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前回詳しく説明したように、思想も経済政策も大きく異なる各派――社会保障や福祉を重視するコミュニタリアンから、可能な限り小さな政府が望ましいとするリバタリアン、さらには、経済活動は市場メカニズムを最大限に尊重すべしとするネオ・リベラリストまで――が、BIに対してはそろって賛同している。それにもかかわらず、BIはいまだどこの国でも実現していない。社会正義を満たし、数多くの現実的メリットを有し、しかも左派から右派までが支持するBIが実現していないのは、考えてみれば不思議である。
今回はBIがなぜ実現しないのか、その現実的理由を考えてみよう。
BIの説明の第2回目に、BIへの反対論を3点示した。
(1)働かない人が増えるのではないか
(2)社会が高コストになり、経済競争力が低下するのではないか
(3)莫大なコストがかかるので、財政的に負担できないのではないか
である。
しかしそれぞれについて検証したように、これら3つの反対論はすべて一理あるものの、決して克服不可能なほどの決定的要因ではない。BIには、こうした懸念を補うに足るだけのメリットが存在する。こうした問題を解消する手立てがあることも具体的に示した。
BIが実現しない“本音”の理由
にもかかわらずBIが実現していないのは、実はもっと深いところに大きな問題があると考えている。
1つは、「働かざる者、食うべからず」という人々の意識。もう1つは、「簡素でシンプルな制度なため、恣意性や裁量が介在しないことに対する行政の抵抗」である。
第2回目で示した3つのBIへの反対論は、主として学者による“建て前”としての理屈上の反対論である。一方、ここで挙げた2つの問題はBIに携わる主体者である国民と行政の“本音”の反対論である。こちらは主体者の本音の反対論であるがゆえに、先の3つの建て前の反対論よりも強力である。
以下、これら2つの本音の反対論に対して私が考えるところを述べていこう。
「働かざる者、食うべからず」の規範と心情
「働かざる者、食うべからず」という道徳律は、キリスト教の聖書にもこの文言が書かれているくらいに歴史が古く、洋の東西も問わない普遍的な規範である。この規範からすると、働こうが働かなかろうが等しく国民全員に生活できるだけのお金を配るBIは「働かなくても、食ってよし」を意味しているわけであるから、当然認められないわけである。汗水垂らして働いた人が、その対価として得た所得から払った税金で、働けるのに働きもせず、ブラブラしている人の生活費を賄うのだから、心情的に拒否感が生じるのは当然であろう。
しかし、その一方で、世界の先進国が歴史的に見てかつてないほど豊かな水準に達しているという“歴史的”事実がある。歴史的に、人口を決定する最大のファクターは、ずっと食糧生産に代表される経済力であった。しかし、日本をはじめとする先進国は20世紀の終盤以降、ついにその制約を超越する水準にまで豊かになった。つまり、1人の人間が生み出す生産物(GDP)が、“食うためだけの水準”を大きく上回る時代に到達したのである。何千万人、何億人ものスケールの国々が、これほどの経済水準に達したのは人類史上初である。ならば、人類史上初の経済水準に見合った新しい規範と新しい社会保障制度があっても良いではないか、と私は考える。
現在、日本の1人当たり国民所得は約260万円。BIのモデルケースで使われる“食うために必要な金額”が1人当り年間で100万円であるから、食うための2.5倍強も稼いでいるわけである。ならば、1人当たり国民所得の2.5分の1を国民全員に均等に分配して「働こうが、働かなかろうが、食って良し」とするのも、人類として大きな進歩ではなかろうか。
人類は帝国主義時代を経て、国際安全保障体制を構築した。東西冷戦の時代を経て、グローバル市場を実現した。同様に、経済的にかつてないレベルまで豊かになった現代民主主義だからこそ新しい規範として「働かざる者も、食ってよし」とするのも大いにありだと考えるのである。
官僚の本能は肥大化と差配
もう1つの“本音”の障害である「手続きが簡素になり、裁量の余地が無くなることに対する行政の抵抗」はやっかいである。
そもそも、現行の社会保障、社会福祉の制度が非常に複雑になってしまっている現実は、自分たちの仕事と裁量の範囲を広げたいという行政の意図がからんでいる。これは日本に限らず、「変化の排除と自己肥大化」という官僚制度が普遍的に持っている本能に基づくものであり根が深い。アメリカが政権交代と同時に多くの行政官僚を入れ替える制度を取っているのも、こうした官僚制度の本能に基づく官僚組織の肥大化を防ぐためのものである。
しかし、日本では、30年前の土光臨調が取り上げて以来「行革」が重大な政治テーマになっているにもかかわらず、行政機構の簡素化は一向に進んでいない。地方行政機構の整理を狙って2000年から始まった平成の大合併でも、地方自治体の数や議員の定数がかなり減ったにもかかわらず、行政職の数は減っていない。自治体の数は3232(1999年3月31日時点)から1727(2010年3月31日時点)へと半分近くにまで減った。市町村議員の数も5万9598人(1999年)から3万3695人(2010年)へと43%も減らした。これに対して、同じ時期に地方自治体の行政職員の数は13%しか減っていない。
人数の話だけではない。行政官僚は仕事を細分化し、複雑化させる。国交省が管轄する駅などの建造物と、厚労省が管轄する保養所などの施設と、文科省が管轄する学校の建物では、ドアや窓のサイズや天井の高さに至るまで仕様が異なる。建造物を建てるための工法の手順や規定も、それぞれの省が独自のものを定めている。各省庁が自分たち自身のコントーラビリティーを確保し、手続きを増やし裁量の範囲を広げるためである。利用する側からすれば、「一体何のためにこだわっているのか」と思うほど些末なルールや仕様を定め、効率性や社会コストの観点は軽視している。
細かい規定を定め、手続きを複雑化し、裁量の余地を広げ、組織を肥大化させ、差配の範囲を広げることを仕事としている行政官が、シンプルかつ裁量の余地がなく、(多くの行政官が不要になる)低コストのBIを受け入れるはずはないのである。
裁量の余地が失われるので子供手当ては潰された
2009年に民主党政権が誕生した時に看板政策として導入した「子供手当て」が2年ももたずに廃止となった理由もここにある。その後政府が、不況対策や震災復興政策で何十兆円もの予算を次々に組んでいることを見ても、財源不足が本当の理由でないことは明らかである。また子供手当てを廃止する代わりに設定した様々な控除項目や給付金を見れば、子供手当て廃止による財政負担の実質的な軽減幅はそれほどの金額にはならないはずである。
行政は、子供を抱える家庭を子供手当てによって応援することに反対しているのではない。また、子供手当てによって財政負担が拡大するのが嫌なわけでもない。差配・裁量の余地――何を控除項目するか、給付の条件をどのように細かく設定するか、どういう手続きで給付認定をするか――が奪われることに徹底的に反対したのである。
ニーズ対応型福祉のロジック
差配・裁量の余地を拡大したい行政が主張するのが、社会保障・社会福祉は“ニーズ対応型で”というロジックである。社会的弱者はそれぞれ弱者たる理由が異なっている。身体的障害で働けない人、子供を抱えて十分に働けない人、要介護の老人の面倒を見なければならない人、円高のあおりで職を失った人・・・・・・などに対して、それぞれ最適の社会保障と福祉のメニューを提供してあげましょう。それも、できれば現金ではなく、施設やサービスという現物支給で、という考え方である。(この考え方は、「困っているか困っていないかを問わずに、一律にお金をバラマクことは貴重な財源の浪費にしかなりません」というBI否定論につながっていく)
もちろんこの考え方にも合理性はある。行政が善意で、最適の判断を行い、しかもフェアで効率的な運営を行うならば、合理的で無駄の無い保障と福祉が実現するかもしれない。理屈の上では、そういうことも成立する。
しかし実態は別である。社会保険庁の不正と怠慢は記憶に新しい。恣意性と裁量が介在する制度では必ず不正などが起きるものである。不正や怠慢ばかりではない。雇用保険料を財源にした約2100カ所もの施設は、行政主導による社会保障の無駄と非効率のシンボルである。
つまり「社会保障はニーズ対応で」という考え方は、理想的な運用がなされれば、効率的な社会保障を実現するための有効な方法論になり得る。だが、現実には全く逆で、行政の恣意と裁量によって、肥大化と非効率ばかりが生まれてしまうのである。
成熟時代だからこそBIが必要
そして、この行政/官僚の本能とも言うべき差配と肥大化欲求がBIの実現を阻んでいる最大の原因であろう。日本は経済的にも人口動態的にも成熟期を迎え、社会保障や福祉の必要度は増大する一方である。しかもそのための経済的余裕はますます少なくなっていく。こうした状況に対応するためにも、社会の仕組みの効率化と公正化が不可欠となる。社会保障と福祉の充実という成熟日本の最重要テーマを達成するためはもちろん、行政の肥大化と差配体質を正すためにも、BIを導入すべきだと考えるのである。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111202/224804/?P=3
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「社会保障や福祉を重視するコミュニタリアン」に分類される私としては、BI制度に反対である。何よりもBI制度の導入によって、現在裕福な生活を謳歌している富裕層にさらなる現金贈与が行なわれ、超富裕層に変貌してしまう。その一方で、働くことが出来ない単身世帯は超貧困層へ転落してしまう。このように経済格差を今よりも拡大する効果を持つBI制度に反対である。
なによりもBI制度が「負の人頭税」であるという、BI制度の本質に致命的欠陥がある。
格差拡大を助長するBI制度導入ではなく、所得税への累進課税の大幅強化、相続税の税率大幅引き上げ、配当金課税の大幅引き上げ、株式など金融取引で得た利益への課税の大幅引き上げ、プラス「負の所得税」制度の導入が望ましい。
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