02. taked4700 2012年1月15日 15:33:18
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100312/213315/?rt=nocnt「ボルカールール」は機能しない 濱田 康行 2010年3月18日(木) 米金融機関の投機的な動きを規制する「ボルカールール」が発表された。オバマ大統領の呼びかけにより、米国のポール・ボルカー元FRB(連邦準備委員会)議長が中心となってまとめた金融規制の追加策だが、幾つかの問題がある。 大統領がルールと呼ぶ柱は3つ。(1)ヘッジファンドや不動産ファンドへの投資を禁止。(2)自己資金による高リスク商品への投資を制限。これらは一般から預金を集める商業銀行に適用する。そして(3)金融機関が大きくなりすぎるのを防ぐことだ。 その昔、ナローバンキング(狭い銀行業)という主張があったことを思い出す。米国で1980年代に多くの中小銀行やS&L(貯蓄金融機関)が破綻した。その教訓から「危ないものには手を出すな」「預金を預かっている銀行は安全な資産のみを持て」という主張がなされた。1990年代の末、日本の銀行危機に際して、この単純な“理論”が輸入されて、一時は学会でも支持者が拡がった。 理論の元はトービンほかの著名な学者である。預金を集める銀行は安全資産のみを持ち決済機能だけを行う。貸し出しは行わない。こうした狭い業務範囲しか持たない銀行は歴史上も存在した。振替銀行(Giro Bank)などと呼ばれるものである。しかし、それは19世紀の欧州での話だ。 そもそもお金のビジネスは単純である。お金は単一商品だ。外国為替取引を前提にすればお金は世界単一商品でもある。こういう性質の商品は大量に扱う方が効率的になる。お金を大量に扱う際にいつも問題だったのは輸送と安全であったが、IT(情報技術)革命の行き渡った今ではそれもクリアーした。だから銀行、証券、保険まで全てが営まれる、いわゆるアル・フィナンツが理想型なのだ。 歴史的には多くの曲折があった。それは、利益相反と数々の暴走現象が生じたからだ。そこで金融業をバラバラに分離することを思いついた。米国で銀行と証券業の兼業を禁じたグラス・スティーガル法(GS法)はその象徴である。しかし、その後の資本主義の発展の中で、この分離型の金融業の非効率が目立ってきた。金融革命が先進国で同時に進行し、1999年にGS法は廃止されたのである。 ところが今回、80歳を超える米金融界の大物が、大統領の顧問になり、この流れを止め、再びGS法の世界に戻そうというのである。 リーマンショックの犯人探しの帰結 どうしてこんなことになったのか。事の発端は言うまでもなく、リーマンショックによる世界金融危機だ。そして、この間違いの源流は、危機をめぐる単純すぎる犯人探しにあった。 世界金融危機の原因は、金融界の一部の人々の“強欲”にある。その欲望を追求できる装置があり、その制御がなされていなかった、というのである。ではどうすればよいのか。“強欲”は人間の性であり消せそうもない。そうすると装置だ。欲望があっても、それを展開するための装置が動かなければ、手を縛られたのと同じである。さらに機械を機能ごとに分解してしまう。これがGS法やナローバンク論の精神である。 しかし冒頭に述べたようにお金のビジネスは統合を理想とするから、分離案は歴史の逆コースであり、大物の提案であっても実現しないだろう。世界のどこかの国の金融機関が統合型であれば、分離型の金融はそれに勝てないであろう。だから世界同時に分離型を目指さなければならないが、米国にはそんな統率力がもはやないのは明らかである。 もう1つ大事な論点がある。ボルカールールは金融業による(特に預金を集める機能を持つ機関)ビジネスの拡大を止めようという意図がある。仮にリーマン・ブラザーズがデリバティブを拡大せず、地味にやっていれば破綻しなかったのかもしれない。北海道拓殖銀行がナローバンキングを忠実に実行し、不動産ビジネスなどに手を伸ばしていなければ倒産しなかったかもしれない。しかし、これこそ、あり得ない仮定の話である。 考えてみるべきは、金融業が失敗してナローバンキングが唱えられても、それを忠実に実行する金融機関がなかったのはなぜかということである。リーマンがレバレッジ(借入金によって投資資金を増やすこと)を数十倍にして金融業の範囲を拡大し、彼らが発行する債券を買うことで多くの商業銀行も間接的にせよ“危ないビジネス”に参加していった。それはなぜか。 この問いを突き詰めていくと金融業の持つ本質が見えてくる。それは、金融業の獲得する利潤が基本的には借り手の創造する利潤からの控除であるということである。 金融界のあげる利潤の源泉は、製造業やサービス業、つまり金融業から借金をする(せざるを得ない)企業のあげた利潤の一部なのである。それは利子、つまり貨幣の使用料という名目で割譲されるのだ。 金融業だけしかない経済は考えられない。米ウォール街とか英シティとかの金融街だけしかない世界は考えられない。 逆に金融業がない経済は理念的には考えられる。人々は、一次産業、二次産業があれば生きていけるはずである。また、お金をじっと見ていても増殖しないことを私達は知っている。銀行預金に利子が少しでもつくのは、預金が製造業やサービス業に貸し出され、そこで利潤を生む活動に参加しているからである。私の預金がその銀行で貸し出されず銀行間市場に回ったとしても、どこかで使い手に巡り合っていなければ、私に利子は入らないのである。金融業の本質のひとつは、自らは利潤を生まず、他の獲得した利潤の一部を受け取ることである。これを寄生性と呼ぶ。もちろん、それだけではない。後に述べるが金融業は“創造性”も持っている。 例で説明しよう。1000の資金(投下総資本)を動かす製造業(実業)があり、150の利益をあげていたとしよう。1000の投下資本のうち半分の500は金融業からの借り入れであり、そのことへの報酬として50の利子を支払っていたとする。 実業の規模の拡大や、生産性の上昇などによって利潤率が上昇しない限り、150の利益は変化しないと考えてよい。金融業が5社で構成されていると、その分業関係にもよるが、平均すれば1社当り10の利益になる。金融業は装置産業ではないから比較的小さな100の投下資本で済むとすれば利潤率は10%で実業の世界と同率になる(製造業は150−50/1000で、金融業は50/500である)。 金融業が進む3つの道 さて、この前提で金融業が10社に増えたとする。資本主義の発展は後に述べるように金融業の増大を促すから、そう考えるのに不合理はないだろう。そうなると、金融業1社当りの取り分は減少し、半分の5となる。よく金融業の肥大化というが、それは深刻な問題を金融業そのものにもたらす。受け取るものが同じなら同業者が増えれば1社当たりの利益は減る。それでは、資本主義企業のメルクマールである平均利潤率を達成できないので金融業は次のいずれかの方向に進むことになる。 (1) 金融業を撤退して他の産業へ移る。 (2) 利子率を上昇させて自らの利潤率を確保する。 (3) 利子を稼ぐというのに加えて、収益になる他の関連ビジネスを展開する。 (1)参入障壁は製造業の装置化が進むほど、高くなる。だから金融業から製造業に進出というのは難しい。技術的制約もある(逆は可能:ソニー銀行のように)。可能性のあるのは、サービス業であり、しかも金融業に隣接するサービス業である。現代にみられる金融業のサービス産業化という傾向はこうして生ずる。 (2)この可能性はあるが、近隣窮乏化策である。余計に金利を取られた実業の側の利潤率が減少してしまうから、こういうことは長くは続かない。金融業に独占や寡占が成立していれば可能性はあり、歴史的にも実例は見られる。しかし、高利は実業を痩せさせるから、結局、利子の源泉を滅ぼしてしまう。 (3)これは2段階で進む。まず金融業の幅が広がる。個人ローン、住宅ローンなどの貸付という本業の拡大。次が手数料収入の類である。プロジェクトファイナンスの企画、シンジケートローンの旗振りなどの企画もの、そして社債の発行引き受け、株式の増資等の証券業務、さらに保険を含めた広義の金融分野、つまり、前段で述べたアル・フィナンツへの道である。 金融は貨幣の貸付を基本としている。だから金融業の土台は貨幣・マネーの存在量である。では貨幣はどのように出現するか。それは商品の販売によってである。貨幣は決して無からは生じない。現代では中央銀行が無から貨幣を“製造”しているかのような印象があるが、本質は違う。中央銀行は商品が貨幣に転換したその瞬間に銀行券という紙に置き換えているのである。だから、現在では、硬い金属のマネーは出現しない。中央銀行は商品が貨幣に転換する分量を予測して先回りして紙幣を発行しているに過ぎない。もちろん、この予測は時々、失敗する。 貨幣は“過去の商品”である。私が商品を製造し、それを売却して貨幣を得る。この貨幣を当面使用しない。それが金融世界の礎となる。貨幣にも2種類ある。現在流通している貨幣と、過去に流通していた貨幣が形成した金融資産である。1個の貨幣がいくつもの足跡を残す現象を信用創造として私達は認識している。通常は金融資産>流通貨幣であり、金融世界の大きさは前者で決まり、その成長率は後者に関係する。 それでは過去の商品と現在の商品はどちらが多いか。資本主義が歴史を経れば過去の方が大きくなる。例えは悪いが、生きている人々の数と墓に葬られた人の数を比べた場合、歴史が長ければそれだけ後者が多くなるのと同じである。商品は次々と消費され貨幣に代わっていくが、貨幣は一度、世に出てしまえば“消費”されることはない。それは使用されて他の誰かに渡るだけである。象徴的だが、今まで人類が貨幣として掘り出した金は、すべて現存しているのである。 ということは、資本主義の発展とともに、第2の範疇の貨幣の量は増大する。重要なので繰り返すが、ここで言う貨幣の量は商品流通を媒介するものとしてではなく、貯蓄された量である。それは、必ずしも現物の貨幣である必要はなく、貨幣の請求権の型であってもよい。いわゆる金融資産である。先進国で統計をつくると、どこでも金融資産>実物資産となっている。 だから、資本主義が発展すると金融業の物的土台は拡大する。ここで、実物経済の成長がなければ、金融業は早晩、行き詰る。しかし、金融業には、他からの分け前で成立するという“寄生的”な面に加えて、実物経済の利潤量を増やすという“創造的”な面がある。 先の例では、500を貸していた。簡単に言えば、これがなければ実業世界の利潤は半分である。金融業は、それ自体は利益を生まないが、これを利用する実業界の利益を増大するのである。 金融は実業界の成長を加速する。加速度をもって増大する経済こそ典型的な成長経済であるが、そういう経済状況下では金融は肥大にならないのである。より大きな実物経済がより大きな金融を必要とするからである。しかし、成長しない経済になれば事情は一変する。 経済停滞で金融はカジノ化へ 自国の実物経済の成長に翳りが出てきたとき、金融業の選択はいくつかある。(1)海外に展開する。古くは英国の植民地銀行がそうであったように、利潤率の高い途上国に方向を切り替える。今日でいえば、成否はともかく旧社会主義国もターゲットに入る。貸出先を国内から国外に変えるとともに、資金の調達先も変える。いわゆる、外から集めて外に貸す、外・外モデルだが、それをするには外国為替取引に長けていること(ヘッジファンド、先物・オプション取引など)、証券化の技法、金融商品の販売チャネルが必要となる。おそらく、サブプライムローンの領域は国内に残っていた“途上国金融”の変型であったのだろう。ともかく活動領域を拡大する、いわば水平的拡大である。 (2)金融業の幅を広げる。金融業の販売しているものは“情報”であるという説もある。金融業はその成立からして諸産業の結節点に位置し、諸企業の出納業者として情報が集まるところにいるのは間違いない。この地位を利用して、企業への様々なサービス提供がなされ、それで手数料・報酬を稼ぎ、やがて金融の本業に結び付くというのは理想のシナリオである。これは金融業の垂直的拡大である。 こうした水平、垂直双方の展開の中に投資銀行をおいてみれば理解しやすい。 先進国の金融業は、自らを変容させて先進国経済の停滞という局面に対応してきた。その変容が先行する限り、また先進国の実物経済の後退がさほどでない限り対応しえたし、局面によっては、利益を増大させることができた。しかし、金融が寄生性を持つという事実は変わらない。利益の分け前の縮小があれば、無理に事業を拡大するよりなく、つまり次第に危険な領域に踏み込まざるを得ない。金融のカジノ化である。 リーマンはカジノで当初勝ち続けそして最後に負けたのである。しかし、この傾向は、先進国のすべての金融機関に共通してみられる現象である。 世界金融危機は構造問題である。証券化といった技術、金融工学といった学問は根本的な原因ではない。それらは状況が生み出したツールであり、その使い方の誤りはあっても、ツールに罪はない。よく切れるハサミで誤って手を切ったら、誰の責任かという問題と同じだ。 解決方向は自ずと明らかに ひとつは、実物経済の発展である。それは国内(自国)であっても海外(外国)であってもよい。先進国の経済が高い成長率で拡大することは、想像もできないようなイノベーションがない限りあり得ない。もしあったら、今度は環境問題が心配になる。となると、他国、とりわけ途上国への期待が高まる。もっとも、環境問題はここにも厳然と横たわっているが、背に腹は代えられない。世界の金融業を満足させるには、大量の利潤が欠かせない。中国という大国に世界が期待するのは、目下の状況では、当然である。 もうひとつは、金融業が小さな利益でも存続できるように自らを改造することである。IT利用の徹底や業務の再編(合併・統合を含む)である。先進国内の大手金融機関の再編は既に完了しているから、今後は国境を越えた合従連衡が中心となろう。 金融業の拡大、守備範囲の拡大は今後も続き、その限りで、現時点では私達の知り得ない新しい金融技術が工夫され、金融商品が生み出される。冒頭に述べた、復古主義的な規制強化はこの進歩の可能性を摘み取るという点でも問題である。 規制強化はGS法への逆行であり、成功しないであろう。資本主義という体制で人類が生き延びるためには、必然的に拡大する金融世界に充分な利潤を割譲できる大きさの繁栄した実物経済が必要である。そのためには、金融界が健全で充分な資金を実物世界に供給できるのでなければならない。金融界に、あれをするな、これをするなと手錠をはめ、人頭石のようにこれ以上大きくなるなとタガをはめるのは、政策としては間違っている。それが、人々の支持を受けるからというだけで推進されるなら、典型的なポピュリズムであろう。 実物世界の拡大が順調に進まなければ、金融界が縮小するのは難しいから、金融界の1社当りの分け前は増えない。このことが低金利として現象する。だから、当面、世界中の金利は低いままであろう。それは、実物経済の成長が鈍化した日本で、超低金利が10年以上も続いていることで先行的に示されているのである。 |