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株式日記と経済展望
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アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由
主義経済体制において、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
2011年11月27日 日曜日
◆『百年目』のトリクルダウン 11月25日 内田樹
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柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3−5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」
これは「就活する君へ」というシリーズの一部である。
私は読んで厭な気分になった。
たしかに一私企業の経営者として見るなら、この発言は整合的である。
激烈な国際競争を勝ち残るためには、生産性が高く、効率的で、タフで、世界中のどこに行っても「使える」人材が欲しい。
国籍は関係ない。社員の全員が外国人でも別に構わない。
生産拠点も商品開発もその方が効率がいいなら、海外に移転する。
この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。
ここには、国民国家の幼い同胞たちを育成し、支援し、雇用するのは、年長者の、とりわけ「成功した年長者」の義務だという国民経済の思想が欠落している。
企業が未熟な若者を受け容れ、根気よく育てることによって生じる人件費コストは、企業の収益を目減りさせはするが、国民国家の存立のためには不可避のものである。
落語『百年目』の大旦那さんは道楽を覚えた大番頭を呼んで、こんな説諭をする。
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか。昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つと、南縁草も育つ。栴檀の”だん”と南縁草の”なん”を取って”だんなん”、それが”旦那”になったという。こじつけだろうが、私とお前の仲も栴檀と南縁草だ。店に戻れば、今度はお前が栴檀、店の者が南縁草。店の栴檀は元気がいいが、南縁草はちと元気が無い。少し南縁草にも露を降ろしてやって下さい。」
これが日本的な文字通りの「トリクルダウン」(つゆおろし)理論である。
新自由主義者が唱えた「トリクルダウン」理論というのは、勝ち目のありそうな「栴檀」に資源を集中して、それが国際競争に勝ったら、「露」がしもじもの「南縁草」にまでゆきわたる、という理屈のものだった。
だが、アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀」たちは、「南縁草」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
店の若い番頭や手代や丁稚たちは始末が悪いと叱り飛ばす大番頭が、実は裏では遊興に耽って下の者に「露を下ろす」義務を忘れていたことを大旦那さんはぴしりと指摘する。
『百年目』が教えるのは、「トリクルダウン」理論は「南縁草が枯れたら栴檀も枯れる」という運命共同体の意識が自覚されている集団においては有効であるが、「南縁草が枯れても、栴檀は栄える」と思っている人たちが勝者グループを形成するような集団においては無効だということである。
私が「国民経済」ということばで指しているのは、私たちがからめとられている、このある種の「植物的環境」のことである。
「そこに根を下ろしたもの」はそこから動くことができない。
だから、AからBへ養分を備給し、BからAへ養分が環流するという互酬的なシステムが不可欠なのである。
柳井のいう「グローバル人材」というのは、要するに「どこにも根を持たない人間」のことである。
だから、誰にも養分を提供しないし、誰からも養分の提供を求めない。労働契約にある通りの仕事をして、遅滞なくその代価を受け取る。相互支援もオーバーアチーブも教育も、何もない。
そういうふうに規格化されて、世界どこでも互換可能で、不要になればそのまま現地で廃棄しても構わないという「人材」が大量に供給されれば、企業の生産性は高まり、人件費コストは抑制され、収益は右肩上がりに増大するだろう。
繰り返し言うが、一私企業の経営者が求職者たちに「高い能力と安い賃金」を求めるのは、きわめて合理的なふるまいである。
だが、そんなことが続けば、いずれ日本国内の「南縁草」は枯死する。
多国籍企業はそのときには日本を出て、「南縁草」が繁茂している海外のエリアに根を下ろして、そこで新たな養分を吸い上げるシステムを構築するだろう(そして、そこが枯れたらまた次の場所に移るのだ)。
後期資本主義の「栴檀」たちは『百年目』の船場の大店と違って、「根を持たない」から、そういうことができる。
誤解してほしくないが、私はそれが「悪だ」と言っているわけではない。
現代の企業家にとって金儲けは端的に「善」である。
けれども、『百年目』の時代はそうではなかった。
私はその時代に生きていたかったと思う。
それだけのことである。
(私のコメント)
ユニクロの柳井会長が「グローバル人材論」を述べているそうですが、世界展開をしている企業の社長ならば、「必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です」と述べていることは当然です。グローバル企業や多国籍企業には国籍がないから、ユニクロも多国籍企業になる。もはや日本企業ではなく世界企業なのだ。
従業員もアジアや欧米店舗を出せば、現地の人を大量に採用して従業員も多国籍化する。そうなればユニクロの経営幹部も多国籍化してくるのは当然の流れだ。しかし日本の大企業においてはグローバル企業でも経営幹部はほとんどが日本人と言うのが普通であり、外国人は現地法人の社長あたりで止まってしまう事が多いようだ。
時間が経てば本社の役員にも外国人重役が出てくるのは当然であり、社長が外人社長という例も出てきました。外資に乗っ取られたと言うのではなく企業のグローバル化には外人社長のほうが世界企業と言ったイメージがでてくるからかもしれない。オリンパスなどもイギリス人の社長でしたが、飛ばしの問題を告発しようとして首になった。
世界的企業と言えども日本人経営幹部で固めるのも、ユニクロのように積極的に人材から多国籍化しようという企業など自由ですが、どちらも一長一短がある。どちらが正しいか時間が決めることなのでしょうが、業種にもよりけりなのだろう。経営幹部までもが多国籍化すれば会議は何語で話すべきなのだろうか? 状況的には日本企業で日本人社長でも役員が外人が多数なら英語で話すようになるだろう。
オリンパスなどは、イギリス人社長と日本人会長や他の日本人幹部とが意思疎通が出来なくて生じたトラブルなのだろう。昔のバブルの損失の後始末を飛ばしで処理してきましたが、一部の幹部しか知らせなかったのだろう。事件の全貌は分かりませんが、善悪はともかくとして意思疎通に円滑さがなくなるのは避けられない。
リーマンショック以降では、グローバル企業と国民国家の利害対立が激しくなり、政府に対して様々な要求を突きつける事が多くなってきた。日本の経団連も法人税を安くしろとか消費税を上げろとか製造業にも派遣社員を認めろとか多くの注文を出すようになってきた。金融立国を目指していたアメリカでも様々な金融規制は外されて投資銀行は世界金融で巨額の利益を出すようになった。もはやグローバル企業が国家を動かすようになり、労働者に不利な法律が通るようになってきてしまった。
日本でも市場原理主義とか規制の撤廃などが進められてきましたが、強者には有利な法律が通って弱者には福祉や保護法などが撤廃されて弱者に鞭打つ法律が多くなってきたように見える。アメリカでは富める者が起業等で多くの雇用を生み出すと言った論理がまかり通ってきましたが、富める者への減税や優遇措置が行なわれて、貧しい者へは何もなされないことが多くなってきたように見える。
日本でもダム理論と言って、企業が繁栄すれば利益が下に流れていくと言った事が言われましたが、利益は企業に内部留保されて200兆円も貯めこまれて労働者には分配されなかった。富める者は利益を独占して使わないから金が回らなくなり消費が低迷するようになってしまった。
ニューヨークのデモが広がっているように、1%の勝者と99%の敗者が別れるようになり、中産階級がどんどん消滅して来ている。企業はリストラでますます利益が上がるようになり労働者は非正規社員化して賃金水準が下げられた。政府の規制緩和の成果ですが、これでは雇用は増えない。累進課税も平準化されて富める者は減税されて貧しいものには保険料の値上げや減税の撤廃で税制は過酷になった。
国民国家は少子高齢化で社会福祉負担が大きくなり、企業や富める者は減税で優遇されるのは国家経営としては矛盾している。社会主義政策では富める者から税金を取って貧しい者に分配することで所得再分配が行なわれてきましたが、市場原理主義はそのような社会主義的な政策を吹き飛ばしてしまった。大企業や富める者は増税したら外国に出て行くと脅すからですが、そのような非国民は出て行ってもらったほうがいいだろう。
内田樹氏は落語の「百年目」を引き合いに出して説明していますが、『アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀」たちは、「南縁草」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。』と指摘するように、富める者は外車に乗りまわしているのに貧しい者はインフレで苦しんでいる。
不況が長期化するのは富が一部の者に集中してカネが回らなくなったからであり、累進課税を平準化で富める者がますます富み、貧しい者には賃金カットなどでますます貧しくなってきたからだろう。社会主義的な政策は行なわれなくなり、小泉構造改革は市場原理主義政策を取り入れて格差が拡大してしまった。民主党はそれを批判して「国民の生活が第一」というスローガンで政権をとったのに、いつの間にか小泉政権以上の新自由主義政権になっている。だからTPP加盟を野田総理は言い始めた。
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