http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/753.html
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現在、福島第1原発においては、不安定な状況が継続し、国民に対して「未曾有」の不安を与え続けている。
今回の悲惨な事態に関し様々な方面に向けた批判が行われるべきであるが、利益追求を第一とし、安全性を軽視する傾向については、歴代政府によって推進された新自由主義政策によってより一層強化されてきたということができる。私は、この動きは、いわゆる「国鉄民営化」の動きにまで遡ると考えている。あのとき、一部の国鉄職員の些細な非違をマスコミ総動員で叩き続けた状況をまだ記憶している。
http://www.kepco.co.jp/ir/private/info04.html (関西電力HPより)
元来、原子力発電というものが、利潤最大化行動と両立するかどうかについて、全国民的な真摯な議論が必要であるにもかかわらず、結局のところ、そういった作業は、建設予定地の地元住民と「原発反対派」と呼ばれる人々にすべてを押し付けて来た我々にも責任が全くないとはいえないのは明らかである。
ただし、このことは、繰り返し、このサイトにおいて数多くの投稿・コメントによって明らかであるように、テレビを代表とするメディアによって「クリーンでエコな原子力発電」というイメージが戦略的・積極的に伝播されていたというのは事実であり、かつ、それは現在も強力に進行中である。よって、原発反対運動というものは、従前より、細々と続けられてきたわけであり、そういった弱々しい印象をもって、「訳の分からぬ連中」と表現する政治家がいることは周知のとおりである。
原発建設に反対した農家の畑にガラスの破片が撒き散らされたという事実があった。(このことは、広瀬隆氏の著作に記載されており、現状において広瀬氏の言動を疑う状況証拠は全くない。)
また、これは私が直接聞いた話であるが、ある高層マンション建設に際し、日照権の問題(日光がないと農作業は不可能であるため)から異議を唱えた農家の家の表札が「真っ黒」に塗られたという事実があった。
つまり、彼ら(と、ひとまとめにしていいかは若干の躊躇があるが)は、「表向き」は、マスコミを使い我々に安全でクリーンな印象を与え、「裏では」直接的な暴力によって住民を抑圧してきたという経緯がある。この2面性というものが今回我々の直面している事態を引き起こした人間たちの特質といえまいか。
こういった中で、私が今回の事態について、最もその責任を追及すべきと考えてしまうのは、「利益追求社会」という前提にあって、本来「安全装置」として機能すべきであった原子力安全委員会委員などを代表とする「知識人」たちの責務である。ここで、脳裏に浮かんでくるのが「産学連携」という言葉である。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/sangaku/sangakua.htm
このことについて、最近読んだ著作「大人のための数学・物理再入門」(吉田武著 幻冬社 2004年)において語られていることが、今回の事態と密接な関係があると思われるので以下抜粋を行う。若干長文であるがご了承いただきたい。
(以下抜粋)
p218 タイトル「大学の使命は何処へ消えた?」
・・・本来、大学は学問を修めるところである。この大前提を崩してしまっては、如何なる議論も意味を為さない。もちろん、実学を講じても一向に構わない。時代の要請とやらに答えることも結構だ。学生の就職の心配をすることも、そこから逆算して授業内容が工夫されることもあっていいだろう。しかし、大学の本質は学問、いわゆる“虚学”にこそある。役に立たない学問、何のための存在か、それさえ容易に分からぬ“難解な学問”を講じ、あるいはそれを研究・教育する奇特な人々が、多くの雑事を離れて一点そのことだけに没頭し得る環境を与える、それが本来の役目なのである。
今日の日の役には立たずとも、三十年後、五十年後には、如何なる応用が生み出されるかも知れない。いや何時まで経っても、少しも役に立たないかもしれない、それでも構わないのである。このことは逆を考えれば、容易に納得できる。今日の日に役立つことは、明日にはどうなるのであろうか。何しろ現代は“不確実な時代”なのである。「ところで先生、これは何の役に立ちますか」、定番の質問は決して滅びない。誰がノーベル賞を取ろうとも、如何なる業績で評価されようとも、マスコミ人はお構いなしである。彼らの興味は実利しかないのであろうか。刹那狂い、浅はかにも程がある。
大学は断じて、職業訓練校のようになってはならないのである。・・・大学は大学として生きてこそ意味がある。産学連携も重要である。「費用対効果」の概念を注入する必要もあろう。しかし、「役に立つこと」、すなわち何らかの意味で「利益が上がること」、それを一大目標にしてカリキュラムいじりを繰り返せば、大学はその生命線を断ち切られてしまう。こうしたことを考え、学問の神髄を継承し、遠い将来を見据えて今の苦境に耐える、ということは年配者の義務である。それを意図的にサボり、まるで集団脱走のように徒党を組んで、青年たちのご機嫌取りに狂奔しているのが、我が国の指導者層の実態である。
・・・我が国物理学会の悲願であった「実験物理の大業績」に、ようやくノーベル賞が与えられたことを悪用して、「今後ノーベル賞を多く取るために、実験をより優先させる」などという珍妙至極な発想が、役人だけに留まらず、何と同業者の中からも湧き出してくる始末である。あたかもノーベル賞のために学問が存在するかのような口ぶりである。本末転倒も甚だしい。
以上は全て世俗に阿った結果である。学部・学科の改名・改組の必要性も、その理念も一向に表明されない。あるのは、風潮に流されて、掛け声だけは物凄い宣伝文と、遊園地化したキャンパスだけである。この種の小手先の変更は、短期的には成功しても、長期的には必ず失敗する。これは経済界ではよく知られた経験則ではないのか。学生を侮辱するにも程がある。
・・・経済優先、効率優先、時流迎合、全てはこうした悪しき風潮を、学問の府に持ち込み、いやむしろ積極的に、誇らしげにそれを導入し、そのことによって「我、大学を改革せり」と宣っておられる現在の指導者層に責任がある。そうでなければ、大学の使命は誰が消したのか、一体何処へ消えたのか。
今一度繰り返す、大学は世俗の雑音から離れて、学問そのものに命を懸ける、そうした人物を育て、麗しき師弟関係を築き、もって百年の計とすること、このこと以外に存在の意義はない。これが“改革”を唱導しておられる方々の、大好きな大好きな「生き残り」の方法、その唯一のものである。
(以上抜粋終わり)
上記に見られる「大学の改革」の先兵として活躍された方々がおそらくは「御用学者」と呼ばれる一群と幾分かは重複するであろうと推測をするのは私だけであろうか。
このように考えてくると現在進められている「事業仕分け」というものについても、単なる現政権の「お手柄」という評価だけでよいのかは十分な検討が必要と思われる。
なお、私は、物理学・数学については全くの門外漢であるが、上記著作の中で特に印象深かった「数学入門」の部分についてまことに蛇足ながら以下に紹介する。
(以下抜粋)
p106 「忽然と現れる円周率 全数学最大の謎・ゼータの世界」
自然数の列が無限に続いていくことは、誰もが容易に認めるだろう。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、・・・・
これらを順に足していけば、その総和は、明らかに有限に留まらない。
1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+・・・・
それでは、次の和はどうだろうか。自然数の逆数を順に足していくのである。
I=1+ 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 ・・・・・
・・・I→∞ が結論される。・・・確かに“何処までも行ける”のである。
さてさて、自然数の逆数の和が処理できた後は、その分母を二乗してみたくなるのが、数学に関わる者の“人情”である。
S=1+ 1/2^2 + 1/3^2 + 1/4^2 + 1/5^2 + ・・・・・
この総和を求めるには、どのような計算が必要であろうか。天才オイラーは一つ、また一つと項を足し合わせ、具体的な近似値を求めて、そこから何らかのヒントを掴もうと努力した。そして遂に、その不屈の計算力は、魔法のようなこの式の本性を露わにさせた。
S = π^2 / 6 これがその値である。
(これを定義する式を「ゼータ関数」と呼ぶ 投稿者注)
自然数の二乗を逆にして、それを足し合わせただけなのに、一体何故にこの式から、円周率πが導かれるのか。如何に計算を繰り返し、その細部に納得したとしても、このこの不思議さだけは消え失せない。・・・
空前の大数学者リーマンは、オイラーにより定義された“ゼータの世界”を複素数まで広げ、ここに示す壮大な予想を提出した。これは“全数学最大の未解決問題”として、新たなる挑戦者を待っている。・・・
(以上抜粋終わり)
「本来の学者」と「御用学者」の相違点は、突き詰めれば「何かを愛する者」と「愛されること(名利)を望む者」ではないかというそういう気がしてならない。
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