http://www.asyura2.com/11/hasan74/msg/194.html
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インターネットが人の生活にもたらす利便はとても大きいが、それと同時に、大きな断絶もある。経済は成長していても、雇用を作り出していない。この断絶は、今後のより完全な景気回復によって消滅する一時的な現象ではない。それは、経済のもっと長期的な構造変化の一環なのだ。
昨日(米国時間11/14)行われたTechonomyカンファレンスでぼくは、二人のエコノミスト、MITのSloanビジネススクールのErik Brynjolfssonと、George Mason大学のTyler Cowenのディベート(下にビデオを埋め込み)の司会をした。議論のテーマは、テクノロジは経済のエンジンか、それとも雇用の破壊者か、だ。
多くの人たちが、当然のように、テクノロジは経済の最優等生だ、イノベーションとともに雇用も作り出している、と信じている。でもそれぞれの産業分野について、テクノロジの影響を広い視野で見ると、それほどでもない。テクノロジは企業の経営や操業を効率化するが、それとともに、単純作業をする労働者を排除することが多い。そうやって失われた人間の仕事を、より高度な技能を要する職種によって埋め合わせることは、どの企業もやっていない。
そこで、この10年で合衆国に起きているのは、経済成長に、本来なら伴うはずの雇用の成長が伴わないことだ。これまでは、生産性の向上と雇用の増加は二人三脚だったが、今やそうではない。2000年から2009年までの生産性の向上は年平均2.5%、1960年代以降で最高だ。しかし、この同じ10年に雇用の総数は1.1%減少した。
合衆国の失業率(政府発表)は9.1%で、1390万人に仕事がない。賃金のメジアンは1970年代からまったく変わらず、そのことが、CowenがThe Great Stagnationを書く動機になった〔?邦訳〕。一方、1%の最富裕層とそのほかの人たちとの収入格差は広がり続けている。そのことは、99%に属する人たちにとって、.#OccupyWallStreet(ウォール街を占領せよ)運動が示すように、あまり気分が良くない。
今の合衆国の労働者は、100年前の馬たちと同じ立場か。当時は馬が、別のテクノロジに置き換えられた。それは、エンジンだ(最初は蒸気機関、その後内燃機関)。労働者ならぬ労働馬は、ピーク時の1901年にはイギリスだけでも325万頭いた。そして、機械やトラクターや自動車やトラックの普及とともに、彼らの仕事はなくなった。
今日では、工場労働者はロボットに置き換えられ、ソフトウェアがもっと広い職域で、人間がやっていた仕事を自動化している。コストが下がり、利益は増えるので、企業はお得だが、しかし人間はどうだろう? その昔、?ラッダイトたちは機械が人間を追い出すと恐れたが、今、史上初めて、それが本当になりつつあるようだ。
ちょっと待って、とBrynjollffsonは言う。彼がAndrew McAfeeと共著したRace Against the Machine(機械との競争)で言っているのは、機械は人間の敵(people versus machines)と見るのではなくて、人間が機械と共存する(people with machines)と見るべきだ、という主張だ。テクノロジは道具にすぎない、人間はそれを使って生産性を上げるのだ、と。
しかし、インターネット、モバイル、クラウドコンピューティングといった新しい道具を使いこなせる人はそう多くない。全体としての労働人口は、適正なスキル構成を有していない。テク企業は十分な数のエンジニアを確保できず、一方で経済は慢性的な失業に苦しんでいる。
データで見るかぎり、経済の現状も未来も暗い。でも、ぼくは楽観主義者だ。新しい仕事を作り出し、雇用状況を良くしていくために、テクノロジがその先導役を担えるだろう。新しい会社を作る費用は、いまだかつてなかったほどに低い。また、組織作りの基本機構として、会社ではなくインターネットを使う新しい動きも、今後ますます一般化するだろう。
しかし、それによって経済全体における雇用の回復と成長が再来するのだろうか。この疑問に答えられる人は、まだ誰もいないのではないかな。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111115technology-destroying-jobs/
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ナウでヤングな経済学者ならこう言うんでしょうね。
「馬はエンジンにとって変わられたが、いまでは競走馬として大金を稼いでいるじゃないか。文句ばっか言ってないで、サラブレッドになる努力をしなさい。ほら、ゲートはもう開いているよ」と。
この記事に書かれているのは、要するに“生産性上昇”の話である
生産性上昇とは、わかりやすく事業のための投下金額を減らす(コストダウン)と考えればいい。販売量・販売価格が同じなら、生産コストを下げたぶんだけ儲けとなる。
しかし勤労者=消費者なのだから、コストダウンはそのまま需要減少だ。
(わかりやすくするため、IT導入などで投じられる設備投資費は捨象しています。あしからず)
それはデフレをもたらし、経済全体を縮小させていく。企業個々にとって生産性上昇は競争に打ち勝つため合理的選択だとしても、国民経済というマクロの視点から見れば必ずしもそうではないとわかるはずだ。
このパラドックスを解消するために、世界各国では赤字財政支出による需要補てん(ケインズ主義)を行ってきたが、それも世界経済を見渡せば持続的なものではないとわかる。
日本も終戦直後にデフォルトしているが、この60年で火の車となった。2010年度の一般会計を見ると、税収が40兆円にもかかわらず国債費が21兆円、うち利息の支払いだけで10兆円という惨状だ。
元本はともかく、利息だけでも実のある財政支出(除染や被災者への補償など)にまわせれば、ずいぶん経済状況も違ってくるはずだ。10兆円は名目GDP(約470兆円)の2%ほどもあるのだから。
日本はギリシャと違って自国の金融機関から自国通貨で借りているのだからデフォルトなんぞしなくていいが、たとえ借金をチャラにしても上に書いた「パラドックス」を解決しないかぎり同じことを繰り返すだけだろう。
「賽の河原の石積み」じゃないか!!
みなさんに問いたい。
“労働馬”から一握りのサラブレッドを目指して生きます?
“労働馬”でも気楽に暮らしていけるような経済システムに変えます?
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