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福島原発の爆発で、昭和27年(1952)、毎夕ラジオに流れた名文句を思い出した。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」ー菊田一夫作のラジオドラマ「君の名は」の名ナレーションである。
この年は我が国の戦後を方向づける象徴的な年であった。日米講和条約が締結され、戦後連合国によって禁止された我が国の原子力利用が解禁された。そして、1954年3月、改進党の中曽根康弘らによって原子力利用の法案が提案され、1955年12月原子力基本法が制定される。翌1956年1月原子力委員会設置(会長正力松太郎ー読売新聞社長)、6月日本原子力研究所(現:原子力研究開発機構)が東海村に設置された。
そして、1963年10月26日東海村実験炉で初発電が行われた。これを記念して、10月26日は「原子力の日」といわれる。
あれから50年、原発は地元民の反対を抑して各地に建設され、敦賀1号機はすでに40年を経過、福島も同じく耐用寿命が問題視されていた。
この間、原発の危険性を指摘する科学者、識者、地元や労組の活動家の声が続いた。
しかし、それを無視して「原子力の平和利用」の名のもとに原発の建設、或いは耐用年数の延命、使用済み核燃料施設などが国の政策として推進された。
そして今、福島原発の爆発を見、放射能汚染の危機が現実のものとなった。
はたして半径20〜30kmのみの危険ですむのだろうか? 避難した人々はいつ帰ることができるだろうか? すでにチェルノブイリに劣らない危険性も指摘されている。
40年といえば、22歳で就職した人が定年退職する年齢である。すでに耐用年数は限界にきている。地震がなくても事故があって不思議ではない。
今日の惨事は、あの悲惨な体験ーヒロシマ・ナガサキの惨禍を「忘れた」政治家が招いたものと言って過言ではない。それを許してきた国民も反省すべきかもしれない。
現地の原発反対運動を他所事として見過ごしてこなかったか? 沖縄の基地問題も同じこと。現地自治体も金銭的補償や財政的理由で「危険と隣り合わせ」に目をつぶってはこなかったか?
60年の歳月は、どんな悲惨も苦悩も「忘却」の彼方に追いやる魔術を持っている。
戦争を知らない世代が定年を迎え、現役指導層はその次の世代に移っているのだから。
しかし「君の名は」の名文句は戦争世代の極めて深い苦渋と責務を表してはいないか。
「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」−−忘れてはならないものがあるのである。
否、脈々と、永遠に「忘れず」伝えなければならないものがある。
それがヒロシマ・ナガサキであり、原子力の怖さであったはずである。
「ふるさとの街焼かれ 身寄りの骨埋めし焼け土に 今は白い花咲く
ああ 許すまじ原爆を 三たび許すまじ原爆を われらの街に」
1960年代若者たちが歌った歌も消え、長崎の鐘も世の中から消えていった。
「二度とあやまちはくりかえしませぬから」原爆慰霊碑にそう誓ったはずなのに。
唯一の被爆国日本がとるべきエネルギー政策、それは原子力によらない発電、その技術を追求することではないか? そして、無駄な電力消費の削減、それらを国民的課題として改めて考え直す時ではないだろうか?
我々国民は、そういう真の政治家を見極める眼力も養わなければならない。
「三たび許すまじ原爆をわれらの街に」
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