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(写真)嶋橋さんが作業していた浜岡原発2号機の原子炉直下。しゃがみこんで作業しなければならない狭さだ(3月8日、静岡県浜岡町)
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被爆と人間 第3部 ある原発作業員の死(中国新聞)
〔1〕白血病
闘病2年 力尽きる
■線量 法定の5分の1
相模湾を望む神奈川県横須賀市の郊外。嶋橋さんの遺影が見つめる居間で、母美智子さん(62)は、息子の死亡診断書をそっと机に広げた。死因の欄には「慢性骨髄性白血病」。初診時の白血球数は、正常値の数倍の「二〜三万」、嶋橋さんには、別の病名を告げたとも記されていた。
美智子さんが長男の病名を知らされたのは、一九八九年十一月。当時暮らしていた浜岡町の町立浜岡総合病院で検査を受けた後、紹介された浜松医科大医学部付属病院(静岡県浜松市)でだった。
「白血病と言われてもピンとこなかった。血液のがん、あと数年の命かも、と聞かされて、頭の中が真っ白になった。まだ若いのに、そんなばかなって。病院からどうやって家にたどり着いたのか覚えていない」
嶋橋さんは八一年春、横須賀市内の工業高校を卒業後、横浜市の建設会社(現在は本社東京)に就職した。中部電力(名古屋市)の原発や火力発電所の保守、点検を請け負う孫請け会社。入社後すぐに浜岡原発へ派遣され、原子炉の計測機器の交換などの仕事に就いた。
告知を受けた時、両親は長年住み慣れた横須賀市から浜岡町へ引っ越したばかりだった。新居の二階から、コンクリートで覆われた原子炉建屋が見えた。ゆくゆくは孫の世話をする夢を抱いていた。
浜岡総合病院で嶋橋さんを初診した小野七生医師(50)は現在、静岡県袋井市で医院を開業している。
「お母さんから、後に原発での被ばくとの関係を尋ねられたが、分からないと答えた。私が覚えている限り、彼と同様、原発作業員が血液の病気になったケースは数例あったが、低線量被ばくと白血病の因果関係を解明することは不可能に近いから」
嶋橋さんは、一年間の通院を経て入院する。白血球数は六万を超えていた。その半年後には、八十キロあった体重は五十キロ台に落ちた。
壮絶な闘病生活を振り返る時、美智子さんの目はみるみる赤くなる。
「体中が痛かったんでしょう。ベッドに触れると振動が響いて痛いと怒ってね。歯ぐきからの出血が止まらず、ふいてもふいてもあふれてくる。血がにじんだタオルを入れたごみ袋がいくつもできた」
「私に甘えず、世話を焼くと怒っていた伸之が、亡くなる数時間前、ぎゅっと私の手を握ったんです。そして私の顔のマスクを一生懸命ずらそうとする。無菌室だからと元に戻しても、マスクをずらすのをやめなかった。最期に私の顔が見たかったんでしょうか」
九一年十一月二十日午前四時五十五分、嶋橋さんの白血病との闘いは終わった。発症から二年一カ月。浜岡原発で約九年働き、二十九歳一カ月の人生だった。その間の被ばく線量は、五〇・六三ミリシーベルト。年間では最多の年でも九・八ミリシーベルトで、法令で定める年間被ばく線量限度の五〇ミリシーベルトを大きく下回っていた。
両親は一人息子を失った後、その死が問い掛けた答えを探し求める。「なぜ白血病で死んだのか」―。自宅の窓越しに原発を見つめながら、被ばくと白血病に因果関係があるとの思いを強めていった。
〔2〕原子炉の下で
身かがめ点検 調整
■ノートに克明な記録
「伸之が原発の中でどんな仕事をしていたのか。離れて暮らしていたし、無口な子なので、私は何も聞いていなかった。遺品のノートは、暗号のようなアルファベットや数字が並び、さっぱり分からないし…」
白血病のため二十九歳で亡くなった嶋橋伸之さんの母美智子さん(62)=神奈川県横須賀市=の手元に、表紙が黄ばんだ三冊のノートがある。嶋橋さんが生前、中部電力浜岡原子力発電所(静岡県浜岡町)で作業していた際に書き留めていた。二冊は研修ノート、残る一冊は一九八八〜九〇年の間の業務日誌。研修ノートには、配線図や作業工程などが書かれていた。
美智子さんは嶋橋さんの死後、会社の同僚や友人に息子のことを尋ねて回った。納得のいく答えは見つからなかった。息子を失って約八カ月が過ぎた九二年夏、そのノートを読み解いてくれる人を探し当てた。被ばく労働問題に詳しい慶応義塾大の藤田祐幸助教授(物理学)である。
藤田助教授は、初めてノートを見た時の驚きを回想する。
「あれほど詳細な記録は見たことがなかったから、言葉も出なかった。研修ノートには作業内容や装置の説明、用語集もあり、業務日誌にはいつ、どこで、どんな仕事をしていたか克明に書かれていた」
「それらの資料を突き合わせ、半年ほど分析に費やした。すると、何日もかけて装置の微調整を繰り返すなど、現場の状況がありありと浮かんできた」
嶋橋さんは、原子炉内の中性子の密度を監視する計測装置の保守、点検をする「核計装」が専門だった。原子炉の運転状況を把握するために重要な装置で、浜岡原発の場合は炉の下から装置を挿入している。炉の定期検査時、嶋橋さんはその下にもぐり、装置を取り外して調べる仕事だった。
作業現場は実際、どんな場所なのか。静岡県央部の南端、遠州灘に面した浜岡原発は、約百六十ヘクタールの敷地に現在、四基の原子炉が稼動している。同原発放射線安全課の岩木清高課長が、2号機の定期検査中の現場を案内してくれた。
「原子炉の真下は、制御棒を動かす装置の配管などもぶら下がっている。直径四、五メートル、高さ一・五メートルほど。狭い場所なので、実物大の模型を使った訓練もしてもらっている。線量は比較的高いが、計画被ばく線量を決めて作業に入り、無駄な被ばくはしていない。もちろん、嶋橋さんもそうしていたはずです」
原子炉格納容器の中は、なま温かい空気が流れ、溶接の火花があちこちで上がっていた。嶋橋さんの作業場所は格納容器の中心部分。原子炉直下への入り口は一メートル四方と狭く、放射能汚染を防ぐ黄色い防護服を着込んだ数人が、身をかがめて出入りしていた。
嶋橋さんが、被ばく作業を行っていた八年十カ月。美智子さんにとって空白だった時間は、三冊のノートをきっかけに少しずつ埋まり始めた。
「原発は、コントロール室からコンピューターですべて制御している印象を私自身も持っていた。でも実際は、事故を起こさないために最も大切な整備や検査は、伸之のような下請け作業員の手に頼らなければ原発は動かせない。自分の責任を果たすため、誇りを持って働いている人が、被ばくし続けている」
嶋橋さんは入社して数年後、技術主任になり、率先して原子炉の下へ入って行った。放射線量の高い区域で経験を積むに従って被ばく線量は増えていった。
〔3〕手帳は語る
線量 定検時に上昇
■通院中も「従事可能」
中部電力浜岡原子力発電所(静岡県浜岡町)で作業していた嶋橋伸之さん=当時(29)=が白血病で亡くなり半年たった一九九二年春。勤務先の会社にあった遺品が、両親に届けられた。机の引き出しにあった給料袋やくしなどに交じり、放射線管理(放管)手帳二冊があった。
原子力施設での作業員の被曝(ばく)線量は、放射線従事者中央登録センター(東京都千代田区)が一元的に管理し、記録は放管手帳に記載される。手帳は、被ばくの前歴とともに健康診断、放射線防護の安全教育歴も記される。
嶋橋さんの手帳は、中部電力の発電所で「保修業務」などの元請け会社・中部プラントサービス(名古屋市)が発行、その下請けだった嶋橋さんの会社で保管されていた。
両親が知りたかった息子の被ばく線量は、すべて放管手帳にあった。嶋橋さんの死後、何度も手帳を返してくれるよう掛け合った。やっとの思いで手に入れた手帳は、至るところに赤い訂正印が押されていた。多くは被ばく線量数値の訂正で、嶋橋さんの死の翌日に行われた部分もあった。
母美智子さん(62)は、手帳を初めてめくった時の悔しさが忘れられない、という。
「通院中だったのに健康診断の結果、作業従事可とされていたり、入院中にもかかわらず職場の安全教育を受けたことになっていたり…。健康診断もそう。白血病と診断される一年半前、白血球数が一万三千八百と、異常に高い記録があった。それでも判定は『異常なし』だった」
手帳を発行した中部プラントサービスの伊藤昭彦原子力部担当部長は「訂正はやむを得ない部分があった」と、当時のいきさつを説明する。
「健康診断で作業従事可としたのは、本人に病名を悟らせないための配慮、と聞いている。線量の訂正は、手で書き込むために起きた誤記や単純ミス。今は機械で打ち込むためそういうミスはない。ご両親へ手帳の返却が遅れたのは、正確な線量を確認していたためだろう」
美智子さんに手帳を見せてもらった慶応大の藤田祐幸助教授は、被ばく歴と浜岡原発の運転状況を比べてみた。放管手帳には、月ごとに被ばく線量が記されている。高い数値の月と、危険度が増すとされる原子炉の定期検査時期が、ぴたりと重なっていた。
「原子炉を止め、数カ月がかりで定期検査をするが、その間だけ線量が跳ね上がっている。年間被ばく線量は、入社五年目から五ミリシーベルトを超えて増加し、八七年度の年間九・八ミリシーベルトがピークだった。手帳は、彼が技術者として熟練していった過程と、被ばく業務に携わっていたことを裏付けた」
「法令で定められた放射線作業従事者の年間被ばく限度五〇ミリシーベルトと比べれば、嶋橋さんの被ばく線量はかなり低い。だが、彼が被ばくを積み重ね、力尽きたのは事実だ」
手帳に張ってある高校卒業直後の息子の顔写真をなでながら、美智子さんはつぶやいた。
「この手帳は、本当に伸之の役に立っていたのか。体に危険かもしれない放射線の数値がいくつも間違っていた。自分の被ばく量を知っていたんでしょうか。私には、企業が労働者の被ばくを管理するためだけの手帳のように思えるんです」
〔4〕2つの基準
法定線量以下で労災
■会社は因果関係否定
中部電力浜岡原子力発電所(静岡県浜岡町)で作業していた嶋橋伸之さん=当時(29)=が慢性骨髄性白血病で亡くなって間もない一九九一年末。両親は会社側と一通の覚書を結んだ。「労災補償」に見合う金額として弔慰金三千万円を支払うことで、嶋橋さんの死に関して異議を述べず、一切の請求はしない、というものだった。
ところが、両親は九三年五月、息子の死は原発内での作業中に被曝(ばく)したためだ―として、磐田労働基準監督署(同県磐田市)に労災認定を申請した。嶋橋さんの母美智子さん(62)は、語気を強める。
「労災を申請しないよう会社に説得された。お金は受け取りましたが、放射線管理手帳はなかなか返ってこないし、しかも手帳は訂正だらけ。あの子に落ち度があったのか、それとも病気は仕事のせいだったのかはっきりさせたくて…」
申請には、書類のほかに放射線管理手帳と作業内容などが書かれた遺品のノートも添えて提出した。
申請を支援した海渡雄一弁護士は言う。「八年十カ月の作業、計五〇・六三ミリシーベルトの被ばく線量は労災の認定基準を満たし、認められる自信はあった」。海渡弁護士は各地の原発関係の訴訟にかかわっている。
放射線被ばく者に対する白血病の労災認定基準は、七六年に労働基準局長通達として出された。@相当量の被ばくA被ばく開始後少なくとも一年を超える期間を経ての発病B骨髄性白血病またはリンパ性白血病であること―の三要件を定めている。相当量の被ばくは「五ミリシーベルト×従事年数」と解説で明記している。
嶋橋さんの場合、被ばくの相当量は約四四ミリシーベルトとなり、約六ミリシーベルト上回っていた。
九四年七月末、磐田労基署は申請を認め、原発での被ばくと病気に因果関係があるとみられる、と判断した。
だが、中部電力は記者会見などで認定に対し「法定の年間被ばく限度五〇ミリシーベルト以下で、認定は、被ばくと病気に直接的な因果関係があることを意味していない」との見解を繰り返す。
年間五ミリシーベルトと五〇ミリシーベルト。労災と法定の二つの基準は、なぜこうも大きく違うのか。磐田労基署の仲野寛署長は双方の数字の性格を説明する。
「法定限度以下なら絶対発病しないとは言えない。労災は、基準を上回る被ばくをして発症したとき、業務と病気に因果関係があるとみなそう、というのが趣旨だ。法定の五〇ミリシーベルトが予防基準であれば、労災認定は救済の目安ということになる」
嶋橋さんの労災が認定されたニュースは、原発の町・浜岡町でも駆け巡った。
浜岡総合病院で嶋橋さんを最初に診断した小野七生医師(50)は、成り行きを冷静に見守っていた。「白血病の労災認定は、社会や経済情勢などのさまざまな事情や、その時代の空気によって決まったものだと思いますから」
両親は三年半前、浜岡町の家を手放し、神奈川県横須賀市に戻った。原発を見たくなかったからだ。認定を得た今でも、美智子さんは割り切れない思いを抱いている。
「労災と認定されたのに、どうして電力会社は病気と仕事は関係ない、と言い切るのでしょうか。あの子のような仕事で病気になった人たちのために、労働状態を改善することが大切なのに」
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* 被曝量がよくわからない。「五〇・六三ミリシーベルト」なのか、「四四ミリシーベルト」なのか。しかし、どちらにしても「100ミリシーベルト」の半分程度で白血病になっていることは同じ。
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