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▽読売新聞7日付社説が「プルトニウムは潜在的な核抑止力」――問われるメディアの「生き残り」 戦略のありよう
9・11から10年のきょう、全国70カ所以上で原発反対を訴えるデモが行われた。時事通信によると、 東京都新宿区のJR新宿駅周辺を、「脱原発」を訴えてデモ行進(「素人の乱」)した人の数は、約1万人(主催者発表)にのぼった。 「経産省を人間の鎖」で囲むアクションには、数千人が参加した。各紙・各局、参加人数などはバラバラの数字だが、 産経新聞や読売新聞の報道によると、12名の逮捕者が出ている(当初は逮捕者17名の情報が飛び交ったが12名のようだ)。 原発推進派に加担する一部勢力や警官との接触で、出血した人も出た。産経新聞は次のように報じた。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
<警備する警察官の指示に従わず、隊列を広げるなどしたとして、警視庁公安部は11日、公安条例違反などの現行犯で、住所不定、 自称二木信容疑者(30)ら12人を逮捕した。公安部によると、二木容疑者は容疑を否認しているという。 二木容疑者の逮捕容疑は同日午後3時50分ごろ、新宿区西新宿の路上で抗議デモ中、許可条件や警察官の再三にわたる警告に反して、 歩道上まで隊列を広げるなど違法な先導をしたとしている。また、二木容疑者のほかにも、11人が警備中の機動隊員を殴るなどしたとして、 公務執行妨害の現行犯で逮捕された。(9.12 01:11)>
「歩道上まで隊列を広げるなど違法な先導」として今回急に問題視を強めた背景には、これまでこうした脱原発デモで、 歩道から続々と子連れのお母さんたちがデモに合流するなど、 デモが開放感あふれる市民パレードとして市民社会に浸透する風潮が広がってきたことがあるだろう。 デモが国民の当然の権利として根付いては困る人々や勢力、その意をうけて警戒感を強める人々の姿が、警察官たち (同じ格好をした警察官でも対応・反応はさまざまだ)の表情の裏側に透けて見えるようだ。
読売新聞は次のように報じている。
<警備中の機動隊員に暴行を加えるなどしたとして、警視庁は同日、デモの参加者の男11人を公務執行妨害の疑いで、 デモを主催した団体のメンバー、二木信容疑者(30)を都公安条例違反の疑いでそれぞれ現行犯逮捕した。発表によると、男らは11日午後、 東京都新宿区の路上で、警備中の機動隊員らの顔を殴るなどした疑い。二木容疑者は規定に反し、 車道で行進していたデモの隊列を歩道にまで広げた疑い。(9月12日00時20分 読売新聞)>などと書いている。
逮捕者の件をいち早く報じた産経新聞も読売新聞も、内容はほぼ同じだ。デモ参加者の市民をまるで極悪人扱いの印象の記事だが、 これは明らかに、「素人の乱」など「原発止めろデモ」参加者を危険な暴力集団のように世間に印象付け、参加者の拡大に歯止めをかけ、 脱原発のムーブメントの沈静化を狙ったものと受け止めていいだろう。両紙とも、トーンや程度の差こそあれ、 もともとその傾向の強い新聞ではあるが、ここへきて、明らかに原発推進勢力への加担を決断したようだ。
読者・市民より、産業界(といっても、エネルギー産業は原発への幻想を捨てて、すでに次へ向けた動きを始めている) の意向に従うことを選択した、といっていいだろう。読売新聞はそもそも原発推進の旗頭でもあるから、いかにも、 さもありなんということでもあるが、社説でのなりふりかまわない異常ともいうべき踏み込み方などをみると、 とても残念な気持ちに襲われることも確かだ。
販売部数の減少と広告収入の減少のダブルパンチに見舞われ、厳しい経営環境の激変が続く中、新聞は、目先の広告収入など「産業界」 のエサに食いつくことばかりを追い求める社と、そういう状況だからこそ民衆の側に立った報道で読者を確実に吸引していく新聞と、前者・ 後者の間を揺れ動く新聞とが混在しているのが実情だ。
特に電力、なかでも原発関連の「オイシイ」広告収入に、新聞をビジネスと割り切ってからめとられていたり、 率先して原発推進の旗振り役を果たしてきたところもある。この東日本大震災と福島第一原発事故という二つの未曽有の危機に直面する日本社会。 まさに「ジャーナリズム」の危機の時代をむかえている。
読売新聞は7日付社説「エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を」で、就任したての野田首相に向けるかたちで、以下を示した。
(1)原発の運転再開にメドが立たず、電力不足が長期化している――この際、前首相の安易な「脱原発」に決別すべきだ、
(2)原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ――ストレステスト(耐性検査) を着実に実施し、原発の運転再開を実現することが欠かせない、
(3)原発の運転再開への最大の難関は、地元自治体の理解を得ることだ――安全について国が責任を持ち、首相自ら説得にあたるなど、 誠意ある対応が求められる。
(4)原子力と火力を含むエネルギーのベストな組み合わせについて――原子力の蓄積した高い技術と原発事故の教訓を、 より安全な原子炉の開発などに活用していくことこそ日本の責務
(5)今後も原発新設の選択肢を排除すべきではない――中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している、
(6)日本は核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている――外交的には、 潜在的な核抑止力として機能している
プルトニウムも福島第一原発事故によって放散された放射性物質の一つとして、深刻な土壌汚染が心配されている。読売新聞社説は、 そのプルトニウムを「積極的に評価」する立場をここで明確にし、その役割を「潜在的な核抑止力」(つまり、 日本はいつでも核兵器製造が可能という潜在能力)においた。その立場を、この日の社説であらためて明確に打ち出し直したといえるだろう。 この段階で、ここまで話を飛躍することにどのような意味があるのか、こちらが考えさせられてしまうが、産業界も含めて急速に「脱原発」 の流れが強まっていくことに、不安を抱く推進派の方々の思惑を代弁してのことだろうと思われる。
いうまでもなく冷戦後の世界は、プルトニウム削減の必要を強く迫られ、いわゆるプルサーマルからの撤退も各国で相次いでいる。 対外的な危機管理の側面から言えば、原発そのものが攻撃対象として格好の標的であり、外交的には、潜在的な核抑止力どころか、 潜在的な弱点という指摘や認識が国際的に強まっている。
読売新聞が7日の社説で、あえて「暴論」とでもいうべき世界に踏み込んでみせたのは、「脱原発」の流れの強まりへの焦りか、 あるいは原発推進勢力の広告への対価か、それとも原発へのぶらさがりから脱出できない人々への激励なのか。はたまた「原発」のもつ「強さ」 への郷愁からなのか。この社説については、秀逸な記事が9日に発表されている。小田嶋 隆「私も原子力について本当の事を言うぞ」 (日経ビジネス9日)だ。ぜひ一読されることをお勧めしておく。「私も原子力について本当の事を言うぞ」小田嶋 隆(日経ビジネス9日) http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110908/222523/?P=1
新聞や通信社の発信する情報について、そのまま受容できるものと、 そのなかに巧妙に世論操作を企図したものがあることを警戒しなければならない時代でもある。情報・言論の多様性どころか、 情報環境のゆがみが日常化しようとしていることを意識して、情報や言論を取捨選択する力を読者が自ら鍛え、 日常的に駆使していくことを要求されている時代ともいえるだろう。
その現象は一方で、市民自らが多くの人々に対して容易に情報発信できる時代とも並行して起きている。それはさらに、 情報発信者どうしがたがいに発信内容を広く共有したり、協同して広めたり、協働して修正しあったり、発信内容の確度を高めたり、 さらなる行動や論評、判断へとつなげたりする時代を実現している。技術的には情報・ 論評の送り手と受け手と分断が解消される流れが起きているわけだが、それは必ずしも「バラ色」の情報共有の時代を意味しない。
既存メディアが問われているのは、単になりふりかまわず「生き残る力」ではなく、 この高度情報市民社会における存在価値そのものといえる。だからこそ、記者や編集者には、単なる情報のポーター(運び人)に堕すことなく、 一人ひとりがジャーナリストとして立ち上がり、日本のジャーナリズムが果たすべき役割を、 いまこそ力強く発揮することが求められるときはないともいえるだろう。ジャーナリストたちの日々のたゆまぬ努力と奮闘なしに、 この高度情報市民社会の飛翔も存在しないことは確かなのだから。
既存メディアを支え作りかえることとあわせて、市民自らの手で新たなメディアを興していくムーブメントを通して、 この大震災と深刻な原発事故に見舞われる時代を雄々しく乗り越え、いかなる障害や一時的暗転にもあきらめることなく、 力強く新たな日本の夜明けを切り開いていきたいところである。
「反原発」デモで12人を逮捕 警視庁(産経新聞12日)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110912/crm11091201140000-n1.htm
脱原発デモで12人逮捕、機動隊員暴行などで(読売新聞12日)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110912-OYT1T00004.htm
私も原子力について本当の事を言うぞ 小田嶋 隆(日経ビジネス9日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110908/222523/?P=1
▽鉢呂経産相9日目で辞任 「記者に放射能付けた」報道―― 民主党幹部が経緯を検証=藤村官房長官
12日、政府は鉢呂経産相の後任に枝野前官房長官をあてることを決めた。
前任の鉢呂氏の辞任に至る経緯に関連して、藤村修官房長官は11日、「報道されている件は非公式懇談で(出たもので)、 報道と本人の言っていることが違うようだ」と指摘し、民主党幹部が経緯を検証する方向で動いていることを示唆した。鉢呂氏が 「放射能を付けたぞ」などの趣旨の発言が報道された件についてだ。
「放射能を付けたぞ」の言い方については、各紙・局によって「ほら、放射能」、「つけたぞ」、「つけちゃうぞ」、「つけてやろうか」 、「うつしてやる」、「分けてやるよ」のように、報道の仕方も与える印象もそれぞれ微妙に異なっていた。また、この発言は、 8日午後11時半ごろ東京・赤坂の議員宿舎に戻った際に、報道陣に囲まれて(つまり「囲み」取材)の場で口にしたとされている。そのため、 各社とも録音はしていなかったとの情報ある。言葉や与える印象の違いはそこからきているのだろうか。
その「放射能を付けたぞ」らしき発言は、9日午前の閣議後の記者会見での「死のまち」発言の前夜、8日深夜のものだったが、 問題とした報道は「死のまち」が先で、その報道に対する反応はわかれた (鉢呂経産相降ろしを虎視眈眈と待ち望んでいた勢力にとってはイマイチの反応でしかなかった)。だが、「死のまち」 発言に関連したエピソードの一つとして、どこかの社の記者が披露した「放射能を付けたぞ」の情報に飛びつく社がいくつか出る中で、 それを続々と各社が追いかけたという印象が強い。
その過程で、必要以上に「無神経」「非常識」のイメージが付与され、拡散されていくようなことがあったのだとしたら、 これをメディア人、メディア各社がそのまま放置するわけにはいかないだろう。他のだれかというより、メディア自身の未来のためにも、 早い段階で確認・検証しておくことが必要かもしれない。
藤村官房長官は「報道されている件は非公式懇談で(出たもので)」といっているようだが、8日夜のものは、いわゆる 「オフレコの非公式懇談」とイコールの場ではなかったはずだ。議員宿舎前での囲み取材だったはずだ。オフレコの非公式懇談では、 レコーダーのスイッチをいれている記者もいるし、それを許す大臣も許さない大臣もいる。時と場合と話題にもよっても「オフレコ」への対応、 反応は異なる。この場合、議員宿舎前での囲み取材だったのだとすれば、音声記録などがなさそうなこと(各社、 そうした対応をしていそうなこと)は、そう不自然なことではない。
だがその分、「ほら、放射能」、「つけたぞ」、「つけちゃうぞ」、「つけてやろうか」、「うつしてやる」、「分けてやるよ」と、 メディアが報じる発言やその報道姿勢、伝えるトーンが、あまりに違いすぎ、入り乱れたことも確かだ。「放射能を付けたぞ」の発言はなく、 記者に近寄って防災服をすりつける仕草をして、報道陣に対して「除染をしっかりしないといけないと思った」 のように語ったという説も存在するほど、情報は多種多様に入り乱れている。
報道姿勢や伝えるトーンは違って当然であり、望ましいことでもあるが、その前提となる「事実」そのものがあまりに食い違い、 メディアの側で揺れていたり、さらにはそこにフィクションが入り込むような事態は許されることではない。「死のまち」を槍玉に挙げたが、 自公など野党側や官僚筋などの反応はいまいちで、「放射能つけちゃうぞ」のエピソードにどっと飛びついた形跡はないか。その過程で、ここは 「書き得」と判断して、当の鉢呂氏の言葉を鉢呂氏から直接聞いた記者ではない記者に、ひたすら「伝聞」 で書き殴らせたようなケースはなかったか、気になっているところである。
ただ、一大臣が、こうした発言問題の報道だけで、あっさりやめるものだろうか。そうとも思えないし、 辞任を決めたのには別の理由や事情がまずあってのことで、それに報道が重なってのこと考えるのが妥当のようなケースでもある。 メディアにいじわるな質問を一日か二日間、ぶつけられて、辞任を決めてしまうような大臣では、 何にしても早晩そういう決断に追い込まれたに違いないという分析や、メディアの追及は大臣にとって (特に大事な課題をそのとき背負っている大臣)は通過儀礼のようなものと突き放すことも可能だろう。少なくともこのケースが、 メディアによる大臣「いじめ」を真剣に社会で考える重要なきっかけとはいえないであろうし、そういう問題でもないだろう。
菅政権の退陣を受けて、政権を引き継いだ野田内閣。いかにも「B級勢ぞろい」の前評が飛び交う中、 原発事故に関する発言がいかにも少ない野田首相は、方向性としては原発の漸減をいい、途中(慎重な検査に基づく)再稼動はあっても、 新設は困難だろうという路線をほのめかしてきたことは確かで、鉢呂氏は、4日のNHK番組で、 政府のエネルギー基本計画の見直しを検討する経産省の「総合資源エネルギー調査会」について、「原子力政策に批判的な方も入れるよう (省内に)指示した」(北海道新聞)と述べ、これまでの原発推進路線を徹底検証する視点で、委員を入れ替える方針を明らかにしたり、 「基本的に原発はゼロになる」「原発14基の新設は困難」と明言していた。
もうひとつインパクトの感じられない野田内閣の顔ぶれの中で、鉢呂氏が、福島での子どもの被曝規制値・ 年間20mSVの撤回に先頭になって取り組んだことや、福島の学校にエアコンをつけようと奔走したり、 蓄電池事業を推進しようと予算要求を促進したりしたことなどについて、高く評価する市民の声が広がりつつあったことも確かだ。
もちろん鉢呂氏は、経産相として単独でそれらをいったわけではなく、野田首相や藤村官房長官も同種の発言はしており、 それをうけるかたちでの発言だったが、重要課題の担当大臣としての気負いが過ぎるのではないか、もろさがあると指摘する声もあった。 原発監督官庁としての保安院の分離決定が、そのまま経産省も即座に脱原発を目指すと確定した段階でもないし、参院のねじれも抱えている。
従来の国策・原子力利益集団は、電力会社幹部だけでなく原子力関連企業、関連事業者や従業員、 原発マネーに依存せざるを得なくなっている自治体も抱えている。被曝地の福島は、放射の汚染とその将来的影響、 調査の進行に伴うさらなる高濃度汚染地域の発見と避難か除染か選択、 それでは人口流出に歯止めをかかえたい自治体の都合と東電とのこれまでの共存の経過、そして人命か、 除染バブル景気による復興かの困難な選択の問題も生じている。
汚染エリアは福島に留まらない。そこでも影響・被害の低減策と情報公開の問題、資産価値の低下や人口減少・流出の問題を抱える。 事故の影響を過小評価しようとする誘惑は、原発推進勢力だけでなく、本来、被害エリアである自治体をもジレンマに陥れている。
そうしたなかで、経産相の肩には重圧がのしかかる。いうまでもなく、だれがやっても一寸先は闇の状況だろう。 鉢呂氏にその自覚が足りなかったといえばそれまでだが、脱原発については後ろ向きのベクトルが強く存在する自民党を軸に、 微妙に差別化しながら自民党に同調する公明党の動きもある。だからといって、鉢呂氏の「死のまち」発言や、その前の「放射能を付けたぞ」 エピソードを、ここぞとばかりに大々的に取り上げてあげつらい、その後の「野党」 の追及を先取りして政局めいた報道に走る必要がどれだけあったかは、疑問だ。
経産相当人の言い分が多少聞けたのは、辞任表明の記者会見でしかなかった。市民・読者・視聴者はそっちのけで、 政府も与党もメディアも動き、「鉢呂降ろし」を演出してみせた。そこまでして、マスメディアの圧倒的なスピードと力を、ここであらためて、 高度情報市民社会に生きる市民に対してみせつける必要があるだろうか、と私は感じてもいた。実際、 戦後も引き続いてきた先進国を追いつけ追い越せの流れ。原発はその象徴という旧体制の存在。その姿を、 国民の脳裏にこれでもかと存在を刻印しようとでもするような、悪あがきのような印象をうけた。
鉢呂氏の辞任を受けて、一方では、被災地は怒りと落胆でいっぱいで、「辞めて当然」「期待する間もなかった」 との声を紹介した報道もいくつもある。
それでも「辞任記者会見」での、一記者の、「辞任を決めた理由」を語れと迫る質問というにはかなり強引な、詰問、 いや命令のようなトーンさえ帯びた口調には行き過ぎ、違和感を感じたのは私だけだろうか。辞任会見の席で、 記者があのような単に正義感からとは言いがたい、エキセントリックな空気を漂わせる。あの背景に、いったい何があるのだろうかと、 興味をかきたてられるのも確かで、私の脳裏にはさまざまに背景勢力のあれこれが浮かんだが、現状は憶測の域を出ないので、 ここではふれないでおく。単に記者個人の生き方の問題でしかないのかもしれない――。それならそれで、ここで今一度、記者の担う役割、 果たすべき役割について広く考え直しておく時期なのかもしれないとも思う。
政治家や役人に密着して記者の「距離感」の問題なのかもしれない。「辞任記者会見」でのツメ寄りは、 日頃密着しすぎるほど密着するほかない「距離感」の喪失から発生してくるのであろうか、との疑念も拭い去れない。
藤村官房長官は、「報道されている件は非公式懇談で(出たもので)、報道と本人の言っていることが違うようだ」として、 民主党幹部が経緯を検証する方向で動いているとした。これはメディアへの警告というより、党内向けのガス抜きや、自民党などから出た「 (鉢呂経産相は)万死に値する!」などの暴論へのけん制と考えられないこともないが、そう考える際には、 閣僚がメディアにそうした役割を振ることが可能と考えるようになることは、メディアにとって進歩なのか後退なのか。 そこまで検討しておいたほうがよさそうな推移が続いている気がしてならない。
メディアの側にとっては、たとえだれが「オフレコ」といおうが、 必要と思われるときには必要なウラもとってそれを報じるのがメディアの役割である。しかし、今回の「死のまち」から始まり、 「放射能つけちゃうぞ」へ至る過程で、急速にヒートアップし、 ヒステリックとも呼ぶべき状態へとメディアが突進した状況はなかったかといえば、否定しきれない何かがある。 私も違和感を感じていた者の一人であることは事実だ。
私は、政府も民主党も、鉢呂氏の辞任の後に、「経緯を検証し、今後のメディア対応も検討する」 というようなことを言い出すのはおかしいと思っている。もしやるのであれば、鉢呂氏の辞任の前にやるべきことだろう。 辞任の意向がどんなに固くても慰留して、事実確認を先にする必要があったのではないかと思う。辞任の後にこれをもちだすことは、 党内闘争のツケをメディアになすりつけて終わろうとする行為に等しい。ほくそえむのは原発推進勢力の面々だけだろう。
それでもメディアは、この機会に、役所や企業や政治家の顔色を伺い、 一秒でも早く他社を抜く競争に明け暮れることのなかに潜む落とし穴、悪しき横並び、抜いた抜かれたの競争につけ込む力の存在について、 そろそろしっかり意識してかかるべきときを迎えているのかもしれない。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
東京・新宿で脱原発デモ=参加者1万人練り歩く(時事通信11日)
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2011091100197
エネ調に原発批判派 鉢呂経産相、委員入れ替え指示(北海道新聞5日)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/316297.html
鉢呂経産相、就任9日目で辞任…「放射能をうつす」など不適切発言で
(スポーツ報知11日)
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110910-OHT1T00284.htm
「放射能発言」報道を検証=オフレコ漏れを問題視か−民主(時事通信11日)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011091100188&j4
鉢呂氏迷走、省内困惑…エネルギーや通商政策も(読売新聞11日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110911-00000184-yom-pol
鉢呂氏会見「記憶が定かでない」(中国新聞11日) http://t.co/PyGSafS
「辞めて当然」「期待する間もなかった」被災地は怒りと落胆(産経新聞11日)
http://t.co/1h5lFeq
河野太郎氏のブログ http://t.co/RKfp3uG
鉢呂経済産業大臣 辞任会見 http://www.ustream.tv/recorded/17181959
http://jcj-daily.seesaa.net/article/225634658.html#more
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