01. 2012年2月11日 12:46:17
: El8XDQ1yds
このニュースは歴史的背景を説明する必要があるので、解説させていただく。ネッドカーは、オランダのトラック・バス大手のDAF社の乗用車部門が母体だ。第二次世界大戦後の西欧諸国の経済復興に伴ない、乗用車の需要は爆発的に増加した。商用車主体のDAF社も、これを千載一遇のチャンスとばかり1958年に乗用車に進出した。日本の軽自動車より少し大きいクラスの小型車を生産したが、後発メーカーのため強力なセールスポイントが必要だった。彼らの武器は無段変速機であった。現在、日本の小型車で普及しているCVTの原型である。DAF社の乗用車は着実に販売を伸ばし、1967年に乗用車生産を商用車部門とは別に行なうこととした。これに伴い、乗用車生産工場が新設された。これが現在のネッドカーの工場である。DAF社は30シリーズや33、44、55など小型車をモデルチェンジして生産していたが、後輪駆動で変速機以外は旧態依然とした技術しかなかったため、1973年の第一次石油危機に伴なうガソリン価格の急騰で有利になるどころか逆に他社の魅力的な小型車に喰われて需要が急減。DAF社は乗用車部門の不振に足を引っ張られて倒産の危機に瀕した。DAF社は生き残りのため、乗用車の販売が伸びていた当時のボルボ社に乗用車部門を売却した。 DAF社の乗用車生産部門は、ボルボのオランダ工場として再出発した。ここでDAF社の技術を生かした340シリーズを生産。この車種はイギリスで好評であった。しかし後輪駆動のままであり、他社に対抗するためには前輪駆動化が迫られていた。そこでボルボは当時のルノーと会社ごと合併して生き残りを図った。ルノーの乗用車は小型車から大型車まで前輪駆動であり、ルノーのプラットフォームを活用してボルボの小型車を生産する予定であった。ところがボルボの大株主であるスウェーデンの退職者年金基金が、ルノーとの合併に強硬に反対した。これによりボルボの経営陣は総退陣し、ボルボとルノーとの合併は破談した。1991年のことである。 これに危機を感じたオランダ政府はボルボのオランダ工場の存続を図るため、同工場をボルボから独立させ、ネッドカーを設立。同時に10%の株式を握った。雇用問題は政府を揺るがすことから、彼らは同工場の存続を図るべく西欧に進出を希望する自動車メーカーに接触した。これに当時の三菱自動車が乗った。当時、日本の自動車メーカーは輸出先のアメリカや西欧諸国と貿易摩擦問題に悩まされており、現地生産への圧力が高まっていた。これに対しトヨタ、日産、ホンダはアメリカ、イギリス、スペインに単独で進出した。しかし三菱自動車の体力では単独進出は無理である。そこでアメリカにはクライスラーと、西欧にはボルボとオランダ政府との合弁で進出することとした。単独での進出よりはリスクが少ないだろうと判断したのである。 ところがである。その合弁相手のボルボが、主力のアメリカ市場でレクサスやインフィニティ、アキュラと言った日本車の高級ブランドに1990年代以降、顧客を奪われ、スウェーデンで生産する700シリーズや900シリーズの販売が大幅に減少。乗用車部門が会社全体の重荷になった。彼らは建て直しを試みたが、かつての売り物であった安全設計が他社の猛攻の中、優位性は失われた。他社も高い安全性をセールスポイントとするようになり、しかも丸いスタイリッシュなデザインである。角ばったボルボの乗用車はダサいと見向きもされなくなったが、これは世界的傾向であった。 ボルボは顧客離れに対し新しいS40シリーズやV40シリーズを出したが、もはや自動車選びの候補にも挙げられなくなった。世界的な不人気車種になってしまったのだ。このためボルボは1999年に乗用車部門をフォードに売却。これは三菱自動車にとって想定外の出来事であった。合弁相手がいなくなってしまったのだ。ボルボは2001年にネッドカーの株式も売却したが、買い手がなかったので三菱自動車が買い取る羽目になった。これの背景について説明する。 西欧諸国は労働コストが高く、もはや価格競争力のある小型車を作ることはできない。このため大手メーカーは東欧に小型車生産の拠点を移している。ルノーはルーマニアで、プジョー・シトロエングループはチェコで、フィアットはセルビアで、スズキはハンガリーで小型車を生産している。これに伴い、各社は西欧の生産拠点を次々と閉鎖している。シトロエンのベルギー工場は1980年に閉鎖されたし、ルノーのベルギー工場は1997年に閉鎖された。ベルギーの北に位置するオランダも、労働コストが高すぎることから、ネッドカーを買い取るメーカーは西欧にはなかったのも当然だ。 三菱自動車は世界でも有数の労働コストが高い工場を、単独で運営しなければならなくなった。これとよく似た条件として、提携先のクライスラーが経営危機で売却したオーストラリアの現地生産子会社がある。同社は1980年に三菱自動車が三菱商事と共同で買収したが、こちらも労働コストが高く、しかも労働法制が世界で一番厳しいオーストラリアとあっては、日本の本社の足を引っ張るのも当然。三菱自動車は子会社のために本社もろとも倒れかねない事態に追い込まれたのである。 三菱自動車は経営再建のために、三菱商事から派遣された社長が経営の舵取りを担うことになった。現地生産進出より遥かに難しいのが撤退である。各国の経済事情に精通し法務に強い商事でないと、この難事業は行なえない。現社長は、オーストラリアからの撤退を2007年に見事に達成した。オーストラリアからの現地生産撤退は、かつて日産自動車が行なった先例があるが、破格の条件を出したと言う。オーストラリア日産で働いた従業員は、一生の間、破格の安さで日産の自動車を買い替えられる特典があるそうだ。三菱の場合、このような特典は一切ない。さすが益子社長である。 そして今回、次の難事業であるオランダの工場閉鎖がまとまりつつある。ここまで漕ぎ着ければ、もはや話をひっくり返されることもないだろう。これら一連の流れを最大手のトヨタはどう見ているのだろうか。かつてリコール隠しなど一連のネガティブキャンペーンの背後でマスゴミを使って暗躍した同社だが、自分とこに跳ね返ってきている事態が分かっていますか。西欧諸国では、トヨタの影がこれまでになく薄い事実が全てを物語っているのではないか。F1レース前人未踏の140連敗記録は消すことのできない歴史的事件であった。これがトヨタの人気を決定的に失わせたことは、揺るがぬ事実である。 |