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昨昼、私は東電に行きました。
「そこで、抗議してきました」と言いたいのだが、
私は一言の言葉も発することができなかった。
私の他に誰もいなかったからか?
私を記録し、権力による暴力を監視する同志がいなかったからか?
拡声器を持っていかなかったからか?
道行く人々、OL、会社員、全てが他人行儀に見えたからか?
いや、違う。私は怖気づいたのだ。
二度三度、”通行人の一人”として他人顔で東電前を通過するのが精々だった。
見上げるビルは高く、威圧的に私を見下ろしていた。
こんな所で、一人声を上げても気違い扱いされるだけではないか、
映画「ターミネーター」のサラ・コナーのように。
ガードとして、東電前のあの交差点の角に一人ずつ警官が立っていた。
きっと、私が抗議し出したら路上に待機してある機動バスの中から大勢出できて取り囲むのだろう。
他に誰もいないのをいいことに、頭のおかしい、一人の厄介者として、
「おいおい」とか「まあまあ」とか酔っぱらいをなだめるような口調で取り囲まれ、
ゆっくりだが、確実にものすごい力で押さえつけられ、
すぐ道の端っこに連れて行かれてしょっ引かれてしまうだろう。
あとは、警察署での尋問が待っているかもしれない。
しかし、これは想像に過ぎない。
人は誰しも新たな行動を起こそうとする時には、大変な不安が付きまとうものだから。
「不可能性」というのは、行動する前にしか存在しないのだ。
一度行動を起こせば、たとえそれがどんな形であれ
少なくとも「しなかった」よりは、よほどマシであろう。
そして、現在の状況は私たちの行動を必要としているのだから、尚更なのだ。
はじめの一歩。これは大変勇気の要ることだ。
私も昨日それを身をもって知るに至った。
しかし、だからといって、私は決して諦めたわけではない。
昨日できなかったら、今日やってみる。
今日無理だったら、明日トライしてみる。
持続的に、粘り強く。そうやって、全ての運動は力を持つに至る。
敗北など存在しない。諦めた時が負けだ。
私が東電前に行った時にも
疑いと怒りと悲しみと怖れと嫌悪の入り混じった目をして、東電本社を振り返っていた女性がいた
また、同じような意識を瞳に抱いて付近を歩く青年も一人見かけた。
味方がいないのではない。彼らを探す必要もない。
同士は自然に集まってくるものなのだ。
彼らはどこにでもいるのだ。信じることだ。
私たちは決して一人ではないのだから。
http://www.youtube.com/watch?v=4737LtQI7HQ&feature=mfu_in_order&list=UL
「 I Am Not Alone」
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