05. 2011年3月31日 02:17:15: sHkbotZDCo
被災者に余計な不安を与えたフランスからの助言チェルノブイリの時の経験は分かるのだが・・・ 2011.03.30(Wed) 鈴木 春恵 海外に暮らす日本人の多くが、母国の惨状に驚愕し、泣けて泣けて仕方なく、けれども、「具体的には今は何もできない」と、その無力さにさらに打ちひしがれていたのが、震災直後の状態だったと思う。 私自身、電話がうまくつながらなかった実家のことを心配しつつも、すでに予定されていた仕事の約束をつとめて冷静にこなすしかなかった。 もちろんその先々で、日本のことは話題になり、顔を合わせるすべての人が家族や友人たちの安否を尋ねてくれるし、すでに被災された日本の人々へのお見舞いを口ぐちに述べる。 そのことをありがたく受け止めつつも、(今は何もできない)と、半ばあきらめの気持ちで、その不安と焦燥感を押し込めようとしていた。 日本の支援をしてくれるなら避難用の飛行機を送ってほしい 原発の事故が報じられるとすぐ、ヨーロッパの首脳たちは、今後予定されている原発の見直しを発表した。そして「日本の震災に関して、できるかぎりの協力をする」ともコメントしている。 (それならば、ヨーロッパから飛行機を飛ばして原発周辺の住民をそっくり避難させてはくれないか・・・) 問題の現場から40キロの地点に家族のある筆者としては、そんな荒唐無稽とも思われる願いさえ抱いていた。 2日半ぶりに何とか電話が普通につながるようになり、両親や、その隣に暮らす弟家族と話をする段になって、その場所の空気と、こちらで盛んに伝えられている危惧、この2つの境遇の温度差に愕然としてしまった。 日本時間14日朝のことである。このことは、前回(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5675)のコラムの後半に書いた。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755 そのギャップを認識した瞬間から、私の中にあった「何もできない」という思いが決定的に変わった。今そこにあるのは、目には見えない津波のようなもの。そこから家族をどうにかして救いださなくてはならないと思ったのである。
できるだけ早く、できるだけ遠くに逃がさなくては、と。 それからというもの、電話と携帯メールとで、義妹に被曝の危険と避難の必要を訴え、インターネットの情報を駆使し、協力を求めたい人々に電話をかけ、策を講じ始めた。 家族全員での移動が無理なら、せめて義理の妹と3人の幼い姪、それに母だけでも・・・。つまり女子供だけでも逃げてほしいと思った。 避難を主張するフランスの私にとまどう家族 弟は公務員。任務を離れられる立場になく、すでにそちらの方でいっぱいいっぱいの毎日を強いられているのは想像がついたし、父は、地震の翌日、原発が爆発した日に先祖の墓が被害を受けていないか確認に出かけていった人。そう簡単に代々の土地を離れる人とは思えなかった。 身を寄せる先として、南関東にある叔母の家を考え、すぐにそちらに連絡をする。「疎開」「県外避難」という言葉がまだ使われていなかった時期ゆえ、いきなり避難先を打診された叔母夫婦も、最初は驚いた様子だった。 それでも、こちらの勢いに押されたように、「できる限りのことはする」と快諾。ひとまず受け入れ先の準備はできた。しかし問題は移動手段。東北新幹線はもちろんのこと、高速道路も使えないとなれば、一般道を下るしかない。 義妹がカーナビで検索したところによれば、所要時間は12時間。女子供だけの車中、運転手はこの義妹ただ1人。 うまくいったとしても夜間の走行も考えなくてはならず、さらに大きな余震、あるいは、ひとたび原発に重大な動きがあれば、関東全体がパニックになることも予測される。そんな中を南下しなくてはならない。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755?page=2 「春休みの旅行だと思って。何もなかったら、私が騒ぎすぎたってことで、みんなで笑い話にしてくれればいいから」 そう口にしてみたりするものの、単なる旅行のレベルでないことは誰の目にも明らかだ。 こちらからのやいのやいののメールと電話、さらには頻繁に起こる余震をかいくぐって、義妹は水、食料、携帯用コンロ、そして子供たちの身の回りのものなどをワゴン車に詰め込んでいた。 「私は、行くつもりでいるんですけれど」。母親としての使命感にほかならない。 避難したくても十分なガソリンが手当てできず断念 行動力ある義妹ゆえ、彼女の車にはすでに満タンのガソリンが入っていた。しかし、道の状態や時間のかかり方によっては、途中での補給を考えなくてはならない。 そのために、都内の親戚に連絡をすると、すぐさま町に出て予備燃料の確保に動いてくれたのだが、このときすでに、都内でも燃料の不足が始まっており、保険のガソリンは手にはいらなかった。 さらに、私の気持ちを萎えさせたのは、その後3日間のうちに70%の確率で予報されていた首都圏の大地震。 「それでも、行ってほしい」と、苦渋の言葉をわたしは口にした。けれども、そこには恐らく、義妹をさらに奮い立たせるほどの勢いは感じられなかったに違いない。 NHKの24時間放送を横目に、コンピューターと電話にかかりっきりになってから、どれくらい時間がたったのだろう。窓の外のパリの空が明るいのか、暮れているのか、それすら見ることなく時間が過ぎた。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755?page=3 日本時間15日の早朝、母を促すべく、実家に電話をする。まだ就寝中だったとみえ、やや時間をおいてくぐもった声の父が受話器をとった。 「できるだけ早く、日のあるうちに着けるように・・・」とはやる私に、父は返した。 「心配してくれるのはありがたいが、もういい加減にしてくれ。煽り立てないでくれ。おまえの電話が始まってから、○子はうつ病に近いような状態になっているぞ」 いらだちとやるせなさを懸命に押し殺そうとして、それでも勢い余った父の声音に、私は言葉を失った。そして沸騰していた全身の血液が一瞬にして冷えて落ちたような気がした。 放射能より2次災害の方が心配 「放射能ももちろん心配だが、俺にしてみれば、こんな状況の中を発たせることの方がよほど心配だ」 2次災害・・・。 気がつけば、義妹とのメールと電話のやりとりは、この24時間の間に数十回になる。母親としての子供の将来に対する責任、そのために、家族の多少の反対を押し切ってまでとろうとしている様々なリスク。そのはざまで引き裂かれるような気持ちを抱いていた義妹のことを思った。 私が彼女に、そして家族にかけた心の負荷は、すでに大震災、やまない余震で疲弊しきっているところに追い打ちをかける、2次災害といえる類のものではなかったか・・・。まだはっきりとは見えていない危惧に、先回りして対面させようとしたといってもいい。 この朝、原発は新たな煙を吐いた。首都圏への南下を決行することを逡巡した結果、義妹と3人の姪はさらに30キロほど原発から遠ざかることになる彼女の実家の方へと移っていった。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755?page=4 それからすぐ、わたしは弟にメールで、ことの次第を詫びた。義妹の返事から、弟は彼女の意思を尊重してくれていることは知っていた。彼自身が行動を起こせる状況ではないゆえに、その心情もまた察するにあまりある。
「本当にいろいろと助言をありがとう。少し休んでください。あとは天に祈るのみです。今、地震で被害なく命があるのも運命、ここで被害を受けるのも運命です」 3月11日からこの時まで、私はあまり泣かなかった。しかし、この返信を読んだ瞬間、涙がとめどなく流れるのをどうすることもできなかった。 ヨーロッパの友人たちは、私と家族を心配してくれるがゆえに、徹底的に逃げることを勧める。彼らの頭にあるのはチェルノブイリの教訓。事故現場から数カ国隔てたフランスで、当時の政府は言ったという。 チェルノブイリでフランス人が経験した政府のウソ 「放射能の雲がフランス国境を越えて入ってくることはない」と。 もちろんこれは、全く事実ではなかった。だから、とにかくこういった火急の場合には、政府の言うことをまず疑ってかかり、自分の身は自分で守るしかないと思っている。 よしんば、その発表がのちのち事実であったと分かったとしても、何を信じていいか分からない状況では、とにかくできるだけリスクを避けるような行動に出る。 「10%のリスクを取るか、リスクを限りなくゼロにするか。僕だったら絶対に後者を取るね」と、あるフランス人は言う。 その人はさらにご丁寧にも、こんなたとえをしてくれた。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755?page=5 「仮に10の穴があるピストルに1つだけ玉が入っているとして、それを自分の頭に当てて引き金を引くことが、君にはできるかい?」 彼の言うリスクというのは、もちろん被曝のことに尽きる。 その発想からすれば、ガソリンの不足、道中の危惧といったもろもろの都合は、もしかしたら取るに足らないと言えるレベルのことかもしれず、さらには、いつまで続くかしれない疎開先での不便、離れ離れを余儀なくされる家族といったことは別の次元に類するのかもしれない。 15日の朝をもって、私は、避難を強調することをやめた。皮肉なことに、このあとになって、県外避難の動きは目に見えて増え始めたが、逆にその場に残る家族の決断を尊重することに決めた。 「予断を許さない」原発のことは、こちらでも毎日報道されており、友人たちからの慰めとアドバイスが入り混じった声もやまない。 現場の事情に詳しくない助言はただのおせっかい 「政府の指示があるまで、家族は動かないと思うわ。私からはもう避難を強要しないことにしたのよ」と言うと、受話器の向こうで溜息をもらしているのが分かる。 「土壌の汚染があると、そこは使いものにならないわね・・・」 意地悪で言っているのではなく、ただ冷静な分析をしてくれようとしているのは分かる。しかし、それに思いを致せというのは、故郷を遠く離れた安全な場所にいるはずの私自身にとっても酷なこと。 「今はそういうことを聞きたくない」 その声音がよほど冷徹だったのだろう。受話器の向こうの友人は黙った。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5755?page=6 |