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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2461
本当のことを教えてほしい
「あの原発は『福島電力』じゃあないからね。東京電力、東京のための電力を作ってたんだ。そのことを、どこまで首都圏の人は受けとめてるのかね。東京ではいわきナンバーの車を差別する空気があるそうだ。野菜や魚だけでなく、人間まで汚れたモノのように扱うのはやめてほしい。特に、何の罪もない子どもたちには、普通の暮らしをさせてやりたい。俺が言いたいのは、福島を、福島県人をこれ以上バカにするなってことなんだ」
福島第一原発のある双葉町からいわき市に避難している男性(65歳)は、怒りを抑えて静かに言った。
30km圏内の広野町から会津若松市に避難している商店主(40代)も、諦めたように淡々と語る。
「20km圏内はもうダメ。じゃあ、30km圏内はどうなんですか? やっぱり同じように危険なんですか? 誰もそのことを正確に言ってくれない。テレビに出てくる学者の言うこともみんなバラバラ。誰を、何を信じたらいいんですか? 私たちは広野町に住み続けることができるのか、できないのか。子どもに訊かれて答えられない自分が嫌になるんです。誰か本当のことを教えてくださいよ」
本誌はこれまで、被害の大きかった三陸地方でも取材を重ね、津波で家も家族も流された人の悲しみを伝えてきた。
しかし今回、福島の被災者にじっくり話をきくと、三陸の人々に会った時と明らかに違う心象を持った。怒りと恐怖と諦観、その渦の中に彼らはいる。
その違いは何か。
答えは簡単だ。津波は天災だが、放射能汚染は人災だからだ。
三陸には、自然の猛威にひれ伏し、泣きながらも、「この土地でもう一度やり直そう」と思える人たちがいる。これまで津波に襲われては復興してきた強靱な歴史がある。
福島は違う。立ち上がるための大地そのものが、汚染された。先祖代々守ってきた家に、二度と帰れないかもしれない。町の6割が避難区域に含まれる浪江町の避難民が言う。
「先日、30km圏内にある自宅を見にいったんです。役場からは『絶対に行くな』と言われていたけど、まだ3年しか経ってない新築だし、泥棒も心配だし。いざ町に入ってみると、ウチの辺は津波被害がないから、見た目は何にも変わりがないんです。ひとつだけ違うのが、人影がないこと、そして犬や猫が町のいたるところにたむろしていることでした。
その光景がある意味、怖かった。放射能は目に見えないんだってことが、実感としてわかったからです。目に見えないから、町並は何も変わらない。それなのに、人間の生活すべてを変えてしまう。それが放射能なんですね」
テレビではアイドルや歌手が「頑張って」「あなたは一人じゃない」と笑顔でメッセージを送っている。しかしそんな言葉は、彼らの胸には虚しく響く。
「頑張ってって、何をどう頑張ればいいんですか。私たちには頑張るための基盤がないんです。一人じゃない? じゃあ、立ち直るための具体的な方法を、誰か教えてください」(双葉町の主婦・50代)
「放射能は危険じゃない」というキャンペーンを張るメディアにも、彼らは憤っている。
「ある雑誌が『危険を煽るな』って書いてましたが、気休めにもなりません。煽ろうが煽るまいが、私らは二度と家に帰れない。それはレッキとした事実なんです。自分は安全な場所にいて、まるで私らの味方のような顔をして『放射能は危険じゃない』と言い張る人たちが、いちばん冷たく思えます」(福島第一原発のある大熊町の避難民)
テレビが押しつける美談や一部メディアが主張する「放射能安全説」。それが福島の人々をいっそう傷つけている。絶望の淵にいるからこそ、薄っぺらな美談や無責任な安全説の欺瞞が、彼らにはよくわかる。
そしてもう一つ、忘れてはならないことがある。
原発のある双葉町や大熊町はそうでもないが、海の近くに民家が建ち並んでいた浪江町や南相馬市には、津波にさらわれたものの捜索すらされていない遺体が、いまだ何百体と横たわっているのだ。
4月1日、防護服をまとって浪江町を撮影した(後半カラーグラビア参照)、佐藤文則カメラマンが語る。
「港に通じる道路は、途中で瓦礫によって遮断されていました。その瓦礫の山に足だけ出ている遺体を見つけた。掘り起こしたいが手ではよけられないほどの瓦礫があり、震災以来、放射性物質にさらされていた遺体に触れることは、やはりためらわれました。迷いましたが、落ちていたピンクの帯を棒に巻いて、遺体のそばに置いておくことにした。捜索隊の目印になればいいのですが、逆に、この状態がいつまで続くのかと重い気分になりました」
佐藤氏が見た20km圏内の様子を記しておく。
南相馬市から南下し浪江町に入ると、20kmのあたりに「立ち入り禁止」の看板があったが、警官も自衛隊員も立っていない。幹線道路の国道6号線なのに、出入りが自由のようだ。
町は人影がなく、物音ひとつしない。驚いたことに無人の商店に灯りがついていた。退避した時に停電だったので、消し忘れたのだろう。無人の町に点る灯が不気味に感じられる。
コンビニの前を通ると入り口のガラスドアが割られていた。住宅街に入ると、玄関の扉が開いている家が数軒あった。いずれも物盗りの仕業と思われる。
首に紐をぶら下げてさまよう犬がいる。繋がれていたリードを必死で噛み切ったのだろう。人を見ると弱々しく吠えながら近寄ってくる。飢えているのだ。
第一原発の北6~7km、請戸港は見渡す限り一面の瓦礫が広がり、あちこちに漁船が転がる。瓦礫の除去作業はまったく行われていない。地震直後から、時計の針が止まったかのようにすべてがそのまま放置されている---。
見舞金は一人980円
浪江町の海岸近くに家があり、二本松市に避難している女性が言う。
「母が痴呆気味で、津波から逃げる時にバラバラになってしまった。役場の方にもきいたけど、どこにも避難していない。私が、目を離した私が悪かったんです・・・。せめて弔ってあげたいけど、遺体は見つかりません。あれからもう1ヵ月ですから、見つかった遺体は腐乱して鳥につつかれ、遺族にはとても見せられない状態だそうです。もし母がそうなっていたら・・・。考えたくないです」
津波で家族を失った挙げ句、原発のせいで遺体の捜索すら進まない。葬式もあげられない。
これがどれほど、人間の尊厳を踏みにじることか。他人が軽い気持ちで「頑張って」といえない絶望が、福島には広がっている。
人々の怒りの矛先は、もちろん東電と政府にも向かう。浪江町民を代表して、馬場有町長(62歳)が本誌にこう訴えた。浪江町は、東電が原発被害を受けた10自治体に提示した見舞金2000万円を、唯一受け取り拒否した町だ。
「東電の副社長が3月23日に、震災後初めて来ました。私にではなく、町民に謝るのが筋ではないかと申し上げた。そして見舞金については、町に支払うのではなく、町民に支払うべきものだとも申し上げました。人口は2万1000人いるのです。換算すると一人980円。そんな見舞金は、本来あるべき姿と矛盾しているのではないか、と伝えました。
そのお金が賠償金の一部という捉え方を東電がしているのであれば、はなはだ迷惑です。また、そもそも彼らの目線、町民に対する姿勢というものが、想像以上に高い位置にあるのではないかと感じられました」
もちろん大事故を起こしたのだから、表向きは低姿勢だ。しかし、これまでも「安全だ」と周辺住民を騙し続けた東電が、今回も何とかごまかしてやり過ごそうとしていることを、馬場町長は態度で見抜いた。
「事態の重大性に対する捉え方が、我々とは一致していない。一言で言えば、私はそう感じました。これから国も含めた損害賠償の交渉に入る。妥協は許されない。ですから、2000万円という見舞金については留保申し上げました。
町の財政は厳しく、たしかにお金は必要です。しかし、目先にとらわれてはならないと思ったのです。町民の思いを代表して、私は賠償問題に立ち向かっていかなければならない」
馬場氏は返す刀で、菅首相と政府の場当たり的対応を批判する。
「私たちは地震翌日、太陽が昇ったら捜索に出ると決めていた。それが、朝5時40分に、突然の避難指示が出たんです。しかも、私はそれをテレビで知った。国からも県からも、もちろん東電からも、一切何も通告がなかったのです。
避難が事前にわかっていれば、違う策が取れていたかもしれない。もし捜索活動を行えていれば、助けられた命もあったはずなんです。無念です」
ひとつにはなれない
新聞・テレビが報じないことがある。それは、原発被害を受けた自治体の間に存在する温度差だ。
役場ごと会津若松市に移転して自身も避難生活を送る、大熊町の渡辺利綱町長(63歳)が苦渋を語る。
「東電に対して言いたいことですか? 原子力問題については・・・いろいろ事情があるので本音で話をするのは難しい。福島第一原発の1号機ができてから、3月26日で40年を迎えた。紆余曲折がありながらも、町と原発は共生してきた。実際、町民の6~7割が発電所関係で収入を得ています。ただし、安全があって初めて生活がある。何より安全優先で、やってきたはずなのに・・・。町民の東電に対する思いは、発電所関係で収入を得ていた人とそうでない人ではまったく違う。当然、そうでない人には怒りがあるでしょう。
これからは再建復興に向けて頑張るしかない。1万1500人の町民が一日も早く町に戻って復興する。それが望みです。大熊を決して廃墟の町にしてはならない。その強い信念を持ち続けたい」
雇用と補助金を得て、インフラも原発マネーで整備してきた大熊町では、現町長がこの期に及んでも「原発批判」できない複雑な立場に置かれている。しかし、復興ビジョンは何もない。
それは住民とて同じことだ。同町で原発関連企業に勤めていた男性が明かす。
「私が原発で妻子を養っていたのは事実です。だから大声で批判はできないし、本当はこういった取材も受けないほうがいいと思っています。避難所では肩身が狭いですよ。テレビでは連日、東電の悪口が流れている。たしかに悪者なんでしょうが、同調はできません。だから、私も妻も避難所の片隅でじっと黙って暮らしているんです」
同じく原発立地町である双葉町の避難住民は、こう本音を語った。
「地震が起こるまで、東電の社員は俺たち下請けにとって神様だったよ。へへぇ~って感じで。でもこうなったらもう、双葉町には戻りたくないな。仕事もないだろうし。原発に残ってる仲間を思うと辛くもあるけど、女房子どもを泣かせてまでする仕事だったかな、相手だったかな、って思うとさ。100%安全な仕事はないけど、原発事故はレベルが違うでしょ」
三陸の漁村なら、仕方なくその地を去る人もいるだろうが、残った人々の進むべき指針は明確だ。
「もう一度、あの漁港を復活させよう」
福島は違う。もし故郷に戻ったとして、一体どこを目指せばいいのか。これまで通り原発に頼って生きるのか。それ以外の生き方が、はたしてあるのか---。
町長にすらそれが見えない現状で、町民が将来を描けるはずがない。津波は町を大きく傷つけたが、残った人々の希望の灯までは奪い去らなかった。しかし原発は、もはや再び一つになることは不可能なほど、コミュニティーをバラバラに解体してしまった。
さらに、重大な懸念事項がある。半径30kmの同心円に意味があるのか? という疑問だ。
現在福島で独自の調査を行っている、国際環境NGOグリーンピース放射線調査チームの一員・小田光康氏はこう問題を提起する。
「放射線の拡散においてもっとも重要な要素は、実は距離ではない。風向きと地形なんです。たとえば我々は南東からの風の通り道である、浪江町津島の森で線量を計測した。30km圏内のギリギリ外にあたる場所です。測定結果は毎時100マイクロシーベルト。その森に10時間いるだけで、一般人の年間被曝線量限度に達してしまう量でした。
意外と怖いのは、道路脇の茂みです。路面の放射線が風や雨で流れてそこに溜まるんです。路面は2マイクロシーベルトなのに、道路脇は20というケースもありました」
同心円避難に意味はない
IAEA(国際原子力機関)が発表し、日本政府がいまだに危険を認めようとしない「飯舘村の土壌汚染」はまさに、この「風向きと地形」が原因だと考えられる。気象庁のデータによれば、第一原発が激しく放射性物質を出していた3月15日の午後、上空には東南東の風が吹いていた。原発から北西方向に盆地を抜けた飯舘村に、放射性物質が蓄積するのは、むしろ当然のことだった。
菅野典雄村長(64歳)は本誌の取材にこう答えた。
「飯舘村が放射能汚染という名の下に有名になってしまったことは、言葉にならないほどの気持ちです。国も大変だろうから、あえてモノは申しませんが、今はとにかく、原子力の危険をなるべく早く除去してほしい、それだけです。まだ住民に避難はさせておりません。危なくなれば避難しなさい、というだけが策ではないと思うのです」
しかしその後、妊婦と乳幼児を避難させる方針に転換した。放射線量の積算値が高まってきたからだ。
菅野村長のこの対応は責められない。飯舘は原発からも遠く、つい先日までは畜産業の盛んな平和な農村だった。
30km圏内にほとんどの集落が入っていない飯舘村で、菅野村長に「いますぐ全員で村を捨てよう」という判断を下させるのは、あまりに酷なことだ。では誰が判断を下すのかといえば、国しかない。それが村民の健康を守ることになる。
「国と東電は、避難範囲をこれ以上広げたくない。ましてや『距離よりも風』という説も絶対に採用したくない。なぜなら、避難範囲を10km広げることで、補償金額は莫大に跳ね上がるからです」(東電関係者)
命より金。そもそもそれが原発の建設理念だった。そして、国のエネルギー政策を追認してきたメディアや国民も、その責任と無縁ではない。福島の供給する電力で暮らしている東京都民はなおさらだろう。
原発に殺されようとしている福島を、他人事のように眺めることは、誰にもできないはずだ。
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