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大変痛ましい限りだ…
原発は必要だ…という理屈は分からなくもないが、このような事故を起こした後で生じた今回の福島第一原発の事故を、許すことは出来ない。
参勤交代制ではないが、浜岡をはじめ、今稼動している原発の隣に居住区域を作り、保安院の役人(キャリア・ノンキャリいずれも)と原子力安全委員会のメンバーの家族、ならびに、原発を運営している当該電力会社役員の家族を強制的に住まわせることを最低限担保せよ。
それが出来ない限りは許してはいけない!
個々に責任のある人達は「基本的人権」と言うかも知れないが、今回の国難の大きさを鑑みよ。
既に居住地もわれている。このままだと、家族が国民の代表と勘違いする輩が大切な家族の周りでうろつくかもしれないぞw
そういう輩が出ていることをマスコミが書けば書くほど、そういうヤツラは出てくるぞw
何故か?多くの国民は押さえてはいるが、やはり心の中は怒っているからだ!
警護も付いて、スーパーとかの買出しの送迎も付くんだから、原発の隣に住んでみないか?w
浜岡も安全だと言うなら、言った人間は家族を供せよ!
政府が金を出さなくても、もし、この仕組みが可能になるのであれば、今回の義援金程度は、国民が寄付で捻出してやる!
それが出来ないなら、さっさと原発とりやめな!
何故なら、安全であることの担保が取れないからな!w
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東海村臨界事故の“被曝者” 毎晩かゆみと痛みで眠れず
2011.04.08 16:00
東日本大震災による福島第一原発の放射能漏れ事故を前に日本中が紛糾をしている。汚染された水、野菜、日々の政府発表におののく毎日だ。12年前の“被曝者”大泉昭一さん(享年82)はその人災を「魔の出来ごと」(『JCO臨界事故から10年を迎えて〜語り継ぐ思い〜』より)と書き遺していた。
茨城県東海村JCO臨界事故は、1999年9月30日、ウラン溶液の加工中に臨界となり、作業員2人が死亡、住民約600人が被曝した惨劇だった。当時、昭一さんと妻・恵子さん(71)は現場から80mの町工場で被曝した。
「被曝後、もともと弱かった主人の皮膚は全身がひび割れたようにしわが走るようになりました。医師は明確な病名をいいませんでしたが、毎晩、かゆみと痛みで眠れずにいました。それに爪と皮膚の境目がくっついて、痛くて動かせないの。指先が痛くてワイシャツのボタンも自分で留められなくて…。毎日、病院の皮膚科でもらった治療薬を私が主人の顔から全身に塗るんです。そうしなければ皮膚がぼろぼろとむけてしまって…」
そう話す恵子さんも、口内炎とひどい下痢に悩まされ、PTSD(心的外傷後 ストレス障害)となって2度、自殺未遂をはかった。
そして今年2月7日、昭一さんは亡くなった。生前は放射能の恐ろしさを伝える活動を続けていた昭一さん。
「最後まで“『臨界事故を語り継ぐ会』をやってくれるか”と口癖のようにいうので“大丈夫よ。私が続けていくから安心して”と伝えるたび、主人は笑顔を浮かべていました」
福島原発については避難区域の人のことを考えると、ニュースなどはとても見られないという。「地震多発国である日本には原発はいらないと思います」。恵子さんは、固く口を結んだ。
「四十九日が過ぎたいまでも遺骨は自宅に置いています。今回の地震でお寺が被害に遭ったため納骨できないんです。早く主人をゆっくりと眠らせてあげたいと思っているのですが」と、恵子さんは昭一さんの遺影を見つめた。
※女性セブン2011年4月21日号
http://www.news-postseven.com/archives/20110408_16988.html
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