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週刊ダイヤモンドで読む 逆引き日本経済史【第31回】 2011年7月22日坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
朝鮮戦争(1950−1953)特需後の日本経済 「戦争終結」という“危機”をどう乗り越えたか
大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモン ド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐 解きながら歴史を逆引きしていく。今回は、朝鮮戦争特需に沸いた日本経済が、戦争終結後に直面した“危機”について取り上げる。
東西対立激化の果て、朝鮮戦争が勃発特需により日本経済は急成長
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏して第2次大戦は終結する。戦時経済は終了し、壊滅的な損害を受けて破局を迎えることになった。
その後、1950年代に日本経済が復興する過程で、朝鮮戦争特需が大きな契機となったことはよく知られている。
戦後の国際関係は東西対立によって始まった。日本は米国の国際戦略のもと、米ソ対立の前線に立たされることになった。これは米国の援助によって復興の道を歩むことを意味する。欧州大陸の西側諸国も同様だった。
朝鮮半島は戦後、すぐに日本から独立し、新しい国家を樹立したわけではない。中国共産党とソ連の支援を受ける北側の金日成(抗日パルチザン)勢力と、米国の支援を受ける南側の李承晩勢力が、それぞれ1948年に朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の成立を宣言する。
国民党と共産党の内戦を経て、翌1949年に中華人民共和国が成立すると、東西対立は激化し、朝鮮半島の緊張は頂点に達した。
1950年6月25日、北朝鮮軍が攻撃を始めると、宣戦布告のない3年に及ぶ朝鮮戦争が勃発する。米国は25万人以上を派兵し、大きな犠牲を出したが、参戦した中国人民解放軍も数十万人の戦死者を出したといわれる。
戦線は一進一退を繰り返し、1953年7月27日、ついに38度線を境界にして休戦協定が成立した。
破局を経て戦後復興に向かっていた日本経済は、この朝鮮戦争による需要増加(特需)によって急速に成長することになる。これが朝鮮特需である。
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GDPの約5%を占めていた朝鮮特需
休戦協定が成立する直前、1953年7月にダイヤモンド社の創業者、石山賢吉が誌上で朝鮮戦争後の日本経済を展望している。
「朝鮮休戦後の日本経済」と題したこの論文は、「ダイヤモンド」1953年7月5日号に掲載されている(★注@)。
石山はまず、朝鮮特需の実態を分析する。
「休戦はやがて成立すると思われる。日本経済がどういう影響を受けるか、我々が真剣に研究しなければならない問題である。日本 は、朝鮮戦争によって莫大の臨時収入を得ている。そして、それが、貿易並びに海運の大きな赤字を償っている。朝鮮戦争は、日本経済の一大支柱である。」
「ただ、朝鮮戦争による特別需要が消滅しても、それに代わる新需要があることである。新需要は、朝鮮復興特需、朝鮮民生用特需、MSA(日米相互防衛援助協定)による兵器特需等である。」
そして旧特需と新特需の比較を試みる。
「旧特需による契約高は以下の如し。昨年(1952年)は3億ドルあり、本年(1953年)は昨年より多く、5月までの契約高が 2億3000万ドルに達し、月平均は4600憶ドルで、昨年より84%増である。ほかに、米国を主にした軍人軍属の日本における個人消費がある。26年 (1951年)と27年(1952年)の収入は、次の如くであった。
昭和26年、2億2800万ドル昭和27年、2億8800万ドル
即ち、特需とほぼ同額の個人消費があるのである。ほかに完全兵器の注文、その他があり、旧特需の総額は、次の如くであった。
昭和26年、6億2100万ドル昭和27年、8億2400万ドル
総額は年間6億ドルないし8憶ドルに上ったのである。」
当時の名目GDPは約6兆円だから、8億2400万ドル(約3000億円)の特需はGDPの約5%を占めていることになる。これが消滅すれば5%のマイナスだから大きい。
次のページ>>特需後の日本経済を救う「外貨導入策」とは
世界の“貧乏国”だった戦後日本特需後の経済を救う「外貨導入策」とは
一方、新特需は総額1億5000万ドル程度だろうと予測している。また、日本経済本体の実力を以下のようにみる。
「貿易並びに運賃支払い超過が、26年は5億1300万ドル、27年は5億9900万ドルに上ったのである。これに対して臨時収 入が26年には6億6000万ドル(支払いを差し引いた正味)あり、27年には8億2000万ドルあって、それが貿易並びに運賃保険の不足を償い、26年 には1億4000万ドル、27年には2億2000万ドルの黒字になったのである。」
「日本経済は外国に対して収支の大不均衡を来たし、大きな赤字となっている。即ち、日本経済の本体は脆弱である。」
朝鮮戦争後について、脆弱な日本経済をどうすべきか、石山は「輸出を伸ばす、輸入を減らす、海運を発達させて運賃の支払い超過を消滅させる」という処方箋を書く。しかし、輸入を減らすことは人口増加、食糧不足からして不可能であり、第一に繊維の輸出を伸ばすことだという。
また、「外資の導入」が必要だとする。日本は実際にはその後、輸出の増加をもって成長していくことになるが、1953年の段階で「外資導入」を主張しているのは面白い。
第1次大戦後、敗戦国オーストリアの財務相に就任した経済学者ヨゼフ・シュンペーターも同じことを述べている。しかし、社会民主党の反対にあって 挫折してしまった。シュンペーターが政治家を辞めて経済学者に復帰したのはオーストリア復興を外資導入策で行おうとした政策を否定され、財務相を辞任した からである。
石山賢吉の外資導入論とは、以下のようなものだった。
「昭和24年(1949年)における日本人の一人当たり所得は、100ドルに過ぎなく、アメリカの15分の1、イギリスの7分の1、ドイツの3分の1である。そしてその順位は世界70ヵ国のうち、42番目である。」
「世界を(1)富裕国、(2)中流国、(3)貧乏国、(4)最貧国の4種に分類すれば、日本は(3)の貧乏国圏内に入る。しかも末席である。」
「国民の所得を高めることが必要である。産業振興と賃金増額とは、関連しているが、実行の順序は産業の振興が先である。産業を振興するには資本が要る。その資本は国内の貯蓄だけでは足りない。」
「したがって外資導入が必要である。外資導入は、世界中、何処を見渡しても米国のほかはない。米国の資本を導入すべきである。同 時に、技術の導入も必要である。以上の如くすれば、日本経済の独立は可能である。臨時収入が無くなっても、国際収支を一致させることが出来る。」
実際には外資導入ではなく、傾斜生産方式による重化学工業への資本分配、繊維製品などの輸出によって急成長していくことになるが、1953年夏のこの時点で、朝鮮戦争の終結は日本経済の危機だったのである。
★注@1953年7月5日号は「ダイヤモンド」の臨時増刊号である。当時、「ダイヤモンド」は月に3回発行する旬刊誌だったが、実際は毎月臨時増刊号を1、2号発行し、月に4、5号を発行していた。
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