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前回はベーシックインカム(BI)について、社会正義から見た正当性と、制度としての合理性について説明した。BIは、民主主義社会の正義とされる(1)「自由」、(2)「機会の平等」、及び(3)「格差の極少化」に適っている。また現行の社会保障制度と比べて、(1)シンプルで分かりやすい、(2)運用コストが小さい、(3)恣意性を排除できる、(4)働くインセンティヴを損なわない、(5)受給者の尊厳を保てる、という5つの具体的なメリットがある。
一方で、BIには根強い批判、反対論が存在する。今回はBIに対する批判を紹介し、それらについて検討する。
BI批判の論点は、主として次の3点である。
(1) 働かなくても生活できるようになれば、働かない人が増える。
(2) BIのコストは国民経済の固定費として負担になり、経済競争力を削いでしまう。
(3) BIを支給するための原資は巨額で、財政を圧迫する(そのため、他に必要な公的支出にお金を回せなくなってしまい、かえって国民の厚生レベルを低下させてしまう)。
以下、1つずつ検討してみよう。
就労の動機と選択条件が変化する
まず第1の批判である「働かない人が増える」という指摘について。そういう現象がある程度発生するであろうことは十分に考えられる。
しかし、BIがあるからといって全く働かない人が大量に発生するかと言うと、私はそうは考えない。むしろBIの無い今はニートをやっている人でも、BIが導入されれば、逆に働くようになるのではないかとすら思っている。
どういうことかと言うと、BIが導入されれば、食うために無理をしてやりたくもない仕事をする必要がなくなるからである。生活を成り立たせるために我慢して、好きでもない過酷な仕事をする必要がなくなる。生きるためではなく、「楽しむため」や「好きなことをやるため」という前向きな動機で仕事に就くことが容易になる。
人々がこういう就労行為を取るようになると、雇用者が人を雇う場合に、低条件で過酷な仕事を押しつけることができなくなる。その一方で、好きな仕事なら賃金は低くてもやりたい、楽しめる仕事なら給料を気にせずに働きたい、という人も出てくるであろう。
つまり、BIが導入されると、就労の動機と職業選択の条件が現在とは大きく変化することになると考えられる。
ヘーゲルをはじめとする哲学者たちはこう考えた――人間は社会的存在であり、社会において自分の役割と存在理由を仕事(ワーク)によって自己確認する。これに照らしても、最低限の生活ができれば、仕事は全くしないという人はそう多くないと考えられる。楽しさや喜びを選択基準として仕事を選べる環境が整えば、現在ニートをしている人でも、仕事に就いてみようと考える人が出てくるだろうというのは十分に考えられることなのである。
当然、より良い暮らしをしたいとか、より高みを目指して自己実現を図ろうとする人たちは今と何ら変わりなく働くであろう。働けば働くほど自ら得られるものは大きくなるのだから。
消費税を財源にすれば、競争力は低下しない
次に、BIを実現するためのコストが国民経済の固定費として発生し、コストアップによる経済競争力の低下を招くという批判について考えてみよう。
まず、単純な批判として言われるロジックは、次のような流れである。BIの原資として増税が必要となる → 税金はすべて国民経済の中で物価の上乗せとして吸収される → 従って国内生産物の価格アップが起こり、国際競争力が削がれる。
この指摘は一面では正しいが、増税の財源を消費税にすることによって解決できる。もし財源を消費税ではなく法人税に求めるのであれば、企業はその増税分を製造原価に転嫁し価格上昇を招く。この場合は国際競争力にマイナスに働く。
しかし、その増税分を消費税に求めるのであれば、支給されたBIの実質購買力は増税分だけ圧縮されるものの、企業の製造原価アップは生じない。また消費税は国内消費に対してかけられるわけであるから、企業が輸出を行う場合には課税フリーである。海外からの輸入品についても、国内に入る時に消費税が課せられるわけであるから、国内での競争力バランスに変化は生じない。従って、BIのための増税分がコストアップとなって国際競争力を削いてしまうという心配は、消費税を原資とする場合には無用なのである。
論点は、仕事ごとの賃金増減の行方
むしろ慎重に考慮すべきは、過酷な種類の労働の賃金が急上昇することによる国内経済のコストアップがもたらす影響である。
第1の批判に対する考察の中でも述べたが、劣悪な条件で過酷な労働を求めることができなくなることは想像できる。その一方で、BIによって生活が保障されているため、人々が面白いと感じたり、楽しいと思えたりする仕事は、現在よりも低い給与で働く人が出てくるはずである。この時、仕事ごとに発生する賃金の増減の総和が、現在と比べてコストアップになるのかどうか、が論点になる。
私はこの点についてもそれほど悲観的になる必要はないと考えている。過酷な労働の賃金が上昇していけば、ロボットなどの代替策が登場するだろう。面白い/楽しいタイプの仕事はクリエイティヴで知的集約度が高い仕事が多いので、付加価値が大きいはずである。そうした付加価値が大きい仕事をより多くの人が目指すようになれば、高付加価値業務の生産性が高まる。その結果、競争力がむしろ高まることすら期待できる。
BI実現のための負担増は約60兆円
3つ目の批判は、BIの実現に必要な原資は莫大であり、財政的に非現実的であるというものだ。
では、実際にどれくらいの原資が必要になるのかの試算を示してみよう。
まず全国民に毎月一律8万円――BIを最初に提唱した一人である小沢修司氏のモデルケースにあるように――を支給すると仮定すると、必要な総原資は 122.6兆円である。ただし、この122.6兆円がすべて追加的に必要になるわけではない。基礎的年金や生活保護手当てといった社会保障給付は、BIが代替するので不要になる。そうした費用を差し引いて計算すると、BI導入のための追加コストは58.4兆円となる(計算式は立岩 真也・齊藤 拓『ベーシックインカム』p323〜p324青土社)。約60兆円の追加的歳入があれば、つまり国民負担率を現行の39%から57%に上げれば、国民全員に毎月8万円のBIを給付することができるのである。
生活の保障に加えて、社会正義の体現
本コラムの6回目「国民全員に医・食・住を保障する」ための追加コストは総額で51兆円であることを示した。その金額は消費税10%アップ、1%の金融資産課税の導入、相続税の実効税率を50%に引き上げることで徴収可能であり、その時の国民負担率は54%であった。
BIの導入は、「国民全員に医・食・住を保障する」というビジョンと比べて10兆円の追加コストが必要となるが、全国民の生活を保障する目的をより徹底したものであり、それに加えて社会正義の理念を強く体現した制度なので、私としても十分に支持できる。
このように、BIに対する3つの批判はそれぞれもっともな部分もあるものの、BI導入の合理性に対して致命的な問題となるわけではないと考えらえる。
BIに対する賛否に関して、興味深い議論がある。手厚い社会保障を重視する社会民主主義論者と、政府の役割は最低限にするのが良いと考えるリバタリアンとの双方が、共にBIを支持しているのである。社会民主主義論者とリバタリアンは経済政策の選択において真っ向から意見が対立することが多い。にもかかわらずBIに関しては、双方共に支持しているというのは非常に興味深い。次回は、なぜ、両極の経済理論が共にBIを支持するのかを解説し、BIの多面的な理解に供したいと思う。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111129/224649/?top_updt
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