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これまで2回にわたってベーシック・インカム(BI)について説明してきた。BIは、理念的に見て、民主主義社会の正義の原理に適っている。制度としても現実的だ――シンプルで分かりやすい、運営コストが小さい。またBIに対する3つの反対論――BIにぶら下がって働かない人が出る、コスト高になって経済競争力が落ちる、必要な原資が大きすぎる――も紹介した。
BIについて面白いのは、政府の役割について両極端の意見を持つ「コミュニタリアン」と「リバタリアン」の双方が、BIを支持している点である。コミュニタリアンは、国民の平等性を最重視し、手厚い社会保障や福祉を強く主張し、その結果大きな政府を志向する。リバタリアンは、国家における政府の役割は可能な限り小さいことが望ましいと訴えている。
また「ネオリベラリズム論者」もBIを支持している。彼らは、リバタリアンほど思想的色彩が強いわけではないものの、経済活動も国民の厚生も市場メカニズムを最大限に尊重することによってうまくいくというスタンスだ。今回はこの点について説明しよう。
コミュニタリアンのBIは格差解消の平等政策
コミュニタリアンがBIに賛成するのは分かりやすい。彼らは「人は平等に生活し幸福になる権利がある」という理念を根拠に、社会保障や福祉の充実を主張する。“平等”を最重要価値とするコミュニタリアンにとって“格差”は何としても是正しなければならない。特に生存権を脅されている人々が存在する状況は決してあってはならないと考える。その点、国民全員に、無条件で、生活を保障するお金を給付するBIは、理念的にも、現実的効果の面でもコミュニタリアンの主張そのものだ。
ところで、私も含めてBIを考えるきっかけは、「普通の生活にすら困っている人々に対して何らかの公的救済を図るべきである」という思いにあることが多いのではないか。例えば、子供を抱えたシングルマザーのうち半数以上が年収114万円以下の相対的貧困に苦しんでいる現実を見ると、何としてもそうした人達に強力な支援をしなければという思いを抱く。日本が豊かな先進国であるにもかかわらず、経済的要因を理由とする自殺がどんどん増え続け、人口当りの自殺者数が世界でワースト3位であることを知ると、改善の必要性を感じる。人として自然な感情であろう。
こうした普通の人々が自然な感情に基づいてBIを支持の動機と、コミュニタリアンがBIを支持の理由とは、厳密に言うと、理屈の面で多少違っている。普通の人々がBIを支持する理由の重点が「貧困からの弱者救済」であるのに対して、コミュニタリアンがBIを支持する重点は「格差解消」「一律平等性」にある。どちらの立場も政策の対象としては、“貧困に苦しむ社会的弱者の支援”ではあるが、理念的な重点のあり所は異なっている。
リバタリアンにとってBIは政府の介入と裁量の排除
次にリバタリアンによるBI支持の理由を示そう。そもそもリバタリアンは、国家における政府の役割は警察・外交・国防など、最小限にすべきであるという立場を取る。にもかかわらず、最低でも60%程度の高い国民負担率を覚悟せざるを得ないBIを支持するのは意外に感じられるであろう。
リバタリアンがBIを支持する最大の理由は、BIが一律・無条件であるため行政コストが小さいことと、行政の恣意性と裁量が排除できる点にある。レッセフェール――成すに任せよ――を旨とするリバタリアンが最も排除すべきだと考えるのは“政府の介在”である。現行の社会保障や社会福祉は、細かな規定に基づいて施行・運用されている。政府による介入と裁量的運営のコングロマリットのような存在である。この政府介入・裁量運営のシンボル的分野を根こそぎ更地に戻すがごときBIは、財政面では拡大が避けられないにしても、理念的には極めて好ましいということになる。
リバタリアンは、元来は「最小政府国家」を看板にしていた。しかし近年は、こうした側面を重視して「最大限に分配する最小国家」という理念が登場してきている。
ここでも通常の社会人の考え方とリバタリアンの考え方とのニュアンスの違いを示しておこう。先ほども述べたように、通常の人たちがBIを支持する動機は、色々な事情で貧困に苦しむ社会的弱者を救うことにある。これに対してリバタリアンにとっては、様々な形で政府/公的権力が介入・裁量することを排除できることが、BIに賛同する最大の理由である。
政府は小さければ小さいほど良いと考えるリバタリアンも、国家を維持し国民を守るための警察や国防といった公的サービスの必要性は認めている。こうした警察や国防と同じく、深刻な貧困の解消は国民の生存権を確保するために不可欠であると考える。そして不可欠な公的機能であるならば、可能な限り「介入や裁量が小さい方が良い」との理由でBIを支持しているのである。
ネオリベラリストは政府による分配は非合理と考える
ネオリベラリストたちがBIを支持する理由もリバタリアンに近い。ネオリベラリストは、経済的資源配分は市場に委ねるのが良いと考える。政府が恣意的に市場に介入したり、経済活動をコントロールしたりすることに批判的である。
政府のサイズは小さければ小さいほど良いとするリバタリアンと、政府がコントロールしようとしても経済は上手くいかず、市場に任せるのが適当であるというネオリベラリストは、政府の役割に関しては共に極小を良しとするが、異なる点がある。
最も大きなその相違点は、リバタリアンの主張が根本的には思想的/理念的なものであるのに対して、ネオリベラリストは経済活動を中心とした現実的方法論の色彩が強いことだ。言い換えるなら、リバタリアンはまず思想/理念ありきで、その思想に添った経済政策を主張する立場。一方ネオリベラリストはまず合理的経済政策の主張があって、そうした経済政策の延長に“小さい政府・最小限の介入”という望ましい政府の姿がある。
従って、リバタリアンがBIを支持する最大の理由が政府の介入・裁量が小さいことであるのに対して、ネオリベラリストがBIを支持する理由は、BIが市場メカニズムに適っていて経済的に合理的だからという点にある。
つまり、ネオリベラリストは、BIは現金給付であるため、その使い途は各個人の自由意思によって決められる。従ってBIに投入される財政資金が市場メカニズムによって配分されるので、政府が再配分するよりも効率的な資源配分が可能になるという立場なのである。
ネオリベラルの理論的主柱となっているフリードマン率いるシカゴ学派は90年代から、政策効果がBIと比較的近い「マイナスの所得税」という政策/概念を提案している。マイナスの所得税というのは、ある一定の所得水準に満たない層に対して、水準に満たない額を埋めるための給付金を支給する制度である。このマイナスの所得税の目的は、健全な市場経済を維持するため、生存権が脅かされるような貧困層の存在を、政府が再分配政策によって解決することである。従って、動機と目的は貧困の解消であって、平等の実現でもないし、政府機能の排除でもない。コミュニタリアンともリバタリアンとも主張の根拠は異なることが理解できよう。
BIは同床異夢なのか? 普遍的な正義の制度なのか?
コミュニタリアン、リバタリアン、ネオリベラリストの三者がこぞってBIを支持する理由を紹介してきた。これほど主義主張が違うにもかかわらず、各派がこぞってBIに賛同しているのは、単なる“同床異夢”なのか? あるいは、BIが、理念や政策の違いを超えた普遍的妥当性を持った民主主義社会に最適な“正義の制度”なのか? たいへんに興味深いところである。
しかし、こうして各派が支持・賛同しているにもかかわらず、現実的には、いまだどこの国もBIを実現していない。次回は、なぜBIが実現しないのかについて考えてみる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111129/224650/?top_updt
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年収500万円台の子ども3人の夫婦世帯がBI制度の導入によって、年収1000万円台の高収入富裕層に変わる一方で、年収200万円台の高齢単身年金生活世帯がBI制度の導入によって、年収100万円以下の超貧困層に転落する。この超貧困層に転落する世帯として他には、単身の生活保護世帯、単身の障害者世帯、単身の失業者世帯、なども含まれる。
BI制度が「格差解消の平等政策」などというのは欺瞞に過ぎない。年収1000万円台の5人世帯の富裕層はBI制度の導入によって、年収1500万円台の超富裕層にランクアップする。こうしたことは社会の公平性を保つという観点から、社会正義に著しく反すると言わなければならない。
結局、BI制度導入によって超貧困層に転落する単身世帯を救済するために、現在の生活保護制度、障害者年金制度、失業保険制度、介護保険制度、などを代替する新たな社会保障制度の併設が必須となってくる。
BI制度の最大の欠陥は、BI制度が「負の人頭税」という制度そのものからくる「経済格差をより拡大」する性質である。「一人当たり何万円」といった極めて乱暴な割り切りが大きな弊害を生じさせている。
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