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こういう近未来予測は、ほとんど外れるのが常だが、どうかな
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110930/222913/?ST=print
人間は「分人化」しないと精神がもたなくなる
作家・平野啓一郎氏が「確実に来る未来」を語る
2011年10月4日 火曜日
北爪 匡
日経ビジネス10月3日号特集「確実に来る未来100」では、人口、財政、産業競争力の観点から、日本や日本を取り巻く世界の未来を、マクロ経済指標などを基に予測した。
これに関連し、2036年を舞台にした近未来小説『ドーン』(講談社、2009年)を執筆した作家の平野啓一郎氏に、国家や共同体、個人の関係とその未来について、聞いた。
(聞き手は北爪匡=日経ビジネス記者)
―― 直近の社会情勢の変化をどうとらえていますか。
平野啓一郎氏は「2010年代は震災とともに生きる」と語る(写真:新関雅士、以下同)
平野:今回の東日本大震災のように突然、未来が変わってしまうこともありますから、あまり長い先のことは分からない部分もあります。ただ、日本にとって2010年代は、震災とともに生きていくしかないと思います。
津波後の宮城県や岩手県の再建については時計の針の進めようがあるかもしれませんが、福島県の原発事故は終わらせ方が分からなくなっている部分があって、そうもいかないでしょう。大きな世界の流れとは別に、日本は震災後をどうしていくかという問題が非常に大きいと思います。
1つ言えるのは、2000年代はインターネットの時代で、人間は擬似的に距離と時間をかなり越えることができるようになった。それが今回の震災でフィジカルな方へと人間の関心が引っ張られています。どこからどこまで歩いて帰れるのか、人が怪我をしたり亡くなったり、物がなくなったりと、物理的な関心が高まっている。そこが2000年代から2010年代への一番大きな変化でしょうね。
国家がなくなっても、「ユートピア」はない
―― そうした変化の中、現在の社会が抱える問題とは何でしょう。
平野:僕が一番、恐れているのは、国家権力の弱体化です。これは日本に限らず、2010年代に世界的に非常に大きな問題になっていくと思います。国家がなくなったらどうなるかという時に、かつてのような「ユートピア」のイメージはもはやありません。ソマリアのような状況になり、弱者が一番悲惨な目に遭います。問題の量が国家の処理能力を超えているのでしょう。
一方で、問題を処理しなくてはいけないレイヤー(階層)が大きく変化してきています。これはポストモダンの頃から言われてきた話ですが、「大きな物語」が「小さな物語」になって、インターネットの時代になることで、情報の発信者と受け手も細分化が進んでいます。この流れは今後も変わらないと思います。
インターナショナルな問題として国家権力を超えるものも出てきているわけですし、レイヤーごとに国家にできること、民間でできること、そして個人でできることを選択しないといけないでしょう。結局、国家の構成要素も人です。人間の1日はどんなに頑張っても24時間しかない。オバマ大統領がどれほど優秀な人でも、リンカーンの時代とは問題の量が違います。
政治的な議論にしても、1対1の合意形成はますます難しくなりますから、複数のマターでの取引しかなくなると思います。こっちを我慢するからそっちを我慢しろと。そうなってくると国家のリーダーシップを発揮していくことはどんどん難しくなります。
特に日本の場合は大統領制のように任期があるわけではありませんから、具体的な政策への不支持がどんどん膨らんで退陣要求に発展してしまう。ネットの発言力が強まっていくこと自体はいいことだと考えていますが、世論が強くなりすぎて、現行の制度がそれについていっていない。これは政治家個人の問題だけでなく、制度やシステムの問題です。
―― そもそも問題の原因はどこにあるのでしょう。
平野:すごく複合的な問題ですが、まずは処理する問題の量が増えすぎている。その際に、例えば技術官僚と大臣の持っている知識の量が非対象でギャップがあります。知識は権力ですから、ぽっと出の大臣と長年の経験がある官僚とでは知識の量に差が大きい。数多くの問題がある中で、政治主導と言って政治家だけで判断をするには限界があるでしょう。
今回の原発の問題でも明らかになりましたが、それは専門家と一般の人との知識の量のギャップでもあります。我々は何人かの専門家の言うことを比べることくらいしかできない。これは原発の問題だけでなく、今後いろいろな分野で広がる問題だと思います。生命科学や遺伝子組み換えの問題などですね。結局、素人では何も分からない。鵜呑みにしていたら、いざ問題が発生した時に判断ができない。
テクノロジーの進歩のスピードが速すぎる点にも問題があるのでしょう。原発問題にしても、過去のデータ、現在の技術力を基に「現実的じゃない」と判断されがちですが、2000年頃に携帯電話でYouTubeが視聴できるようになるなんて誰も想像していなかった。過去のデータだけ、技術的な問題を判断しきれるのでしょうか。
日本の場合、過去の数字に詳しい人がデータを積み上げれば説得できてしまいますが、それもすべて過去のものです。楽観的と言われても、これからの技術進歩を前向きに織り込むべきじゃないでしょうか。
「人口8000万人時代」へのハンドリング
そして民間の優れた人たちの知識を有機的に国家のプロジェクトに取り込んでいくしかないでしょうね。処理することのレイヤーがはっきりしてきた分、委譲できるものは委譲していく姿勢が必要だと思います。
現在はそうした過渡期にあります。僕個人としては、日本が人口8000万人になっても別にいいのではないかと思います。問題はそこへの過渡期をどうハンドリングするかです。8000万人に適した産業構造になっていればいいわけで、死屍累々のまま8000万人になってはいけないわけです。
―― 国家に対する民間や個人の位置づけも変わっていくのでしょうか。
平野:一概には言えませんが、国家に対する帰属意識は薄まっています。僕はここ数年の作品で書いていますが、アイデンティティーというものはこれからますます複雑化していくと思っています。人間は対人関係ごとに別の人格を持っています(編集部注:平野氏はこうした現象を「分人化」と表現する)。
例えば僕は日本の国民でもありますが、作家でもあり、北九州出身の人間でもあり、海外に友人のいる国際人でもありという多重のアイデンティティーがあります。ですから「国家のために」という求心力は相対的には落ちますよね。
これから多くの問題に人間が複数的に関与する時に、人間はそれぞれの人格を切り離した「分人」として対応せざるを得ません。そうしなくては人間の精神がもちません。
複数のコミュニティーに属し、最適化する
逆にアイデンティティーが相対化することで「国のために」と考えられる利点もあると思います。国のために何かするという一方で、自分の生活のため、地元のために何かするということが言いやすくなっています。
複数のコミュニティーに属し、それぞれに最適化していれば、その人の中で複数のコミュニティーに触れ合います。個人の内面を通じてバラバラになったコミュニティーがつながる部分が出てくるでしょう。例えば秋葉原のオタク文化に所属している人が、一方では釣りのコミュニティーに所属していたとします。コミュニティー同士が接する機会はあまりないでしょうが、当人はそれぞれに対して理解を示せます。
こうなるとそれぞれを肯定する姿勢が生まれ、パブリックな問題についても発言しやすくなります。社会問題に対して関心のあるアイデンティティーについても、肯定的になるためです。結果的に公的な問題に関与するポテンシャルも高まり、国家権力の処理しきれない問題に、個人が入り込む余地も産まれるのではないでしょうか。
―― 今回の大震災はその面でも影響が多いのでは。
平野:震災は決定的でした。日本は募金や社会貢献といった活動に対して、「金持ちのやること」というネガティブな見方が今まで強かったと思います。どうせやるならNPOで一生かけてやらなくてはいけないという風潮があった。
しかし、複数のアイデンティティーを持っていれば、震災のことでも、被災地のことを考えながら日常生活を送り、一方でネットによって世界に通じることもできる。花見の問題にしても、アイデンティティーが1つだと、被災地のことを考えて自粛となりますが、別に花見をしても良かったはずです。本来はそれぞれの生活がベースにあるのですから、それで構わないと思います。
とにかく社会が複雑化されている一方で、ネットワーク化されていることが大前提と考える必要があるでしょう。その中で政治や経済もこの流れに従って動いていくでしょう。
端的に言えば外国人と話す時に日本人と話すようにしても通じないし、商社マンが中国に行けば中国の話し方で話しますよね。どこに行っても汎用性の高い、工業製品のような人間ではだめになってきている。そういう意味では人間が場所ごとに手作りで最適化されて、より人間的になったと言えるのではないでしょうか。
―― 今後、どのような未来を描きますか。
平野:世界経済がどこに向かっていくのかは正直分かりません。リーマンショックの時は財政出動すればよかったのかもしれませんけれど、今度は国家財政そのものが破綻の危機にある。欧州などはそのただ中にあって、先行きが見えない。
幸福の追求が「他者」に開かれる
「過去と現在の因果関係にとらわれ過ぎてはいけない」と世代交代を訴える
だから、かつて「勝ち組」と「負け組」という価値観が流行したように、何か1つの基準を満たすことが個人の幸福になると考えるのは限界だと思います。幸福を「個人」を単位に追求するのではなく、他者との「分人」において考えることが大事だというのが、結論かと思います。そうなると、幸福を追求することが、個人に閉ざされた活動ではなく、他者に対して開かれている、ということになります。
他者を尊重し、他者との共同性を重視する。幸福は、その共同性の中にこそ、見いだされるべきで、経済活動の基準も、「1人当たりGDP(国民総生産)」というより、「1共同性当たり(分人同士のカップリング当たり)GDP」で考える(計算は難しいでしょうが)、という発想の転換が必要ではないか、と思います。
いずれにしても、過去と現在の因果関係にとらわれず、未来と現在の因果関係で考えるべきだと思います。未来を描けば自ずと今やらなくてはいけないことも見えてくるはずです。
原発にしても、日中・日韓関係にしても、そして各地に作った高速道路や空港にしても、はっきり言って我々の世代と関係のない人たちが作ったものです。しかし、それを解決するのは我々か、もっと下の世代です。未来を志向する上では、世代間で裁量を委譲することも重要でしょう。
このコラムについて
ニュースを斬る
日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、NBonline編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
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著者プロフィール
北爪 匡(きたづめ・きょう)
日経ビジネス記者。
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