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「関東大震災からの復興は「国債と減税」が支えた  雇用がないと町が死んでしまう」と浪江町の人たちは言った
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/834.html
投稿者 sci 日時 2011 年 5 月 23 日 10:37:22: 6WQSToHgoAVCQ
 

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20110518/220028/?ST=print
日経ビジネス オンライントップ>投資・金融>「復興税」という幻想
関東大震災からの復興は「国債と減税」が支えた
歴史に学ぶ、当たり前の「財源確保策」

2011年5月23日 月曜日
三橋 貴明


 1923年9月1日。日本史上最悪の被害をもたらした、関東大震災が発生した。東京都、神奈川県を中心に、死者・行方不明者は10万人を超え、首都の金融システムも麻痺状態に陥った。金融システムが機能しなくなってしまったため、決済などが不可能になり、日本経済全体も大混乱に陥ってしまったのである。

 震災発生の翌日(9月2日)に山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤新平は、その日の深夜には「帝都復興」のための復興根本策を起案した。後藤新平が帝都復興のために用意しようとした予算は40億円(「関東大震災発生後における政策的対応」国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 709[2011.4.28.]より。以下同)。当時の一般会計予算(約15億円)の2.7倍に相当する。現在の日本に置き換えると、250兆円ほどであろうか。

 その後、震災からわずか4週間後の9月27日には、帝都復興院が設置され、後藤新平が総裁の座に就いた。後藤新平が起案した復興根本策を基に、帝都復興計画が提案され、予算が確保された。当初、後藤が確保しようとした予算は先述の通り40億円だが、あまりにも巨額であるため議会の賛成を得られず、当時の政府が緊縮財政路線を採っていたこともあり、最終的には6億円となった。それにしても、国家予算の3分の1強の規模である。
破綻前のギリシャと同じような状況なのに

 さて、後藤新平ら当時の日本政府がどのように財源を確保したのかといえば、主に「海外向けの国債発行」である。当時の山本内閣は、12月24日に震災善後処理公債法を可決し、発行上限約10億円の震災善後処理公債の発行を決めた。

 とはいえ、当時の日本は第一次世界大戦後の不況に苦しみ、国内で多額の国債を消化することは困難であった。そのため、山本内閣は上記国債を欧米諸国に販売しようとした。一応、欧米諸国は約5.5億円の日本国債について引き受けることを決断したものの、震災後の日本のファンダメンタルを不安視し、金利は日露戦争時を上回る8%であった。さらに、当時の日本は日露戦争時の償還期限も迎えていたため、欧米諸国に国債を販売することで調達した資金について、全額を震災復興に回すことはできなかった。

 ともあれ、日露戦争時の外国向け国債という対外負債を政府が抱え、かつ長期金利が世界最低でも何でもなかった1920年代の日本であっても、震災復興の財源は国債に依存したのである。

 なぜ、関東大震災後の山本内閣は、現在と比べると極端に厳しい環境にありながら、震災復興の財源を国債に求めたのだろうか。何しろ、国債金利が8%で、しかも消化を外国に頼らなければならないのだ。ちょうど、2010年5月の破綻前のギリシャと同じような状況である。

 山本内閣が震災復興の財源を確保するために国債を発行した理由は、非常に明快だ。それが、当たり前だからである。
世界で最も復興財源を国債発行で調達しやすい国

 前回も解説した通り、増税とは国民の支出意欲を削ぐ政策だ。ここで言う支出とは需要のことであり、GDP(国内総生産)そのものだ。震災により、ただでさえ萎縮している国民の支出意欲を削り取り、GDPが低成長もしくはマイナス成長に落ち込むと、当然ながら政府の税収は減る。結果、被災地の復興の財源が先細りになってしまう。

 さらにGDPが成長しないと、被災地が復興し、その地域から生産物などの付加価値が生み出されるようになった時、国民がその対価を支払うに充分な所得を得ることができなくなってしまう。

 現在の日本は、国内の過剰貯蓄という問題を抱え、長期国債金利が世界最低という、深刻なデフレに悩んでいる。過剰貯蓄ゆえに国債の95%超は国内の金融機関などで消化され、しかも100%日本円建てだ。すなわち、日本は世界で最も復興財源を国債発行で調達しやすい国家なのである。

 過剰貯蓄問題とは、要するに国内の金融機関に「運用先が見当たらないお金」があふれているという話だ。預金や生命保険料など、各金融機関が「負債」として集めたお金の貸出先が増えていないのである。結果的に、金融機関は国債購入に走り、長期金利が低迷している。

 そして、なぜ金融機関に集まるお金の運用先がないのかと言えば、もちろんデフレだからだ。デフレ下では実質金利が高まり、同時に投資収益が下がるため、企業は融資を受けてまで投資を拡大しようという気にはなれない。

 ともあれ、現在の日本の問題はあくまでデフレであって、マスコミなどで騒がれる「日本は国の借金で破綻する(=デフォルトする)」などという話ではない。前回も書いたが、政府が金融政策と財政政策のパッケージという「普通のデフレ対策」を行えば、日本はデフレから脱却することができる。

 話を関東大震災に戻す。日露戦争の戦費などで政府に外貨建て対外負債があった当時の日本政府であっても、復興のための財源を国債発行に求めた。さらに、各種の「減税」も合わせて実施された結果、政府の財政は悪化した。

 また、復興需要で輸入が拡大し、震災前まで1ドル=2.04円だった対ドル為替レートは、震災後には1ドル2.5円と急落した。2011年の東日本大震災発生後は、日本円の為替レートはむしろ「急騰」したが、それは現在の日本経済が極端な供給過剰に悩まされ、政府の対外負債もないに等しいためである。関東大震災後の日本を含め、普通の国は大震災に見舞われると、為替レートが下がる。

 財政悪化や円の急落を受け、時の日本政府は復興が一段落した途端、緊縮財政に舵を切り、政府支出の削減を始めた。さらに、震災により金融システムがダメージを受けたこともあり、当時の日本は物の見事にデフレ経済へと突っ込んでしまう。いわゆる、昭和金融恐慌である。

 図2-2の通り、政府の緊縮財政により、もともとデフレ傾向にあった当時の日本は、関東大震災後に再び東京小売物価指数がマイナスに落ち込んだ。1926年の東京小売物価指数は、対前年比で8%超も下落したわけであるから、まさしく「デフレ」だ。

 復興後のデフレ深刻化を受け、日銀は「印刷機をフル回転させ」日本円の紙幣を刷り、マネタリーベースを拡大させた。時の蔵相、高橋是清も、一部の銀行に対しモラトリアム(支払猶予措置)を行うなどの手を打ち、何とか恐慌を沈静化させたわけである。
東日本大震災は「特別な事由」でないのか

 昭和金融恐慌が収束し、物価はプラス方向に向かい始めたのだが、1929年10月のウォール街株式大暴落に端を発した世界大恐慌が始まり、日本経済は再びデフレの谷底へと落ち込んでしまう。しかも、時の濱口内閣が金本位制復帰を目指し、またもや緊縮財政や産業合理化に突き進んでいたことが、日本のデフレ深刻化に拍車をかけた。すなわち「昭和恐慌」の始まりだ。

 1930年の東京小売物価指数は、対前年比で何と14.6%ものマイナスである。深刻なデフレを受け、高橋是清が再登板し、日銀の国債引き受けや政府支出拡大などのリフレーション政策を実施した。結果、日本は世界が羨むほどの速さで恐慌から脱することができたのである。

 さて、話を「今」に戻す。東日本大震災の復興の財源確保のために、日銀による国債引き受けを主張する人がいる。筆者は別に日銀に国債を引き受けさせずとも、国内に過剰貯蓄があるわけであるから、普通に建設国債を発行すれば良いのではないかという意見だ。とはいえ、本当に日銀の国債引き受けが実現できるのであれば、もちろん筆者も賛成する。

 問題なのは、復興増税を主張する政治家や評論家などが、
「日銀の国債引き受けは法的に禁止されている」
「日銀が国債を引き受けると『歴史的に』インフレを制御できなくなる」
などの虚偽情報を流していることだ。

 日銀の国債引き受けが「法的に」禁じられているという話は、前回も解説した通り、明確なうそである。財政法第5条は「特別な事由」がある場合の日銀引き受けについて、国会の決議の枠内において認めている。東日本大震災のような大規模災害が、「特別な事由」でないはずがない。
円の供給量が増えれば円高も一服

 また、現在の日本は消費者物価指数(CPI)上昇率がマイナスで推移し、国債金利も世界最低だ。日銀が国債引き受けでマネタリーベースを増やしたところで、インフレ率が制御不能な状態に陥るような事態は発生しない。

 しかも、リーマンショック以降にアメリカが極端な量的緩和政策を採っており、日本円の流通量が足りないこともあり(何しろデフレだ)、円の為替レートは高めに推移している。日本政府は、震災後3月16日の1ドル76円台という極端な円高を受け、「円売り、外貨買い」の為替介入を行った。とはいえ、日本円の流通量が「相対的に」少ないという大元の問題は解決されていないため、円の為替レートはすぐに上昇に転じてしまった。

 ちなみに、日本政府(財務省)の為替介入は、銀行などに「政府短期証券」という債券を発行し、調達した円でドルを購入するというスタイルだ。購入したドルを現金のまま保有していても仕方がないため、日本政府は米国債を購入することになる。すなわち、日本政府の為替介入は、政府の借金を増やし(=政府短期証券発行)、アメリカ政府に貸し付ける(=米国債購入)というプロセスになるのだ。

 大震災で復興のための「日本円」が必要な時に、何が哀しくて政府が借金を増やし、アメリカ政府に貸し付けなければならないのだろうか。日本政府が日銀に国債を引き受けさせるなりしてマネタリーベースを増やせば、復興の原資が確保できるのはもちろん、円の供給量が相対的に増えることで、円高も一服することになる。

 さて、日銀の国債引き受けに反対する人々が言う「日銀が国債を引き受けると『歴史的に』インフレを制御できなくなる」について考えてみたい。1929年の世界大恐慌のあおりを受け、デフレ状態に落ち込んだ日本において、実際に高橋是清が日銀の国債引き受けという対策を打った。果たして、「インフレが制御できなくなる」状況になっただろうか。

 高橋是清存命の時代、東京小売物価指数の上昇率は、ピークの1933年であっても6.5%に過ぎなかった。小売物価指数上昇率6.5%を「凄まじいインフレ」と評価するかどうかは、個人の価値観の問題だが、少なくとも「インフレが制御できなくなった」という言い回しは使えない。
制御不能のインフレは、軍事費が原因だった

 ところで、金融政策と財政政策のパッケージという「普通のデフレ対策」により、昭和恐慌から脱した日本だが、その後の東京小売物価指数の上昇率は確かに高まっている。なぜだろうか。

 実は、「普通のデフレ対策」により日本が恐慌状態を脱したことを確認した高橋是清は、政策目標を達したとして、政府支出の削減に乗り出したのである。政府支出削減とは総需要抑制策であるため、インフレ対策の一種だ。

「デフレの時には、デフレ対策を打つ」
「インフレの時には、インフレ対策を打つ」

 高橋是清は、まさしく現代の政治家が忘れてしまった「当たり前のこと」を実施しようとしたわけであるが、削減される政府支出は軍事費がメインになっていた。すなわち、高橋是清は総需要抑制策として、拡大した軍事費を切り詰めることでインフレを沈静化させようとしたのである。

 これに腹を立てた(これだけが理由ではないが)一部の軍人がクーデーターに走り、高橋是清は暗殺されることになる。すなわち、二・二六事件である。

 二・二六事件以降、日本は軍事費の削減が不可能になり、1937年以降、日中戦争に邁進し、国内のインフレ率は高まっていく。今も昔も、戦争こそがインフレを暴走させる。日本国内で生産される武器弾薬は、次々に軍隊により消費されるが、その費用はもちろん政府支出により賄われる。政府支出にしても、GDPの需要項目の一部である。国内のリソースの多くが軍に割かれ、供給能力が高まりにくい環境の中において、需要が拡大する一方になるため、物価は上昇傾向に向かうのだ。

 図2-2を見ると、日本の物価上昇は1941年以降に本格化している。もちろん、太平洋戦争勃発が原因だ。いずれにせよ、日中戦争以降のインフレ率上昇は軍事費の拡大が主原因であり、昭和恐慌時の日銀引き受けのためではない。日銀引き受けで『歴史的に』インフレが制御できなくなるわけではない。軍事費拡大による需給バランスの崩壊こそが、『歴史的に』インフレ率を高騰させたのだ。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 1996年の橋本政権も同様だが、震災復興のために財政支出が拡大すると、政府は「復興後に」緊縮財政に走ってしまう。結果、日本経済にデフレ深刻化という病をもたらすことになったわけだ。関東大震災、阪神・淡路大震災(95年)と、日本政府は2度も「間違い」を起こし、震災復興後にデフレ不況を到来させてしまった。

 しかも、今回の東日本大震災に至っては、政府はなんと復興前の時点から「増税」というデフレ促進策を採ろうとしているのである。先にも書いたが、関東大震災後の日本政府は、震災被災者の生活を支援するために「減税」を実施した。

 今回、日本政府が本当に復興目的で消費税をアップしてしまうと、被災者までもが負担を強いられることになる。さらに、前回も書いたように大震災後に増税を実施したようなおかしな政府は、人類の歴史に存在していない。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。それでは、歴史からも経験からも学ぼうとしない人は、果たして何と呼ばれるべきなのだろうか。
このコラムについて
「復興税」という幻想

大震災からの復興財源を「増税」に求めた国など、歴史上、1つも存在しない。何しろ、震災で国民の支出意欲は萎縮しているのに、増税はそれに拍車をかける。震災の復興の負担を、日本国民で分かち合うというコンセプトを堅持しつつ、消費財など上げずに済む政策はある。それはずばり、「インフレ」である。

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著者プロフィール

三橋 貴明(みつはし・たかあき)

三橋 貴明作家、経済評論家、中小企業診断士
1994年、東京都立大学(現:首都大学東京)経済学部卒業。外資系IT企業ノーテル、NEC、日本IBMなどでの勤務を経て2008年に中小企業診断士として独立、三橋貴明診断士事務所を設立した。現在は、経済評論家、作家としても活躍中。2007年、インターネットの公開データを詳細に分析し、韓国経済の脆弱な実態を暴く。これが反響を呼んで『本当はヤバい!韓国経済』(彩図社)として書籍化され、ベストセラーとなった。既存の言論人とは一線を画する形で論壇デビューを果たした異色の経済評論家。ブログ「新世紀のビッグブラザーへ」の1日のアクセスユーザー数は4万人を超え、推定ユーザ数は12万人に達している。2010年参議院選挙の全国比例区に自由民主党公認で立候補したが落選した。『日本の未来、ほんとは明るい!』(ワック)、『いつまでも経済がわからない日本人−「借金大国」というウソに騙されるな−』(徳間書店)など著書多数。
 
 
 

日経ビジネス オンライントップ>企業・経営>武田斉紀の「ブレない組織、ブレない生き方」
雇う側も雇われる側も、今、雇用の話をしよう
「雇用がないと町が死んでしまう」と浪江町の人たちは言った

2011年5月23日 月曜日
武田 斉紀


不況に加え震災によって、雇用が失われている

 東日本大震災後、直接的に、また間接的に雇用を失い、“失業”する人が増え続けている。それは大きな被害を受けた東北の被災地だけではなく、関東や北海道へ、そして直接的な被害のなかった西の方へと徐々に広がりつつある。

 震災直前、日本はようやく2008年秋のリーマンショック後の長い不況の底を打とうとしていた。大手を中心に回復の足音が聞こえ始め、企業理念の共有浸透コンサルティングを生業(なりわい)としている私の会社にも大手からの問い合わせは増えてきていた。一方で、所属する中小企業の経営者仲間に本音を聞くと、まだまだ光は見えないと言っていたのを思い出した。

 厚生労働省は、震災後、失業や休業のために失業手当の手続きを始めた人が岩手、宮城、福島の3県で10万人を超えて、前年同期の約2.4倍になったと発表した。ちなみに3県の被災有効求職者数は3万5278人であり、被災者を対象とした全国の有効求人数3万6578人で、単純計算ではカバーできることになる。

 求人倍率約1倍というのは、応募者が企業も職種も条件も選ばなければという前提で満たされる数字だ。本人のできること、やりたいこと、勤務可能な条件まで考えれば、実際はまだまだ足りない。被災3県に限って言えば、わずか3498人だという。これでは10人に1人しか、地元で働くことができない。

 地元を離れるということはどういうことか。家族で移るなら子供の転校だけでは済まない。東北の地で長年暮らしてきた多くの人たちにとっては、初めての転勤だ。近くに住み、助け合ってきた親戚や地元の友人知人とも離れ離れになってしまう。周囲の環境に慣れるのにも時間がかかるにちがいない。

 被災地で失業した人たちは、仕事を求めて右も左も分からない土地に移住するか、地元の復興を待つか。果たして待つことが、手持ち資金でどれくらいの時間可能なのかと悩んでいることだろう。。

 町の復興さえままならない地域もある。事故が起きた東京電力福島第1原子力発電所から20キロ圏内の町村だ。その中の一つ、福島県浪江町は、臨時役場を県内の二本松市に設置した。どこに移住したのか、あるいは行方不明なのか、所在の分からない町民が6割に上るという。想像を絶することが現地では起こっている。

 5月11日に放送された『クローズアップ現代』(NHK総合)では、原発で故郷を追われた浪江町の人々を追っていた。原発事故による計画的避難で人々は地元で失業し、散り散りになっていた。同町商工会青年部のリーダー・八島貞之さんは仲間に声を掛けて、地元の人たちを呼び寄せ、元気にするためのイベントを開いた。自身も従業員5人の鉄工所を経営していたが、被災して再開のめどが立たず“失業”中だ。奥さんと小さな娘さんを抱えながら、収入が途絶えてしまった。

 地元愛に燃える若者たちも、生活のため、家族のためには、いつ解決するとも分からない放射能事故の終息を待っているわけにはいかない。雇用の発生する見込みの立たない地元を離れざるを得なかったのだ。イベントが終わると、彼らは「また会おう」と言いながら、再び新天地へと散って行った。

 民間調査会社の帝国データバンクは、東日本大震災関連の倒産動向調査(第2回)を発表した。5月11日時点の倒産企業は87社、負債総額は527億8600万円に上る。5月中には100社を突破する勢いだという。これは地震発生から約4カ月半で100社を突破した阪神・淡路大震災の約2倍の速さだ。

 内訳を見ると直接被害によるものは12社、残り75社は間接被害を受けた企業だ。しかも岩手、宮城、福島の東北3県の倒産は19社で、残り約8割がそれ以外の地域というのも気になる。近畿で5社、九州・四国で10社と全国に及んでいる。

 今後はゴールデンウィークで十分に集客のできなかった観光業、レジャー産業、イベント・スポーツ関連企業。また夏のレジャー自粛や、節電のあおりを受けた企業がばたばたと倒れていくかもしれない。
グローバル化の波に、翻弄されてきた日本企業

 シンクタンクの日本総合研究所は5月17日、来年以降も夏場の電力不足への懸念が強く残る場合の18万人も含めると、東日本大震災に伴う失業者数が全国で45万〜65万人に上るとの試算を発表した。「原発風評被害や波及的影響を含めればこれを上回る可能性も」あるという。

 企業が倒産してしまっては、雇用そのものが望めない。ご存じの通り、リーマンショックの後にも資金繰りが悪化した企業が相次いだ。日本企業は戦後の右肩上がりの高度成長期から中成長の時代を経て、低成長の時代、そしてゼロ成長の時代に入る。同時期からグローバル化が進み、外資系企業の契約ありきの雇用慣行に影響を受けて、終身雇用制度が崩れてきた。

 資金力のない中小だけでなく、大手企業でさえも大量の希望退職を募り、会社や上司を通してのあからさまな退職圧力も横行した。古くをたどれば“旦那さま”と“番頭さんや丁稚”との人生を共有した深いきずな。戦後日本の高度成長期を支えた、世界的にも珍しい終身雇用制度と年功序列は、一時は高度経済成長を支えた仕組みとしてもてはやされた。

 がしかし、ひとたび日本が低成長時代に入ると、それらは古い日本的経営の象徴として一刀両断することが正しいことのように語られた。海を超えて押し寄せてきた株主市場主義はグローバルスタンダードとして、利益に対して高い配当性向を要求した。彼らは日本企業の高い内部留保を、資本効率の悪さとして批判してきた。

 確かに資本を内部留保して塩漬けにしていれば、資本効率が落ちるのは当然だ。では日本企業は資本効率をわざわざ落とすために内部留保を重ねてきたかというと、必ずしもそうではない。企業の多くは、“万が一の時にも”終身雇用制度を維持できるように、時には投資さえも我慢してため込んできたのだ。株主市場主義の外資系企業からすれば、考えられないことだ。

 『外資系企業で成功する人、失敗する人』(津田倫男著、PHP新書)の「第4章 あなたの会社が、明日から外資系になったら!?」で、外資系企業になった途端に起こる9つの変化が紹介されている。日本企業がある日突然外資系企業に変わるなどと、かつては誰も想像しなかった。それが1999年の日産自動車と仏ルノーとの提携で現実のものとなった。

 津田氏が挙げる9つの変化を見てみよう。「(1)経営陣が外国人に入れ替わる」「(2)給与や待遇が、年功主義から成果主義の方向に変わる」は、想像の範囲ではある。「(5)外国語のできる社員が突如優遇されるようになる」は、日本の読み書き英語教育でエリートになった中高年には辛いところだが、早晩必要に迫られるだろう。韓国や中国のように日本の英語教育を変えればいいし、勇気を持って場数を踏めば何とかなるとも言える。

 「(7)CSR(企業の社会的責任)に真面目に取り組むようになり、それを怠ると罰せられる」について言えば、狭いコミュニティの中にあった日本企業はCSRという言葉が喧伝される以前から、歴史的に地域や社会を意識してきた自負がある。

 「(6)顧客の選別が進み、なあなあの営業や顧客とのもたれ合いが許されなくなる」「(8)喫煙や飽食が戒められ、健康管理ができない社員にはペナルティが与えられる」「(9)無駄な会議が減り、会議時間が短くなる」は、むしろ外資系企業に買収されなかったとしても望むところだ。

 残った項目を見てみよう。「(3)株主(ほとんどの場合、海外本社)や本社幹部の意向が唯一絶対の基準となる」はどうだろう。外資系企業では、日本支社の業績が悪くなくても、全体の業績が悪化すると、あおりを食って全員が突然解雇されることも珍しくはない。若いうちならいいが、年を経て住宅ローンや子供の教育費を抱えていたら大変だ。今回の震災のように突然に家を、住む場所を失った状態だったらどうだろう。

 「(4)“社員は仲間だ”という意識から、“誰もがライバル”に変わる」。競争は必要だ。それは原発事故を起こした東京電力の危機管理能力でも、必要性が明らかになった。競争なきところに危機意識も成長もない。しかし“社員は仲間だ”という意識を捨てて、日本企業は今後も生き残っていけるのだろうか。
いつの時代も変わらぬ日本企業のアイデンティティー

 外資系企業に勤めるメリットは津田氏がいくつも指摘している。
1. 若年でも力があるとわかれば、年功や序列を飛び越えて昇進・昇格できる。
2. 業績への貢献度が高ければ、年収をはるかに超えたレベルのボーナスをもらえる。
3. 日本の現地法人や支社で頭角を現すと、海外本社で重要なポストを与えられる。
4. 概して給与や福利厚生(フリンジ・ベネフィット)のレベルが高く、数年勤めると日本の同業企業の社員に比べて実質的な年収が3倍にも5倍にもなる。

 ほかにも枚挙にいとまがないと……。

 雇用は契約関係と割り切る外資系企業が用意する条件は、若くて自信のある人ほど魅力的に映るに違いない。今や優秀な学生たちの間では、かつてエリートコースと呼ばれた中央官僚よりも外資系企業への就職が人気だという。

 東京大学法学部に在籍していたサークルの後輩A君は優秀だったが、1988年当時としては珍しく外資系企業に新卒で入社した。同じ学部学生の就職先は、検察や弁護士の卵か、中央官僚ばかり。日本の超有名民間企業に決まった仲間は「ミンカン」とやや蔑まれて呼ばれていた。外資系企業を“敢えて選ぶ”同級生などほとんどいなかった。

 彼は数年後にはバイスプレジデントとして活躍し、都内の一等地にマンションを購入してサークルで知り合った他大学の美人の奥さん、子供と幸せに暮らしていた。しばらく会っていないが、すでに同じ会社にはいないだろう。“実績を挙げていれば”、他社に自ら志願するか、引き抜かれているはずだ。

 外資系の仕組みは、優秀かつ結果を出し続けられる人にとっては、素晴らしい環境だが、だれもがいつも結果を出せるとは限らない。労働市場におけるスキルや能力の格差が大きいとされる米国と違って、基礎能力で差が少ない日本の環境にはなじみにくいとされる理由の一つだ。欧米型の契約関係で一部の優秀な人材を集められる企業が、これからの世界では勝っていくのだろうか。“優秀で自信がある人”以外も救える日本的な仕組み、終身雇用という安心を前提とした全員野球の考え方では世界で戦えないのだろうか。

 同時に経営者の1人としては考えることがある。欧米外資の契約ありきの雇用慣行と日本的な終身雇用制。果たして経営からすれば、どちらが楽で、どちらが大変な経営なのだろう。

 欧米外資の契約ありきの雇用慣行に従えば、用意した処遇に見合った求める結果が残せなければ契約を打ち切り(=解雇)、結果が出せる人を新たに募集する。客観的に見れば、とても合理的な判断だ。株式会社のオーナーである株主の意向にも沿っている。業績を挙げ、株価を引き上げてくれる人材こそが求められており、資産を増やしてくれる経営者なら何億円、いや何十億円出しても来てもらいたい。

 とてもシンプルで分かりやすい。経営はひたすら結果の出せる人材を、高い報酬で募集し続けていればいい。競合他社が報酬を引き上げれば、さらに上の条件を提示する。そのための資金は……。仕方がないので現場で単純作業をしている人たちに泣いてもらうしかない。彼らは仕事があるだけで満足なのだから、と考えても行くのだろう。

 投資家は自分の資産を投じてリスクを負っている。リスクを負っている以上、それに見合ったリターンの可能性を追求する。ローリスク&ローリターン、ハイリスク&ハイリターンが投資の基本。投資家は会社を数字で見ている。だがその会社には、一部の幹部社員だけが働いているのではない。それ以外の、主に現場で働く多くの従業員たちがいる。

 いくら幹部が優秀でも、すべてのお客様に接することはできない。機械や乗り物を動かし、実際にモノを作り、アフターサービスを提供するといった、商品やサービスに直接的に関わっているのは現場の従業員たちだ。彼らは早朝から夕方まで、投資家からは見えないところで毎日働き、毎日暮らしている。彼らが仕事に誇りを感じ、生活も含めて高いモチベーションで取り組むことで企業価値が上がって行くことを忘れてはならない。
雇用の維持は、日本復興のための前提条件

 以前にもご紹介したが、東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で200年以上にわたって醤油製造を続けてきた八木澤商店。日経ビジネスオンラインのほかの記事でも取り上げられている(『200年以上続く老舗社長が語る 「陸前高田も会社も無くなりました」』『あきらめない、醤油店主の意地』)。同社は地震と津波で社員1人とともに本社、店舗、工場などすべての施設を失った。ゼロどころではない、マイナスからのスタートだった。

 いったんはあきらめかけていた8代目・河野和義さんに、再建への道を奮い立たせたのは息子・通洋さんの思いだった。「この一大事は若い自分の手で何とかしたい」と父親に直訴したのだ。震災ですべてを失いながらも会社を存続し、雇用を守りたいという経営者としての思いは、いつの間にか息子に引き継がれていた。

 3週間余りたった4月1日、同社は自動車学校に仮事務所を設けてようやく営業再開にこぎ着けた。従業員45人のうち、出社可能となったのは約30人と4月に新卒採用した2人。8代目の和義さんは、震災後初の朝礼で、従業員1人ひとりに給料袋を手渡しながら「解雇はしない」と告げた。そして強い口調で語った。「各社が再興をあきらめ解雇すれば、陸前高田から人がいなくなってしまう。少しでも雇用を守りたい」。9代目社長に就任した通洋さんは、「俺たちの手で陸前高田を取り戻そう」と叫んだ。

 経営者にもいろいろな人がいる。自分の利益と名誉、会社の利益しか考えていない人もいる。オーナー経営者の中には、儲かったら1人占めしようとしている人もいる。そのために、いろいろと理由を付けては雇用を一番先に見捨てる。しかし世の中の経営者はそういう人ばかりではない。

 私が理念の共有浸透でご支援している企業の経営者は、震災によって業績が一時的に落ち込んでも従業員のリストラは一切考えなかったという。「同じ目的を共有して、共に働いてきた仲間なのですから、リストラは会社というチーム力を低下させるだけです」。

 経営者にとって、一時的とはいえ業績の落ち込みには心中穏やかではいられなかっただろう。その時に頼りになったのが、蓄えていた内部留保だったという。日頃から一定の資金をためておくことで、半年から1年の間、売上がたとえゼロになっても雇用を守れるだけの資金を用意していたのだ。行き過ぎない範囲での内部留保は、雇用を重視した日本的経営のノウハウなのだ。

 みずほ総合研究所の発行する「みずほリサーチ February 2011」の『日本企業は利益を貯め込みすぎているのか』によると、「主要国を比較すると、(最近の)日本企業の内部留保は突出していない」という。リーマンショックのあった2008年、そして2009年と取り崩して減った一方で、米国企業では積み増しが進んでいる。しかも「利益減少に応じて雇用も削減した米国企業に対して、日本企業は利益減少率ほどには雇用を削減しておらず、相対的に雇用を守った」と。

 働く側からすれば、生きていくために、生活するために最低限必要な雇用が確保されることで安心もし、仕事に打ち込むことができる。生真面目な日本人の多くは、与えられた仕事を忠実にこなす。契約にあるかないかではなく、仕事の細部にこだわり、仲間と協力しあいながら、顧客が満足できるようなより高いレベルの仕事を目指す。仕事は生活費を稼ぐための手段だが、多くの日本人にとっては「やりがい」や「共に働く喜び」といった、人生にとってそれ以上の意味がある。

 どんな組織にあっても、優秀な人、普通の人、なかなか結果の出せない人は「3:4:3」とか「2:6:2」の割合で存在すると言われる。上位2割、3割の一部の人だけを生かす仕組みがいいのか。あるいは上位と共に、中間の4〜6割、さらには残りの2割、3割の人も教育によって生かす仕組みを目指すのか。

 それはグローバル化した環境の中で、個々の企業が判断すればいいことだと私は思う。多くの日本企業はこれまで後者を選んできた。国際的には少数派なのかもしれないが、雇用を守り、人を育て、チーム力で勝負するという考え方は間違っているのだろうか。人が長年組織にいることでたまっていくノウハウもある。人と人との関係は密になり過ぎると悪弊を生むこともあるが、チームワークとして互いのやる気や、助け合いを生み出すメリットも大きい。

 被災地・浪江町にもっと雇用があれば、多くの若者が集い、故郷の復興のために地元に根を張って、一生懸命働いたことだろう。日本の復興を一日でも早めるためには、雇用を生み出し、守ることが前提条件ではないだろうか。厳しい環境は続くが、雇用を生み出すこと、雇用を守ることを、経営者と地域と国が一体となって最優先で取り組んでいきたい。

 最後に、今回の震災の影響で、自分の報酬をゼロにしてあらゆる手を尽くしても目処が立たず、泣く泣く会社を畳んだ経営者のみなさん、雇用に手を付けざるを得なかった経営者のみなさんへ。ぜひとも再建してほしい。あなたには自分の仕事だけでなく、“雇用を生み出す力”があるのだから。

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このコラムについて
武田斉紀の「ブレない組織、ブレない生き方」

社会や政治や経済を取り巻く環境が目まぐるしく変わる現代──。その変化の奔流に押し流され、進むべき道筋を見失ってはいませんか?
変化の荒波に翻弄されずに目的に向かって歩み続ける「ブレない組織」を作ったり、個人として「ブレない生き方」をするにはどうしたらいいのか。
このコラムシリーズでは、時事的な話題を中心に成功例だけでなく失敗例も交えながら、その答えを探究していきます。

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著者プロフィール

武田 斉紀(たけだ・よしのり)
企業理念コンサルタント
ブライトサイド コーポレーション代表取締役社長

武田 斉紀1986年東京大学卒、同年リクルート入社。人事部を経てHR事業部へ。大手から中小まであらゆる規模、あらゆる業種の企業を対象に、採用・組織作りやブランド構築を支援する。全社表彰、MVPほか各賞を受賞。その後マーケティングの新規事業立ち上げに参画、軌道に乗せて2002年に退職。期間限定でベンチャーの立ち上げに参画した後、2003年9月に企業理念の共有浸透を専門とするコンサルティング会社、ブライトサイド コーポレーション(正式名称ブライトサイド株式会社)を設立、現在に至る。
日本一のコピーライター集団「TCC(東京コピーライターズクラブ)」会員。
著書『なぜ社長の話はわかりにくいのか』(PHP研究所)、『新スペシャリストになろう!』(PHP研究所、海外でも発売)、『行きたくなる会社のつくり方』(Nanaブックス)。
全国で講演多数/一般企業、経営者交流会、官公庁、都道府県などの自治体、学校。
ホームページ:http://www.brightside.co.jp/
■過去のコラム
「社長の話がわかりやすい会社は伸びる」
「武田斉紀の「企業理念は会社のマニフェスト」」
「武田斉紀の「よく生きるために働く」」
「武田斉紀の「行きたくなる会社のつくり方」」
 

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