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日経ビジネス オンライントップ>投資・金融>小峰隆夫のワンクラス上の日本経済論 石油価格上昇コストの「公平」な負担とは 「価格に転嫁」「賃金は上げない」が「分配率に中立」な考え方 * 2011年3月9日 水曜日 * 小峰 隆夫 価格転嫁 消費者物価 政治 石油価格 分配率 コスト 総合 GDPデフレータ 金融政策 ECB コアコア コア 中東の政治情勢が緊迫する中で、石油価格が上昇している。石油価格の国際指標であるニューヨークWTI(West Texas Intermediate)の先物価格は、3月2日にはバレル当たり100ドルを越えた。2年4カ月ぶりの高値である。今後、史上最高値(147ドル)に達するという見通しもある。日本は原油輸入の87%を中東に依存している(2010年)だけにその影響も甚大である。 石油価格の上昇は日本経済にとってのマイナス要因であることは間違いない。これは経済的には「交易条件が悪化することによって、日本経済に悪影響が現われる」ということである。交易条件というのは、輸出価格と輸入価格の比率(輸入価格が分母)である。この比率が上昇することを「交易条件が好転する」と言い、逆の場合を「交易条件が悪化する」ということからも、交易条件の上昇は経済的にプラス、低下はマイナスであることが分かる。石油価格が上昇すると、分母が大きくなるのだから交易条件は低下し(悪化し)経済にマイナスの影響が及ぶということである。 ここまでは極めて常識的な話だ。ここから一歩進めて考えてみよう。 簡単な数値例で考える石油価格上昇の影響 最初に、お断りしておきたいことがある。 石油価格の上昇が日本経済にどのような影響を及ぼすかということは、二つに分けて考えることができる。一つは「石油価格がどの程度上昇し、それがどの程度続くのか」ということであり、もう一つは「石油価格が上昇したらその影響が経済にどう波及するか」ということだ。以下本論で主に取り上げるのは後者についてである。 前者が重要であることは当然である。石油価格の上昇幅が大きいほど、そしてそれが長く続くほど経済的な負の影響は大きい。しかし問題は、それを見通すことは難しいということだ。私自身は中東問題、石油問題の専門家ではないので、この点には答えられない。「専門家に聞いてください」としか言えないのだが、私は、専門家でも将来を見通すことは難しいと思っている。 「何も言わないのは無責任だから何か言え」と強いられれば、私の判断としては、「石油価格は一時的にかなり上昇するだろうが、それはそれほど長くは続かない。したがって、日本の景気の後退要因となるほどのインパクトはない」と思っている。中東諸国が意図的に価格を引き上げているわけではなく、政治的混乱が収まれば、各国とも輸出を増やして収入を確保したいと考えているはずだと思うからだ。ただし、この私の考えはあまり当てにならない。 以下、後者の「石油価格が上がったらどうなるか」ということを取り上げるが、これについてはかなりの議論の蓄積がある。 議論を分かりやすくするために、簡単な数値例を使おう(表参照)。 日本には企業が1社しかなく、この企業の売り上げは100万円。この企業が仕入れる原材料は海外から輸入する20万円の石油だけ。付加価値は80万円でこれを賃金と収益で半分ずつ分け合っているとする。分配率は50%である(局面1)。 ここで、石油の値段が2倍になったとする。売り上げの100万円、賃金の40万円は不変なので、収益は20万円に減少する(局面2)。 困った企業はコストアップ分を値上げする。売り上げは120万円に増えて、収益は再び40万円に戻る。この時物価が20%上昇するので、実質賃金は20%低下する(局面3)。 さらに、物価が上がった分賃金を引き上げると、その分だけ再び収益が減る(局面4)。 企業が収益を元に戻そうとすると、再び物価が7%上昇する(局面5)。 もちろんこれは非常に簡単な数値例で、「コストは価格に全て転嫁できる」「価格を上げても売り上げは減らない」などの仮定を置いているから、穴を探そうとすればいくらでもあるのだが、基本的なメカニズムを知るにはこれで十分だ。ここから分かる主な結論は次の通りである。 表 石油価格上昇の影響(数値例、単位:万円) 石油 賃金 収益 売り上げ 物価上昇率 分配率 局面1 20 40 40 100 0% 50% 局面2 40 40 20 100 0% 67% 局面3 40 40 40 120 20% 50% 局面4 40 48 32 120 0% 60% 局面5 40 48 40 128 7% 55% 結論1 石油価格上昇の悪影響は避けられない まず、ひとたび石油価格が上昇してしまったら、何らかの悪影響が及ぶことは避けられないということが分かる。悪影響の及び方は二つである。一つは、企業が石油コストの上昇を価格に転嫁できず、企業収益が減少する場合(局面2)である。収益が減れば、企業経営は厳しさを増し、投資活動は慎重化し、雇用情勢も悪化するだろう。石油の値段は上がったが、ガソリンスタンドがそれをガソリン価格に転嫁できないというような場合である。 もう一つは、企業がコストアップを価格に転嫁して、物価が上昇し、賃金が目減りする場合である(局面3)。実質賃金が減れば、家計は消費を減らすから、景気にマイナスとなる。ガソリンの値段が上がって、その分消費者が支出を減らすような場合である。 これが「交易条件が悪化する」ということである。もちろん長期的には省エネルギーで石油消費量を減らす、産業転換を図るといった対応は可能だが、現在の経済構造を前提とすると、基本的にはその悪影響を避けることはできないのである。 要するに石油価格が上がれば、それは一方では物価上昇要因となり、他方で景気後退要因となる。経済をスタグフレーション(インフレと景気後退の組み合わせ)的に向かわせることは間違いないと言える。 結論2 企業と家計は石油価格上昇の負担をどう分け合うべきか 石油価格が上昇すると、経済的負担は避けられないということが分かった。では、それは誰がどのように負担すべきだろうか。以下、議論が複雑化するので、基準を明確にしておこう。ここでは、企業と家計がコストを負担したとき、「分配率が変わらない」ということを基準としよう。これはそれほど不自然な基準ではない。「付加価値を企業と家計でどう分け合うか」というのが分配率である。石油価格が上昇する前に比べて、上昇後に賃金への分配率が上がった場合には、企業の負担がより大きく、下がった場合には家計の負担がより大きかったと判断できる。 では、分配率に中立的な負担とはどんなものか。これは分配率の数字を見れば分かるように、局面3になった場合である。つまり、企業は石油コストの上昇分をフルに価格に転嫁し、その結果物価が上昇し、実質賃金が減っても賃金は上げない場合がそれである。 この結論は、多くの人は意外に思うだろう。「受け入れがたい」と怒る人もいるだろう。局面2が企業の負担になっているということは誰にも分かる。それが局面3に移行すると、多くの人は「企業は価格に転嫁して負担を免れ、今度は家計がコストを負担している」と考える。しかしそうではない。企業だけが負担していた局面2から、両者が公平にコストを分担する局面3になったということなのである。 「企業と家計が石油コスト上昇の痛みを分かち合うためには、企業がコストアップ分の半分を価格に転嫁し、家計はコストアップ分の半分は実質賃金の低下を甘受することにしてはどうか」と考える人も出るかもしれない。しかし、これも計算してみれば、賃金分配率が上昇することがすぐに分かるので、公平な分担だとは言えないこととなる(企業の負担が多い)。 もちろん、日本は計画経済ではないから、機械的に価格・賃金を決めることはできない。しかし、局面3が公平な分担という意味で一つの「標準型」であり、これに照らしてみれば、分担がどちらに偏ったものとなっているかを判定できるのである。 結論3 石油価格の上昇の現れ方には順番(シークエンス)がある 表で示した例は、現実に石油価格上昇の影響が現れる順番を示していると解釈できる。具体的に現実の指標がどう動くかということを交えて説明しよう。 説明に入る前に、基本的な予備知識として、物価指標について整理しておこう。物価指標には、消費者物価の総合、生鮮食品を除く消費者物価(コア)、生鮮食品とエネルギー関連品目を除いた消費者物価(コアコア)、GDPデフレータなどがある。詳しい説明は省略するが、「消費者物価の総合」は要するに、消費者にとっての総合的な物価情勢を示している。「コア」は、天候などの不規則要因で動く生鮮食品を除いて、基調的な物価を見ようという工夫である。 では「コアコア」は何か。私はこれは、「海外要因からくる影響を除く」という工夫だと解釈している。物価の上昇は、国内経済の中にある要因(例えば、需給の引き締まり)によってもたらされる物価上昇(これをホームメード・インフレという)と石油価格などの輸入品の値上がりによってもたらされる物価上昇(これを輸入インフレという)がある。コアコアは海外要因のうちの大口である石油関係品目を除くわけだから、主に国内要因による物価上昇を見ていることになる。 ではGDPデフレータは何か。これも詳しく説明すると長くなるが、GDPでは輸入は控除項目となっているため、輸入価格が上昇すると、その瞬間にはGDPデフレータは下がる。やがて国内価格に転嫁されていくと、国内需要デフレータも上昇するため、デフレータは元に戻る。この点は、輸入デフレータが発生して、それが完全に国内価格に転嫁された場合は、GDPデフレータは不変となることが定義的に明らかとなっている。要するにGDPデフレータは、輸入インフレでは動かない。つまりホームメード・インフレの時にだけ上昇するのである。 以下、局面に応じて考えよう。 石油価格が上昇すると、まず企業収益が悪化する局面が来る(局面1)。この時、需給ギャップが大きく、企業がコストを価格に転嫁することが難しいと、この局面で終わってしまう。現在、日本の需給ギャップは依然として大きく、デフレ経済が続いているので、実際のところ、価格転嫁ができず、企業が石油コストのかなりの部分を負担するという結果になるかもしれない。 この時、国内物価は何も動いていないので、物価指標は何も動かないように見えるがそうではない。輸入価格が上昇し、国内価格が不変なので、GDPデフレータは低下する(石油価格が上昇したのに、GDPデフレータは低下する!)。すると、名目GDPは減少することになる。 次に、企業がコストアップ分を価格に転嫁すると、物価が上昇する局面が来る(局面2)。今度は消費者物価のうち、総合物価およびコアは上昇するが、コアコアでは上昇しない。消費者にとっては、要因が何であれ、物価が上昇することには変わりはないので、生活は苦しくなる。 GDPデフレータは元に戻り、名目GDPも出発点(局面1)に戻る。この点は案外重要なポイントである。要するに石油価格が上昇し、消費者物価が上昇しても、名目GDPは増えないのだ。名目GDPが増えないのだから税収も増えない。 次に、物価上昇分だけ賃金が上がるという局面(局面4)、さらには賃金コストの上昇分を価格に転嫁する局面(局面5)が来る。ここに至って、初めてコアコアの消費者物価が上昇し、GDPデフレータも上昇し、名目GDPは増える局面となる。 ただし、おそらく現実にはここまで到達するのはかなり難しいだろう。ただでさえ賃金が上がりにくく、むしろ低下さえしてきたのだから、企業収益を減らしてまでも賃金を上げられるかはかなり疑問だし、賃金コスト分を価格にもう一段転嫁できるかはさらに疑問だからだ。 結論4 輸入インフレに金融政策で立ち向かうことは難しい 最後に、金融政策はどうあるべきかという点を考えよう。 私自身は、輸入インフレに対して金融政策でこれを抑制しようとするのは難しいし、むしろやらないほうがいいと考えている。最初に述べたように、石油価格の上昇は、物価上昇と景気の後退をもたらす。かといって、石油価格の上昇そのものは与件に近いから、それによる国内物価上昇を押さえ込むことは難しい。もちろん理論的には、金融を強く引き締めて、企業の価格転嫁を押さえ込み、経済を局面2に閉じ込めることは可能である。しかしそのためには一段と需給ギャップを大きくする必要があり、景気は相当後退することになる。前述のように、局面3が標準型だとすれば、無理に局面2を保つ必要はないとも言える。 こうしたことから考えても、金融政策が目指すべき物価安定は、コアコアの消費者物価上昇率、またはGDPデフレータではないかと私は考えている。 ただしこの点については異論も多い。現に、ユーロ圏での金融政策を担う欧州中央銀行(ECB)は、エネルギーも含めた物価上昇率を安定化させることを政策目標としている。理由はともあれ、物価上昇が続くとインフレ期待が経済全体に広がり、それがやがては国内インフレにつながるということを懸念しているのであろう。 この点は議論が分かれるところである。 最後に結論をまとめておこう。 (1)石油価格の上昇は、一方では物価を引き上げ、他方では企業収益の悪化と実質賃金の下落によって景気を悪化させる。この悪影響を避けることはできないが、その程度は、石油価格上昇の程度と持続性によって変わってくる。 (2)石油価格上昇の負担を企業と家計が平等に負担する道は、企業は石油コストを価格に転嫁し、それによって実質賃金が低下してもそのままにしておくことである。しかし、現実には企業の価格転嫁は限られたものとなり、企業収益が減り、物価もやや上昇するということになるだろう。 (3)消費者物価についてはコアコアは上昇せず、総合およびコアが上昇する。金融政策の判断は、総合か、コアか、コアコアかという議論になるが、コアコアで判断すべきだという考えが正しいとすれば、石油価格の上昇で物価が上昇しても金融政策のスタンスを変えるのは不適当ということになる。 前回の補足:「名目」と「実質」、「経済全体の所得」と「賃金」 前回の記事(2月23日「このままでは日本人の所得レベルは下がってしまう」について、多くの方からコメントを頂きました。ありがとうございました。1点だけ補足させていただきたいと思います。 * * * * * 前回私が述べたのは、一人当たりGDPが大切なのだが、その一人当たりGDPは、今後人口構成の変化(人口に占める働く人の割合が下がる)によって、放置していると(労働生産性が変わらないとすると)下がってしまうということだった。 これに対して、多くの方から、「我々の所得は既に下がっている」という指摘があった。これについては、次のような三つの点に注意して欲しいと思う。 第1は、名目と実質の違いである。私が説明したGDPは、物価の影響を考えない「実質」概念である。長期的な成長という点では、実質的にどの程度の財貨・サービスを生み出すかが重要だと考えるからである。 これに対して「既に下がっている」という指摘は「名目」概念だと思われる。名目で見ると、確かに日本の一人当たりGDP(一人当たり国民所得でも同じ)はここ10年以上基本的にほとんど増えていない。しかし、実質では日本の一人当たりGDPは増え続けている。 第2は、経済全体の所得か賃金かという違いである。GDPに相当するのは国民所得全体であり、これには賃金だけではなく、企業所得や財産所得も含まれる。経済の局面によって企業収益は増減があるのだが、賃金はこのところ一貫して低下してきた。「所得」を我々の賃金だけで見ていると、全体の所得と動きが異なる場合がある。 第3は、「現在の話」か「これからの話か」というタイムスパンの違いである。私が説明したメカニズムは、これから長期的に作用するであろうという懸念を述べたものである。これに対して「既に下がっている」という議論は、90年代以降、賃金の伸び悩みを反映して平均所得が下がっていることを指摘したものだと思われる。 結論を言えば、私が言いたかったのは、「これからの日本を長期的に見ると、人口変化要因によって一人当たり(実質)GDPが下がることに注意せよ」ということである。90年代以降日本の名目所得が減少していることは事実だがこれは人口要因によるものではなく、まさにデフレそのものの問題である。この点を議論するには、前回の私の議論とは全く違う角度からの検討が必要だと思われる。 (次回は3月23日に掲載する予定です) このコラムについて 小峰隆夫のワンクラス上の日本経済論 「ワンクラス上」というタイトルは、少し高飛車なもの言いに聞こえるかもしれません。でもこのタイトルにはこんな著者の思いが込められています。「タイトルの『ワンクラス上』は、私がワンクラス上だという意味ではありません。世の中には経済の入門書がたくさんあり、ネットを調べれば、入門段階の情報を簡単に入手することができます。それはそれで大切だと思います。しかし、経済は『あと一歩踏み込んで考えれば新しい風景が見えてくる』ということが多く、『その一歩はそんなに難しくはない』というのが私の考えなのです。常識的・表面的な知識に満足せず、もう一歩考えを進めてみたい。それがこの連載の狙いであり、私自身がその一歩を踏み出すつもりで書いていきたいと思っています。コメントも歓迎です。どうかよろしくお願いいたします」。日本経済、そして自分自身の視点を「ワンクラス上」にするための経済コラムです。 ⇒ 記事一覧 著者プロフィール 小峰 隆夫(こみね・たかお) 小峰 隆夫 法政大学大学院政策創造研究科教授。1947年生まれ。69年東京大学経済学部卒業、同年経済企画庁入庁。2003年から同大学に移り、08年4月から現職。著書に『日本経済の構造変動』、『超長期予測 老いるアジア』『女性が変える日本経済』、『最新日本経済入門(第3版)』、『データで斬る世界不況 エコノミストが挑む30問』、『政権交代の経済学』、『人口負荷社会』ほか多数。
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