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これから引用する内田さんは「国民経済」という概念を持ち出し、国民も企業もお互い持ちつ持たれつの“運命共同体”だと説明している。
だから昨今のグローバリズムを批判し、典型的なグローバル企業で「3〜5年で本社社員の半分を外国人にする」とぶち上げたユニクロの柳井社長のような人にも疑義を呈している。
内田さんは「国民経済」について文中で『日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」』とし『端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすこと』『老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである』としている。
この価値観に異論を唱えるつもりはない。むしろ大賛成したいくらいだ。
しかしユニクロの柳井社長が聞けばどう言うだろうか?
きっと「グローバル競争はそんなヤワじゃないよ」とか「そうは言っても企業が潰れていったら、いまよりもっと貧困者が増えるよ」とか挙句には「日本の貧乏人なんて世界に比べたら豊か」なんて返ってきそうだ。
「国民経済主義か? グローバリズムか?」という対立軸はいい。
しかし内田さんをはじめ、多くの反グローバリズムの人たちは、価値観を高らかに主張するが、その先の論理までは明確でなく、ほぼ価値観闘争に終始していると私は感じている。
言葉は悪いが、これじゃ宗教論争と同じで結論なんて出ないし、国民多数で合意形成もできっこない。これから就職戦線に立とうとする学生に、山奥での自給自足を勧めるようなものだ。それに惹かれる人はいても、結婚や家族といったリアルに生活のことを考えれば、やはり多くが嫌々でもグローバル競争の道をとるだろう。
内田さんもせっかく「国民経済」という概念を使っているのだから、これに経済論理を加えもっと説得力のある価値観に昇華させてほしい。
いちおうグローバリストの側でも「経営資源を生産性の高い分野に集中させることで経済成長できる」とか「富める者を優遇すれば、その“おこぼれ”で国民も豊かになれる」といった理論らしきもの提示しているのだから、論には論で対抗しなくては勝てない。
(たまに阿修羅でも見かけるが「グローバリズムは止められない」や「世界の潮流はこうだから従うべき」といった論は奴隷と同じである。いちおう頭脳らしきものを両親からもらっているのだから、もう少し自分の頭で主体的に考えてみたらどうだろうか?)
「国民経済主義の経済論理」はいたって簡単である。
ユニクロだって収益源として日本市場(=国民経済)に依存しているのだから、その安定こそがユニクロの最大の利益という当たり前のことを理論化するだけである。
端的には「需要」を作るのは誰か? という問題に収斂される。
これまでは国家(赤字財政=国債)でそれを作ってきたが、最近では経団連でさえ不安視しているから問題アリだろう。
すると真に需要を作れるのは企業しかいないとわかる。
おカネは天から降ってくるものではない。企業個々の支払った賃金が「需要」となるのである。そうであれば「低賃金」をひたすら求める企業の愚かさがわかるはずだ。
また日本で売るモノを海外で生産することの愚かさも理解できるだろう。その商品に対する需要はないのだ。
(海外で売るモノをその国で生産することまで反対しない。いくらでも現地人を雇えばいいだろう。彼らに支払った賃金がその国で「需要」となり、その企業の利益源となるからだ。しかし日本で売るものまで海外で生産するのは愚行である)
「人件費抑制」や「製造拠点の国外移転」が物価下落(デフレ)を招来するのは当然なのである。
それは“グローバリズム”を謳歌していた企業自身にも、やがてデフレ不況という耐えがたい災難として返ってくる。あのトヨタでさえ国内市場では軽自動車しか売れず苦境にあえいでいるんじゃなかったのか?
いないとは思うが、もし自社の長期的利益や繁栄よりも「自由主義経済」のイデオロギーのほうが大事で守るべきものと思う人がいたら好きにすればいい。
もちろん一社だけが「国民経済主義」で動けば、それに反し利益を得ようとする強欲企業との競争で敗れてしまう。だからこそ国家として「国民経済主義」のコンセンサスを形成し、それにふさわしい経済社会を国民多数の力で作っていかなくてはならない。
内田さんの「国民経済主義」に付け加えたいのは、大企業と中小企業、輸出企業と内需企業、勤労者と資本家、都会と地方・・・これら対立しているように見えるものすべてが、じつは利害共有者で一蓮托生の間柄なんだという価値観である。
そして競争で優位に立つ層が国民経済を重視し“慈善”に励むことが、じつは彼ら自身の利益の源泉をより強固とし、より金儲けできるという経済論理である。
「ウォール街占拠」のようにアメリカの民衆レベルで反乱が起きているいまが変化のチャンスである。たかが100年ちょっとしか近代化の歴史を歩んでいない日本人なら、アメリカの民衆にもきっといいお手本を見せられるはずだ。
※ 偉そう書きましたが、ぜんぶ阿修羅であっしらさんから学んだものです。まちがってもエテ公ごときに難しい質問をしないように!(笑)
質問・反論があれば答えられる範囲で答えたいと思います。。。
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子守康範さんのMBSラジオ『朝からてんこもり』に三ヶ月に一度出演している。今回は「冬の出番」。
日曜に迫った大阪ダブル選挙の話は放送の中立性に抵触するデリケートな話題なので、微妙に回避。
子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3−5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」
これは「就活する君へ」というシリーズの一部である。
私は読んで厭な気分になった。
たしかに一私企業の経営者として見るなら、この発言は整合的である。
激烈な国際競争を勝ち残るためには、生産性が高く、効率的で、タフで、世界中のどこに行っても「使える」人材が欲しい。
国籍は関係ない。社員の全員が外国人でも別に構わない。
生産拠点も商品開発もその方が効率がいいなら、海外に移転する。
この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。
ここには、国民国家の幼い同胞たちを育成し、支援し、雇用するのは、年長者の、とりわけ「成功した年長者」の義務だという国民経済の思想が欠落している。
企業が未熟な若者を受け容れ、根気よく育てることによって生じる人件費コストは、企業の収益を目減りさせはするが、国民国家の存立のためには不可避のものである。
落語『百年目』の大旦那さんは道楽を覚えた大番頭を呼んで、こんな説諭をする。
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか。昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つと、南縁草も育つ。栴檀の”だん”と南縁草の”なん”を取って”だんなん”、それが”旦那”になったという。こじつけだろうが、私とお前の仲も栴檀と南縁草だ。店に戻れば、今度はお前が栴檀、店の者が南縁草。店の栴檀は元気がいいが、南縁草はちと元気が無い。少し南縁草にも露を降ろしてやって下さい。」
これが日本的な文字通りの「トリクルダウン」(つゆおろし)理論である。
新自由主義者が唱えた「トリクルダウン」理論というのは、勝ち目のありそうな「栴檀」に資源を集中して、それが国際競争に勝ったら、「露」がしもじもの「南縁草」にまでゆきわたる、という理屈のものだった。
だが、アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀」たちは、「南縁草」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
店の若い番頭や手代や丁稚たちは始末が悪いと叱り飛ばす大番頭が、実は裏では遊興に耽って下の者に「露を下ろす」義務を忘れていたことを大旦那さんはぴしりと指摘する。
『百年目』が教えるのは、「トリクルダウン」理論は「南縁草が枯れたら栴檀も枯れる」という運命共同体の意識が自覚されている集団においては有効であるが、「南縁草が枯れても、栴檀は栄える」と思っている人たちが勝者グループを形成するような集団においては無効だということである。
私が「国民経済」ということばで指しているのは、私たちがからめとられている、このある種の「植物的環境」のことである。
「そこに根を下ろしたもの」はそこから動くことができない。
だから、AからBへ養分を備給し、BからAへ養分が環流するという互酬的なシステムが不可欠なのである。
柳井のいう「グローバル人材」というのは、要するに「どこにも根を持たない人間」のことである。
だから、誰にも養分を提供しないし、誰からも養分の提供を求めない。労働契約にある通りの仕事をして、遅滞なくその代価を受け取る。相互支援もオーバーアチーブも教育も、何もない。
そういうふうに規格化されて、世界どこでも互換可能で、不要になればそのまま現地で廃棄しても構わないという「人材」が大量に供給されれば、企業の生産性は高まり、人件費コストは抑制され、収益は右肩上がりに増大するだろう。
繰り返し言うが、一私企業の経営者が求職者たちに「高い能力と安い賃金」を求めるのは、きわめて合理的なふるまいである。
だが、そんなことが続けば、いずれ日本国内の「南縁草」は枯死する。
多国籍企業はそのときには日本を出て、「南縁草」が繁茂している海外のエリアに根を下ろして、そこで新たな養分を吸い上げるシステムを構築するだろう(そして、そこが枯れたらまた次の場所に移るのだ)。
後期資本主義の「栴檀」たちは『百年目』の船場の大店と違って、「根を持たない」から、そういうことができる。
誤解してほしくないが、私はそれが「悪だ」と言っているわけではない。
現代の企業家にとって金儲けは端的に「善」である。
けれども、『百年目』の時代はそうではなかった。
私はその時代に生きていたかったと思う。
それだけのことである。
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