02. 2011年4月26日 02:03:18: Gt5KbLTT1s
非情な国家と御用学者と哀れな飯館村の住民を思うと、平常心ではこの記事を最後まで読めません。ひどすぎる。次の当事者は私ですか、それとも貴方ですか。ダイヤモンドオンラインの 【福島県飯舘村・現地レポート】 持続可能な村づくりを奪われた村 ――原子力災害の理不尽な実態 http://diamond.jp/articles/-/11978 そうした状況の中で行われたわれわれの調査だったため、結果の発表は慎重に進める必要があった。国は30km圏の線引きにこだわり、村の汚染を覆い隠そうとしているように思われた。 ところが4月4日に調査チームのレポートが公開されると、国の動きに微妙な変化が現れた。レポートはすでに2日の段階で村に、そして村に派遣されている原子力安全・保安院職員に渡されていた。枝野官房長官は4月5日、年間被曝限度量の引き上げを示唆したが、これはこれまでのような「線量率」から予測を含めた「積算値」管理への転換を意味している。 4月6日、村はわれわれの提案に基づき、南部の住民達の役場周辺への避難と、妊婦・乳幼児の村外への避難を決めた。その夕方、原子力安全委員会は記者会見で「村の判断は正しい」と見解を述べたという。このことは報道はされなかったが、親しい記者が私に伝えてくれた。 さらに4月7日には菅野典雄村長が官房長官から呼び出された。そして11日になって国は飯舘村を含む圏外の地区を「計画的避難区域」に指定することを発表した。すでに放射性物質が大量に村に降下した15日夜から1ヵ月近くが経過し、村民はこの間いたずらに被曝を重ねてしまった。国はこれ以上の被曝を重ねないよう、村民への補償を含めた避難条件について一刻も早く村に提示し、合意すべきだ。村民は今、放射能への不安と今後の生活の不安、村の将来への不安という三重の不安を抱えながら暮らしているのだ。 いま、飯舘村の山々は、軟らかい木々の芽吹きに包まれるころである。だが昨年と異なるのは、そこが目に見えない放射能に汚染されていることだ。村民は、彼らには何の責任もない原因で暮らしを仕事をそして故郷を奪われようとしている。あまりの理不尽さに、私は声を失う。(文中敬称略) そのころ福島第一原発は、地震と津波によりすべての電源を喪失、危機的な状況を迎えていた。運転中の原子炉3基は緊急停止したものの、炉心や使用済み燃料の貯蔵プールを冷却できない事態に陥っていた。12日にはとうとう1号炉が、14日には3号炉が水素爆発。15日早朝には2号炉で爆発があり格納容器が損壊、さらに炉内に燃料のないはずの4号炉でも水素爆発と見られる爆発があり、建屋が吹き飛んだ。 避難民を受け入れるどころか、村にも危険が迫っていた。15日午前には飯舘村の南東部の一部を含む20〜30km圏に屋内待避勧告が出された。最大の放射性物質放出があったと見られるこの日、村には南東寄りの穏やかな風が吹いていた。そして夕方からの雨が夜半には雪に変わった。 飯舘村は阿武隈山地の北端にあり、なだらかな山々に囲まれた美しい村だ。平成の大合併時にも独自の道を選び、自立自給の村づくりを進めてきた。 東北地方の方言で「までい」という言葉がある。漢字で書くと「真手」。までいにと言えば、手間を掛ける、手を抜かないという意味になる。スローライフならぬ「までいライフ」が村づくりのキーワードだ。標高が高くたびたび冷害に見舞われてきた村では、米作中心から20年以上かけて飯舘牛というブランド肉牛を育ててきた。村内には3000頭以上の牛がいる。その餌も大半は牧草、稲わらや飼料用トウモロコシを自給する。有機農業を手掛ける篤農家も多い。至るところに「までい」精神が行き渡っている。 私自身が村に関わったのは、こうした村づくりを支援してきた日本大学教授の糸長浩司らとの出会いがきっかけだ。村が再生可能エネルギー導入の計画を作る際に、糸長らとともに関わることになった。このとき作成したプランの一つは、2年前、村で最大のエネルギー需用者である特別養護老人ホームに、木質チップボイラーを導入するかたちで実を結んだ。燃料は村内で調達できる木材。そのボイラーがデンマーク製だったところから、デンマーク大使館から人を招いて行ったシンポジウムには、首都圏からも多くの参加者が集まった。 大阪・熊取町にある京都大学原子炉実験所助教の今中哲二は、3月15日の段階で「福島第一はチェルノブイリのようになる」と確信していた。その後、ぽろぽろと出てくる汚染状況のデータを見て、飯舘村とその周辺に汚染のホットスポットがありそうだと考えていた。 3月22日にはアメリカの国家核安全保障局(NNSA)から、米軍機による放射線調査結果が公表されたが、そこには福島第一原発から北西に飯舘村あたりまで高濃度区域が伸びていることが示されていた。原子力安全委員会はその翌朝、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による、シミュレーションを発表、図では汚染はやはり北西方面に伸びていた。 朝日新聞は3月25日朝刊一面で、「飯舘村では20日に土壌1キログラムあたり16万3000ベクレルのセシウム137が出た」と報じた。村は文科省が土壌調査を行ったことは知っていたが、その結果は村には知らされず、一方的に発表されたものだった。この記事の中で今中は、チェルノブイリなら強制移住になっていた「避難が必要なレベル」とコメントした。 事故以来、糸長らとともに「飯舘村後方支援チーム」として、情報収集やメディアへの対応にあたっていた私は、すがる思いで今中に電話した。この状況をどう判断したらいいのか、何か対策はないのかと。 今中は、「この時点でしっかり汚染の状況を把握しておくことが必要だ」と言った。そのために自ら現地に調査に行く予定だという。 「(週明けの)月曜にから現地に入る。日曜日に東京に行くからミーティングに参加してほしい」 ようやく東北自動車道が再開したばかり、まだ新幹線は那須塩原までしか動いていなかったため、現地には東京からレンタカーで向かうという。私たちは調査団の受け入れのため、ばたばたと村役場と調整を取った。その時には現地の交通に不案内な今中らに替わって、運転手を買って出ることを決めていた。 調査団は今中と私の他、広島大学大学院准教授の遠藤暁、公害史が専門の國學院大学教授の菅井益郎の4人。28日の朝、東京を出発する際に今中から渡されたのは、「ポケット線量計」だった。放射線作業従事者や原発作業員が身につける、被曝量をチェックするための計器だ。 道中でも線量率を計測しながら、福島市を経由して村に着いた時はもう夕方近かった。村長への挨拶と説明もそこそこに、予備調査のため役場を発った。南下するにつれ今中の手にするサーベイメーター(放射線の空間線量率を測る計器)の数値が上がっていく。「10マイクロ、11、15……、計測不能!」。今中が叫んだ。その時彼が手にしていたサーベイメーターでは、毎時19.9マイクロシーベルトまでしか測れないのだ。 この日は村内に宿泊し、翌日は朝から車で南北、東西に村内を走りながら、空間線量率を記録していった。測定箇所は全部で140ヵ所。ほぼ村内全域を網羅した。うち5ヵ所では含まれる放射性物質を調べるため土壌も採取した。最も値の高かった村南部の測定ポイントでは、路上で毎時24マイクロシーベルト、畑の上では同30マイクロシーベルトにも達した。 30日に東京に戻り調査チームはいったん解散したが、広島大学の遠藤は早速持ち帰ったデータ、サンプルの解析に取りかかった。金曜日には解析があらかた終わり、その情報を村に伝えるとともに、対策を検討した。 拡大画像表示 飯舘村の汚染は予想以上に深刻だった。村南部における3月15日からの屋外累積被曝量は、1ヵ月で50ミリシーベルト、3ヵ月で100ミリシーベルトまで達すると予想された。ずっと屋内に居続けたとしても、木造ならその半分程度は浴びることになる。放射線業務従事者の年間被曝限度を3ヵ月で上回ることになる。ここは原発から30kmの屋内待避圏の外側で、30km圏はむしろそれよりも低い値だった。30km圏の同心円状の線引きが、実態を反映していないことは明らかだった。 放射線による人体への影響には、一時に大量に浴びた場合の急性障害と比較的低量を浴びた場合の晩発障害とがある。原発事故により大量の放射性物質が放出された場合に、まず問題になるのは前者だ。 急性障害に関しては、しきい値(これ以下は症状が出ないという限界値)がある。影響は器官や年齢などによって異なるが、100ミリシーベルト以下では症状は出ないとされている。しかし、低量放射線を浴び続けそれが積み重なることによって生じる晩発障害については、しきい値がないとするのがICRP(国際放射線防護委員会)の基準だ。放射線で遺伝子が傷つき、被曝量に応じて将来癌や白血病、遺伝的障害が生じるおそれあるのだ。 事故直後から、原子力安全・保安院などが伝えていたのは、一時的な被曝量を表す「線量率(時間あたりの値)」だ。これを元に、レントゲン検査1回分程度などと「安心感」をふりまいた。しかし線量率が1マイクロシーベルト/hの土地に1年居続ければ、8760マイクロシーベルト=8.76ミリシーベルトになる。体が受けるダメージは1マイクロシーベルトではなく、8.76ミリシーベルト分だ。 飯舘村では20日ごろまでに、自主避難を含めて半数程度の村民が村外に避難していたと見られる。しかし、原発の状況が落ち着き始めると、家や家畜が心配だったり、仕事があったりして戻ってくる人が増えた。 そんな中、県は放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した長崎大学の教授を村に派遣した。しかし、彼は村内の汚染状況にかなり差があることや、そこに住み続けるリスクを明確に示さず、「安全」、「直ちに健康に影響はない」と村民の前で断言して帰った。「子どもが外遊びをしても何も問題はない」とまで言い切ったという。 放射線は目に見えない。まわりにはいつもの春と替わらぬ景色が広がっている。もとより村にはなんの責任もない。その中で、放射線医療の専門家から安全のお墨付きを与えられ、村民の間には安心感が広がってしまった。 そうした状況の中で行われたわれわれの調査だったため、結果の発表は慎重に進める必要があった。国は30km圏の線引きにこだわり、村の汚染を覆い隠そうとしているように思われた。 ところが4月4日に調査チームのレポートが公開されると、国の動きに微妙な変化が現れた。レポートはすでに2日の段階で村に、そして村に派遣されている原子力安全・保安院職員に渡されていた。枝野官房長官は4月5日、年間被曝限度量の引き上げを示唆したが、これはこれまでのような「線量率」から予測を含めた「積算値」管理への転換を意味している。 4月6日、村はわれわれの提案に基づき、南部の住民達の役場周辺への避難と、妊婦・乳幼児の村外への避難を決めた。その夕方、原子力安全委員会は記者会見で「村の判断は正しい」と見解を述べたという。このことは報道はされなかったが、親しい記者が私に伝えてくれた。 さらに4月7日には菅野典雄村長が官房長官から呼び出された。そして11日になって国は飯舘村を含む圏外の地区を「計画的避難区域」に指定することを発表した。すでに放射性物質が大量に村に降下した15日夜から1ヵ月近くが経過し、村民はこの間いたずらに被曝を重ねてしまった。国はこれ以上の被曝を重ねないよう、村民への補償を含めた避難条件について一刻も早く村に提示し、合意すべきだ。村民は今、放射能への不安と今後の生活の不安、村の将来への不安という三重の不安を抱えながら暮らしているのだ。 いま、飯舘村の山々は、軟らかい木々の芽吹きに包まれるころである。だが昨年と異なるのは、そこが目に見えない放射能に汚染されていることだ。村民は、彼らには何の責任もない原因で暮らしを仕事をそして故郷を奪われようとしている。あまりの理不尽さに、私は声を失う。(文中敬称略) |