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震災があってからあまりよく眠れていない。
もちろん仕事(震災対応)のこともあるし、東北の津波に飲み込まれた町の惨状を考えるといたたまれないというのもある。だが、一番の不安は原発事故のことだろう。
この頃、朝、3時や4時に目が覚めて、そのまま考えごとをして眠れなくなってしまう。だが、これでは仕事中の集中力を欠いてしまうので、今は、具体的な対処法として、できるだけ23時より前に眠ることで、睡眠時間を確保するようにしている。
原発事故の問題、それに伴う放射能汚染とは、この先、何年にもわたって付き合っていかなければいけないから、自分自身が精神的に乗り越えなければいけない。それは分かっている。
分かってはいるが、これが難しい。
冷静に考えて、いろんな角度から考えて、今、自分は神経質になってるだけなのではないかと、何度も気持ちを落ち着かせようと試みた。
だが、毎日、目にするニュースは、今日はプルトニウム、明日は40キロ離れた飯館村の放射能汚染、明後日は海洋汚染の結果、魚も汚染された。。という具合に、次から次へと、悪夢のように、悪いニュースが入ってくる。
ネットの中にも玉石混交、いろんな情報がある。もちろん安全地帯から、溜飲を下げるかのごとく「煽ること」が目的化している一部の反原発派の煽りは論外だとしても、政府や東電の情報も隠ぺいしがちだから、ネットで本当のところを調べる作業をやめるわけにはいかない。
自分がどうこうというよりも、家族を守ることを考えると、情報をとることをやめてはいけないと思うのだ。
しかし、その結果、原発事故の実態や、放射能汚染の不安を深く知り、なかなか眠れなくなるとあう悪循環に陥っている。
しかし、ここまで不安になる根本的な原因としては、政府への不信感があるのだと思う。そもそも、政府は今回の原発事故への対応にあたり、「人名を守る」ことを最優先には考えていない。為政者としての、彼らなりの論理があるようで、社会的な混乱を避けたいとか、政府対応についての批判を免れたいとか、賠償責任を少なく済ませたいとかの思惑があるようで、それが一連の対応にかたちとなって出てしまっている。
退避指示を20キロ圏内と過小に狭くしたり、ドイツやノルウェーなどが発表してきた放射能汚染の飛散予測を日本の気象庁もシミュレーションしていたのにも関わらずそれを発表しなかったり(させなかったり)、「ただちに人体に影響はない」と言いながらごまかして、放射能の許容基準値を上げようとしたり。
結果的に、海外から批判され、ネットでも情報がまわり、政府も後手後手で、こうした対応も見直しに追い込まれている。だが本来であれば、政府が率先して、国民の人名を最優先するという立場を貫き、先んじて決定しなければいけないことが数多くある。
今の政府のスタンスを見ていると、結局、本当のことなんて言わないんじゃないか、という不信感があるから、どうも信用できない。
魚や農産物の汚染についても、事故米の件を思い出しても、結局はずさんな管理のもと、裏流通で産地偽装されて出回るだろう。そして中間業者が理不尽な価格で、生産者から買い叩いて、偽装して、市場にも流すのだろう。
そのあたりも容易に予想できるが、政府に対する信頼がないからこそ、どうせ政府も野放しだろうと、余計に疑心暗鬼になることは、実に不幸なことである。
まあ、、、原発事故のことでは、私もいろんなことを考えるが、結局のところ、政府や官僚、業者の体質が変わることを期待するのも虚しいし、そんなのを待っている余裕はないので、やはり、自分たちの身は自分たちで守るしかないという結論に、ぐるぐる考えた結果、行きつくのだ。
自分も「平和ボケ」していたのだな、と最近痛感するのだが、ここにきて思うのは、両親ではなく、太平洋戦争や関東大震災を生き抜いた祖父母の体験談のことである。
関東大震災を経験した母方の祖父は、震災後は、警察が機能しない中で、火事場泥棒などの犯罪が横行したから、コミュニティで自警団をつくって守るしかなかったという話をしていた(朝鮮人デマの件ではない)。被害は地震そのものというよりも、お昼時なので、火災によって、東京が燃えたと話していた。
東京が壊滅したが、そこから大きな道路ができて、より立派になった帝都•東京の話をしてたっけ。
状況は落ちついたとはいえ、原発の爆発が懸念された三月半ばには、満州国から日本へ逃げてきた祖父の体験談のことをずっと考えていた。
祖父は満州国で警察をしていたから、ソ連の侵攻という混乱の中で、もちろん日本人の避難を確認したうえで、仕事の使命を全うし、家族とともに最後に逃げてきたわけだが、その逃げるうえでの、さまざまな祖父の体験談を私は思い出し、ずいぶんと勇気づけられた。
また、放射能とどう向き合うかで考えたのは、やはり祖父母の世代のことだ。日中戦争から太平洋戦争へと、長期化する戦争において、どのようにして人は心の平静を保つことができたのか。
何年にもわたる戦争にあっては、明るく生きるというのは難しいもの。
祖父母が生きているうちに、もっとそこを聞いておくべきだったと後悔している。
今、私たちはいよいよ大変な時代に生きて、それでもこの時代を生き抜き、新しい日本を復興させていかねばならない。
私自身、それでも、小さな子どものことを考えると、仕事を辞めて、実家のある大阪に戻るべきではないか、という家庭人としての葛藤もある。
一方で、東北•北関東の被災者のことを考えたり、また日本を愛する気持ちとしては、こういう大変な状況だからこそ、自分は東京に残り、経済をまわして、復興させていかなければいけない、という覚悟もある。
家庭人としての自分。仕事人(社会人)としての自分。その矛盾する覚悟が代わる代わる心の中に浮かび、自分がとるべき正しい判断はなんだろうか、と、悩む。
おそらく、それは私だけでなく、東京で働く多くの人が考えていることだろう。
いずれにしても、現時点では、放射能汚染も、長期化はしながらも、チェルノブイリほどの深刻さにはなっていないので、まだ、東京でも家族を守れると判断をしている。
不安な日々はまだ続くが、頑張るしかないな。
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