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http://diamond.jp/articles/-/14244
アメリカで今、失業するということ
ジャーナリスト・長野美穂
米国経済の抱える問題として、失業率の高止まりがあるのは、よく知られていることだ。だが、実際に一般の人びとがどういう状況に置かれているかは、日本では見えてこない。現実は、おそらく多くの日本人の想像をはるかに超えて厳しい。現地からのレポートをお送りする。(取材・文/ジャーナリスト 長野美穂)
カリフォルニア州、ロサンゼルスのマリーナ。ピーカンの青空の下、そよそよとヤシの木が揺れ、ヨットの白い帆がまぶしく波間に光る。
そんな天国のような景色の片隅に、州の失業保険の茶色の事務所がひっそりと建っている。その駐車場では、天国にはほど遠い光景が展開されていた。
「失業保険が4ヵ月経っても支払われていないんだ。何回電話しても、録音された声が流れるだけで、生きた人間につながらないんだよ!」
日焼けした顔を真っ赤にして怒っているのは、メンテナンス業を専門とするロベルト・レイノソ、40代だ。
玩具メーカーのメンテナンスの仕事をしていた彼が、リストラを言い渡されたのは数ヵ月前だった。
給料6ヵ月分の退職金を受け取り、即クビになるか、パートタイムで契約として働き続けるかの選択を迫られ、やむなく週20時間勤務のパートタイムで働くことを選択した。職探しをする間、州から一部出る失業保険を当てにしていたのに、書類を送っても、4ヵ月間音沙汰なし。とうとうしびれを切らして事務所に乗り込んできたのだ。
リストラ前は、2階建ての大きなビルのメンテナンスを一日中ひとりで仕切っていたという。
「メンテナンスの需要は、今どの業界でも高いんだ。だけど不況で、機械が多少壊れても、使い続ける企業が増えてるだろ。だから、仕事が減ってるわけ。子どもだっているのに、これじゃ食べていけないよ」
彼の後から失業保険事務所を出てきた作業着姿の男性に向かって、ロベルトが叫んだ。
「おーい。どうだった? 担当者と無事に話せたかい?」
「それがさ、コンピュータで先に登録しろって。俺、自宅にパソコンないんだよ。インターネットアクセスがないと失業保険すらもらえないって。進化できずに死んでいく恐竜にでもなった気持ちだよ」
その日は折しも、オバマ大統領が全米に「アメリカに再び職を」の演説を大きくぶちあげた翌日だった。
次のページ>> 2年間で400通の履歴書を出し、面接はたった4件
クーラーの効いた失業保険の事務所に足を踏み入れてみる。求人リストのファイルを手に取ると、不動産チェーン店のロゴ入りのポロシャツを着た男性が、すかさず話しかけてきた。
「あんたも職探してるの? ないよ〜職。ほんっとに、ないから。俺、昨日ここのテレビでオバマの演説見てたけどさ、心底がっかりしたよ。職を生み出すための具体案ってものがまったくないんだもの」
まだかろうじて現職をクビになっていないという彼は「その日」に備えて、次の職を探しているという。
カリフォルニア州の失業率は12%を突破した。失業率全米一のネバダ州の13%に次ぐ高さだ。10人集まれば1人か2人は仕事にあぶれているのが、この南国の美しい気候を持つ州のシビアな現実だ。
終身雇用制など存在しないアメリカのリストラは、日本と違い、前触れもなく、ある日突然、死刑宣告のようにやってくる。ヒラであれ、重役であれ、そのリスクを免れることは誰もできない。
履歴書400通送った
失業730日間デスマッチ
サンノゼに住む建築家で59歳のジョン・ナイトは、8年勤続した大手建築会社の職を2009年に失った。建築家としての経験は20数年以上。採用や人事も任されていたマネージャークラスだった。
失業してから2年間で400通の履歴書を送ったが、面接までこぎ着けたのはたった4件だ。
「朝起きて、求人サイトをチェックしても何もない。それが2年間ほとんど毎日です。脱力します」
ジョンの年収は10万ドル以上だった。シリコンバレーの有名企業、アップルやグーグル、インテルなどの社屋の建築プロジェクトもたくさん手がけてきた。
しかし、不況でベイエリアの建築業界の需要がどっと落ち込み、気がついたらリストラされていた。
教師である妻の収入は年間3万6000ドル。彼の元の年収の3分の1ちょっとだ。何とかそれに頼って生活しているが、妻の学校では教師への健康保険の負担がない。日本のような国民健康保険制度が存在しないアメリカでは、一家の大黒柱が職を失うと、家族全員が一気に保険を失うことになるのだ。
家族が病気になったときのために、あらゆる節約をし、自腹で月800ドルの健康保険を家族のために払い続ける。
サクラメントで6ヵ月だけのカジノ改装の仕事にありつけたが、財政難でそのプロジェクトも終了してしまった。
次のページ>> 華々しい過去の経歴は企業に敬遠されるマイナス要因?
建築業界では刻々とビルの基準が変わり、ソフトウェアも進歩していく。仕事をしていないぶん、それについていけなくなるのも怖い。
「僕は、図面を引いているときが一番幸せなんです。それなのに、それができない悔しさ。仕事を失った2年前は、こんなに次の仕事を見つけるのが大変だとは思いもしなかった」
50代の終わりになっての突然の失業。さらに失業している状態が年単位で日常になるという、想像してもいなかった変化。
ネットワーキングで会うのも失業した建築家ばかりだ。お互いの顔を見ながら憂鬱な気持ちになってしまう。
華々しい過去の経歴は、雇えば高くつくからと企業に敬遠されるようで、かえってマイナスだと感じた。
来年大学に入学する予定の高校生の娘がいる。4年制の州立大学の高騰する授業料のことを考えると、夜もなかなか眠れない。
アパートの家賃は友人が格安に月1600ドルでオッケーしてくれたので、家賃が全米でも最も高い地域のひとつであるベイエリアにも何とか住んでいられるのがありがたい。
建築家として、家造りもリモデルも多く手がけてきたジョンだが、自分が設計した家を持てる日は、もう一生来ないのではないかとふと思ってしまう。
それでも、ローンが払えず、家を差し押さえられた人びとを見るたび、自分は家を持たなくて良かったのだと胸をなで下ろす。
唯一気持ちが晴れるのは、妻の学校でボランティアをしている時だ。サンタクロースに扮してクリスマスプレゼントを子供たちに配ったりして、子供の笑顔を見ていると、生活の不安を一時だけ忘れられる。誰かに必要とされている嬉しさが久しぶりに胸にこみ上げてくる。
勤続33年の新聞印刷工員が
職場を追われた日
ミシガン州の北部の小さな街に住むデイブ・ブリッカーも、50代半ばでレイオフされた一人だ。
彼は、33年勤続した印刷工の職をこの9月2日に失った。
20歳の時から地元の新聞社のプレスルームでインクにまみれて新聞を印刷してきた。しかし、6月にリストラを宣告され、その3ヵ月後が最後の勤務日になった。
人生の半分以上の33年間の時を過ごした職場から、突然、追い出される。その体験をデイブは「家族を失ったような気持ち」と表現した。
「プレスルームの同僚たちは、一緒に高校に通った無二の親友たちなんだ。子供時代には一緒に新聞配達もした。そんな同僚たちとももう職場で会えないのかと思うと淋しい」
最後の勤務を終えてから1週間たっても、石けんで手を洗うたびに黒いインクが爪の間からまだ少しずつ出てくるという。
デイブの時給は1978年に時給5ドル45セントでスタートした。法で決められた最低賃金が5ドル30セントだった時代だ。そしてリストラされる直前の時給は13ドル32セント。
「当時はさすがに若かったけど、時給5ドルちょっとでいったいどうやって生活してたんだろうと自分でも思うよ」
中退してしまったが、大学ではグラフィックデザインを専攻していただけあって、新聞がカラー刷りになったときには、色の微妙な配分で写真の陰影をベストの状態で出すのに特に注意を払った。
自分の身長より巨大な紙のロールを担ぐ重労働で、デイブを含め、多くの同僚が背中や膝を痛めてきた。
7人いたプレスルームの同僚のうち、4人がここ数年でリストラされ、デイブがクビになった今、残った印刷工は3人だけだ。
次のページ>> 新聞社はクビになったが「新聞が死ぬ日」を見なくてすんだ
数年前に新聞社がインディアナ州のメディア企業に買収されてから、社内のリストラが進み、あらゆる部門で勤続20年や30年のベテランが次々クビになった。
年齢差別だ、という声も出た。
「亡くなった前のオーナーなら、こんなクビの切り方はしなかった。オーナーの家族経営だった新聞社がメディア企業の一部になったとたん、冷血に次々とリストラを断行してきた。時代とはいえ、哀しい」
ミシガンの失業率は全米の州の中でも常にトップ3に入っており、底冷えのような不況がさらに雇用状況を悪化させている。
デイブに会社がオファーした退職金は12週間分の賃金のみ。会社の健康保険も3ヵ月後には切れる。
妻が自宅で託児所を開き、一度に6、7人の子供を預かって面倒をみて収入を得ているが、この先それだけではとてもやっていけない。
クルマがすっぽり埋もれてしまうぐらい雪が積もる豪雪地帯だけに、冬の暖房費が膨大にかかるのだ。
「冬までに仕事を見つけなくちゃ。妻が夜眠れないのがわかるんだよね。つらいよ」とデイブ。
短大に通う娘と高校生の息子がいる。教育費はまだまだかかる。
「うちの社がデイブにした仕打ちを考えるだけで、胃が痛くなるよ」。新聞社に長年勤める50代の男性カメラマンはそう、そっとつぶやいた。
デイブは、新聞社をクビになった次の週、昔の新聞社仲間の数人が働いている大手DIYディスカウントストアのホームデポに履歴書を出してみた。
「ここ30年、ずーっと印刷所に籠もりっきりだったから、気分を変えて、ゴルフコースで働いたり、レストランの厨房の仕事もいいな、と思ってるんだ」
クビになって唯一よかったのは「新聞が死ぬ日」をこの目で見なくてすむことだという。
発行部数が激減のアメリカ新聞業界。いつか、紙の新聞が印刷されなくなり、新聞が完全電子化される日が近い将来必ず来るだろうと、デイブは予測する。
「最後の新聞を印刷するという哀しい仕事をしなくて済んだ。そんな仕事、クビになるよりつらいよ。それだけは、自分には耐えられないと思う」
LAで最もタフな地域で、
サバイバルするシングルマザー
失業の痛手を最も受けやすいのが、一家に稼ぎ手が一人しかいない場合だ。特に、幼い子供を抱えたシングルマザーが職を失うと、生活は一気に貧窮してしまう。
サウスサイドと呼ばれるロサンゼルス南東のコンプトン地区。ギャング同士の抗争が繰り返されてきたこの地域で、2歳の息子を抱えるケリー・ウォーレン、40歳は1年前に失業した。
次のページ>> 金利20%以上という車のローンが貧困への入り口だった
パートタイムでお年寄りのクライアントの自宅を回って身の回りの世話をする仕事をしてきた。時給は8ドル。しかし、金利20%以上という高利で借りていた車のローンが貧困への入り口だった。
「96年製の中古のビュイックの支払い総額が、金利のせいで、いつの間にか3万8000ドルに膨れあがってたの」
低所得で頭金もクレジットヒストリー(返済履歴)もない彼女の場合、高額なローンを借りて、中古車を手に入れるしか、クルマ社会のLAで生きていく術はなかった。クルマがなければ、仕事もできない。
コツコツ払っていたが、どうしても資金が工面できず、支払いが遅れ1年前にとうとうクルマが差し押さえられてしまった。
クルマを失えば、訪問先を回ることができない。翌日、仕事を失った。現在は政府の生活保護手当を月に200ドルから300ドル受け、政府から支給されるフードスタンプと呼ばれる食料配給券でパンやミルクなどの食料を手に入れている。
この1年間、100通以上の履歴書を送ったが、高校中退の学歴ではねられてしまうことも多い。
ファーストフード店で時給8ドルの仕事を見つけたが、多くの失業者が同じ店の職に応募し、結果、一人ひとりの労働時間が短縮され、満足に稼げなかった。
ベビーシッター代が払えず、長時間子供を預けて働くことができないのが、悩みのタネだ。
21歳の上の息子が赤ちゃんの面倒を見に来てくれるときに、パートで働いているが、息子も最近レストランをリストラされ、目下職探し中だ。
「1日も早く、生活保護から脱出し、自分の力で稼ぎたい」
それが彼女の目標だ。
お年寄りや病気の人びとの世話をして病院で働くのが夢なので、いつか看護師の資格を取りたい。それには高校卒業資格を取るための教室に通いたいが、クルマもなく、子供を抱えているので、今すぐには難しい。
使用料の高いプリペイド・デビッドカードに手を出してしまい、税務署からの追徴金もあって、現在の借金は1万ドル程度。
夜中に借金取りが電話してくることもある。
差し押さえられたクルマはオークションにかけられ、1200ドルで売却されたと知った。さらに、もう自分のモノでなくなったはずのクルマの違反切符の支払い請求書が、ケリーの元に次々に送られてくる。
「先のことを思うと涙が出てくることもあるけど、2分以上は泣かないと決めているの。顔を上げて頑張らなければ」
2歳の息子の父親は現在刑務所に服役中。結婚はしておらず、養育費は一切もらっていない。
リーマン崩壊でも生き残る
ウォール・ストリートに未練なし
私がこれまで会った失業者のなかで最も明るく、開口一番「私、失業中です!」と大きな声で自己紹介したのが、アレキサンドラ・ローソンだった。
ロサンゼルス在住の37歳。元リーマン・ブラザーズ社員で、社債のセールスを担当した。リーマン倒産後、バークレイズ・キャピタルに移籍し、今年の1月、リストラに遭った。
この夏は、仕事がないことを利用して、アフリカ各国をバックパックを背負って回ってきたばかりだ。
「金融の仕事は不安定だってことは、ウォールストリートでは常識。だから、職を失っても、マンハッタンで1年間暮らせる貯金はいつも確保していたの」
ニューヨークのリーマン時代の年収は10万ドルほど。ボーナスは自社株で別に年間10万ドルほどもらっていた。
朝6時から夕方6時までの12時間勤務の後は、クライアントの投資家の接待で、夜中になることもあった。無駄遣いはぜず、長年マンハッタンでルームメイト3人と暮らし。自分のアパートを契約しても、徹底的に貯金した。だが、そんな姿は当時のリーマンの社員のなかでは少数派だったかもしれないという。
次のページ>> 古巣リーマンの倒産で自社株が紙切れになり自己破産へ
当時のリーマンの重役には、ボーナスのストックオプションを担保に借金し、セカンドハウスを買うなど、豪華な生活に歯止めがかからない人たちもいたからだ。
2008年にリーマンが倒産すると、当然のように自社株が紙切れになり、彼らは自己破産しなければ生活できない状態に追い込まれた。
無事リーマンからバークレイズに移籍できた彼女だったが、バークレイズ内でもリストラが段階的に行われていたため、リーマンからの転入組は「職を奪った人間」とされ、以前からの社員たちとの仲は険悪だった。
ウォールストリートの生活に疲れた彼女はボーイフレンドの住むLAに引っ越すため、バークレイズにLA転勤を願い出る。その希望が通り、引っ越した後の今年1月、バークレイズのさらなるリストラで、職を失った。
先週はサンフランシスコへ飛び、1週間で9社の銀行を回って、自分を売り込んできたという。
「どの銀行でも職はないって言われた。でも、顔を覚えてもらっておけば、空きが出たときにすぐに思い出してもらいやすいし」
100%コミッションの金融セールスの仕事ならすぐ採用されそうだという。だが、ベース賃金の保証がまったくないので、パスしているところだ。
周りをぱーっと明るくするような雰囲気を持つ陽気なアレキサンドラ。機関銃のような速度で話す彼女を見ていると、失業者特有の憂いや落ち込みがどこにもないようだ。
それでも、最後にふっと声を落としてこうつぶやいた。
「失業すると、誰が自分の本当の友達だったのか、よくわかる」
バークレイズをレイオフされた日、彼女に元リーマンの同僚たちから個人のメールアドレスが送られてきた。その数は元の同僚の約半分だったという。
「つまり、自分が仲間だと思っていた人たちの半数は何も送って来なかった。逆にこれからもよろしくと個人アドレスをくれたなかには、それほど親しくなかった人もいた。人生ってわからないものよね」
かつては高価なスーツに身を包み、マンハッタンを闊歩していた彼女は今、自転車にサンダルでロサンゼルスの街をゆく。
別れ際、甘い物は好きだけど、虫歯にならないようにあまり食べないようにしているのだと言った。
歯科医の診察をカバーする健康保険に入るお金がないから、と。
つい1年前まで10万ドル以上の年収をもらい、ニューヨークの高級レストランで投資家を接待していた金融のプロフェッショナルが、今は、虫歯ができても、歯医者に行くことができない。
そして、そんな切羽詰まった状況を隠さずさらっと開示できてしまうオープンさ、それも、紛れもないアメリカの今の素顔なのだ。
【著者紹介】
ながの・みほ/早稲田大学卒。出版社勤務を経て渡米、ノースウェスタン大学大学院でジャーナリズムを専攻。現在、カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社で記者を務めるとともに、フリーのジャーナリストとしても活動。
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