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原発の危険性を警鐘してきた人たちが、今回の事故に対して発せられた意見が、やや、タイムラグを経て、実際の復旧活動に反映されているように思われる。
広瀬氏は、最初から電源の問題だったと指摘していた。電源回復に全力を挙げていれば原子炉爆発回避の可能性もあったように思われる。
事態を本当に理解している人々が遠ざけられ、何もわかってない連中が、責任ある立場に立っているように思われる。
わが国において歴史的に繰り返し見られる、この倒錯したこの状態について考えなければならない。
この状態の根源はなんであろうか。
私利私欲(公共の福祉を逸脱)にまみれた利権というものがまずあり、
それに対して、自己の中に見識・判断基準を有しない者(ある意味では、官僚というものはその代表)が、無批判的に付和雷同、あるいは恫喝されることによって迎合することによって事態の深刻さが助長される。
本来、学者は見識の塊であるはずだが、利権に目がくらみ、地位と豊かな給与生活のために、「官僚化」する。
なぜ日本人は付和雷同しやすいのか。
宴会などで、上席のものなどに、酒をついで回る。
相手の欲求(酒を飲みたい、つまみが食べたい・・・)を察知して先回りして注文するのがよいとされる。それを怠ると、「おい幹事、気が利かないぞ」の世界が現実に我々の目の前に「日常的に」ある。
こういった日本人に濃厚に存在する、鋭敏すぎる「他者への気遣い」が、今は悪い方向に作用して、自分で判断して危険を回避しようとすることすら「気遣って」実行しないようにさせる雰囲気が我々を現在取り巻いている。(政府広報、マスコミなどは積極的にそれを拡散させている)他者と違うことをしたくない。すると仲間はずれにされる。仲間はずれにされると生きていけない。
ここで、私は以前、知人から聞いたある「出来事」について思い出した。
それは、おそらく昭和40年代の近畿地方でのある農村での出来事であると思われるが、知人が、まだ子供の頃、村の寄合場所のようなところで、複数の村民らによって、一人の男が集団暴行を受けているのを目撃したという。知人はなぜ暴行がおこなわれているのかと、隣にいた父親に尋ねたところ、水田に対して水を供給するにあたっては、村全体で協調的におこなわれなければならないが、(自分は農耕技術に疎いが、おそらくは堰を止めたり切ったりするタイミングを協調させることと思う)その男は、自分の水田のためだけに、ある行動をとったことによって、村全体の利益を損なったというのである。
水田というものを運営していくうえでは、狩猟・牧畜などの経営と比較して、「個人的な創意」「瞬間的な判断」を求められることは相対的に少なく、むしろ、「他者との協調性(個人的な才気をむしろ抑圧する場合すらある)」「地道で持続的な努力(草むしりなどを営々と続けるようなイメージ)」が賞賛されることになる。
私にはこういったところに、いい意味でも悪い意味でも日本人の原点があるように思われる。
つまり、本来、農耕民としての我々は、協調力、忍耐力に富んでおり、集団的営為に適した精神体質を持っている。このことは過去のさまざまな出来事などが如実に証明している。しかし、その「光の側面」の裏側として「陰の側面」がある。つまり、それは、本来ならば非難されるべき不当な行為に対して、それすら「他者を気遣い」「突出することを恐れる」あまりに指摘することを遠慮してしまい、自らに降りかかった相当な不利益があっても「忍従」してしまう。
このことによって、その一部の「不当な利得を享受する者」の跳梁を安易に許してしまうのである。
しかし、今の状況は、営々と水田経営を行っていく事そのものの基盤(土地)が危機的状況にあるのであり、我々は、事態収束後、この事態を招いた責任追及について、必要以上に寡黙であることはむしろ公共の福祉(子供たちの未来)にとって有害であることを認識すべきである。
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