばかりに‥)政治に不信感を増すよう刷り込まれてゆく。
こうした国家の衰退に拍車をかけるべく日本のマスコミに勿論良識などあるはずも無い。例えばテレビでは如何にも知識人風情のコメンテーターとしてものを言い、紙上では社説や論評と評して偉そうに上から目線でものを言う。このように一方的にものを言うことがいつまでも許されるのであれば、日本のマスコミとは果たして何様のつもりだと申し上げたい。
彼らの主張は決してポリシーなどではなく、もはやパフォーマンスに等しい。自らを、あるいは自社の立場を高めんがために単に偉そうに振舞っているだけのことである。
国民が優先すべくは膨大なコストをかけて活躍を期待し、誕生した新たな政治体制を、あるいは政治家を、いとも簡単に損失することの無いよう極悪なマスコミから護ってあげることが必要ではないだろうか。
日本のマスコミは如何にも庶民の声を代弁し、国民の側に立ったような素振りをみせているが、実際のところ我が国を貶めている張本人であり、強弁すればもはや国家の衰退に拍車をかける情報テロとも言うべく日本の敵と見るのが正しい見方ではないだろうか。
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