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(回答先: 財界のドン、カツマタ君が登場---(ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報) 投稿者 梵天 日時 2011 年 3 月 31 日 16:41:09)
「勝俣恒久」
東京都出身。勝俣久作の四男。東京都立新宿高等学校、東京大学経済学部卒業。1963年、東京電力入社
1996年6月、取締役企画部長に就任。1998年6月、常務取締役に就任。1999年6月、取締役副社長に就任。2002年10月、原発データ改竄事件で引責辞任した南直哉の後任として東京電力社長に就任する。
「カミソリ勝俣」の異名をとった社長在職時は、先代に引き続き多くの不祥事を露呈した。周囲には「そろそろ疲れてきた」と漏らすものの、他電力への影響を恐れ、辞めるに辞められない時期を過ごした。2008年2月、柏崎刈羽原子力発電所のトラブルの責任を取り引責辞任。代表権は保持したまま、東京電力代表取締役会長に就任する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BF%A3%E6%81%92%E4%B9%85
⇒「勝俣久作」
(1901年 - 1968年)昭和期の教育者。
神奈川県箱根出身で農家の次男。勉強好きで寺の住職に面倒を見てもらいながら高等小学校に通う。卒業後は代用教員をしながら猛勉強し上京、教員資格を取り旧制麻布中学校の国語教師を務める。教え子には吉行淳之介などがいる。
戦後突然学校をやめ事業を始めるもことごとく失敗。会社勤めも上司とうまくいかず生活は苦しかったが、帰宅すると仕事とは関係ない勉強をし、飲んで帰っても早朝に勉強していた。その後代々木ゼミナール創設者の一人として副校長兼古文教師となる。
「祖先は山梨の山賊上がり」と冗談をよくこぼしていた。祖先は武田信玄を抱えた「武田軍団」の一人で、軍団の崩壊で勝俣一族は神奈川県の仙石原に逃げ込み、籠付きで生活していたが「食えないから追いはぎもよくやった」というのが酒宴の笑い話。
1927年(昭和2年)、故郷の歴史を綴った「箱根仙石原村史略」をまとめた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BF%A3%E4%B9%85%E4%BD%9C
⇒「仙石原村」
1626年(寛永3年) - 箱根裏街道監視のため、関所が設置された。これにより、周辺の山々は御要害山として立ち入り禁止になり、薪・カヤの伐採も禁止された。
1872年(明治5年) - 江川英武【韮山代官、江川太郎左衛門:みやした註】が、村民共有地を300円で買い上げ県有地とする。
甲斐国から人を入れて開墾するも、成功せず。
1880年(明治13年) - 渋沢栄一と益田孝へ県有地の原野750町を払い下げる。渋沢と益田は、牧場「耕牧舎」を経営し、従弟の須永伝蔵を責任者として開拓に着手する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、仙石原村が成立。大字は編成せず。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%9D%91
※ この地域で連想されるものというと「報徳」です
⇒「報徳」
報徳思想(ほうとくしそう)は、二宮尊徳が説き広めた道徳思想であり、経済思想・経済学説のひとつ。
報徳の教えの真髄とは、これらの至誠・勤労・分度・推譲の実践のなかでいかに徳が徳によって報われていくかということを見極めることにある。この実践のなかで初めて理解できる言語化できないものこそに報徳の教えの真髄があり、尊徳が「見えぬ経をよむ」という言葉で示しているのはまさにこのことをさす。また尊徳が、たんに本を読むだけで実践につながらない態度を諌めて「たんなる本読み」になってはいけないと語ったのも同様の事情によるものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E5%BE%B3%E6%80%9D%E6%83%B3
※ 報徳というと、窮乏した地域の再建にあたる「報徳仕法」など。
それとか実業界に与えた影響、たとえば 豊田佐吉と報徳
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/5065
(二宮尊徳=金次郎の)各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3
※ この本は四書五経のひとつ 『大学』とされる。
⇒「大学」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6_%28%E6%9B%B8%E7%89%A9%29
※ 『大学』の中枢にある「格物致知」は「博文約礼」と同義か。
明代の王陽明は『孟子』尽心篇をひいて「致良知」と読み替え。
人の学ばずして よくするところのものはそれ良能なり。
おもんばからずして知るところのものはそれ良知なり。 (孟子)
これを「知良致」とあえて書いたのは中江藤樹。
・・・延々と脱線して「人物か否か」考えてみたのでした。
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