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来る東海地震原発震災“ドキュメント”by広瀬隆
110122 katsukoのブログ
広瀬隆さん 『 原子力時限爆弾』 の一部を転載させていただきます。
広瀬さん、すみません・・・読んだ方はぜひお買い求めください。
ダイヤモンド社、¥1500
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その日、東名高速道路を走行していた車の運転手たちは、道路が大きく
波うったかとみるまに、下からドンと突き上げるような衝撃を受けた。橋
げたがピストン運動をはじめると、そのあと一気に横倒しになり、自動車は
みな側壁に激突したり、横転したり、遠くにはねとばされた。一般国道は、
数メートルも陥没し、川にかかる橋梁は、至るところで落下したり、折れ
曲がったりしていた。
東海道新幹線は、掛川を通過して“のぞみ”が、トンネルに突入したと
ころで脱線し、トンネル入り口に激突して1300人余りの乗客は全員が
ほとんど即死状態であった。走行中だったこのほかの新幹線も、みな静岡
県内で脱線し、大惨事を引き起こしていた。かろうじて脱線を免れた列車
はことごとく停止して、乗客は車内にとじこめられた。予期された出来事
ではあったが、東海大地震がこれほど早く現実に起ころうとは、誰一人
思っていなかった。
静岡県の焼津、浜松、御殿場、神奈川県の横須賀などの自衛隊基地から、
大地震を知った偵察用ヘリコプターが次々に飛び立ち、上空から御前崎
一帯を偵察したところ、地上でそちこちに火の手があがり、すさまじい
被害が出ている様子が報告された。
民間の鉄道や役所では、携帯電話の回線がパンクしたり、電話局の電源
が切れて、電話がまったく不通になったため、“緊急事態”を伝えることが
できなくなっていた。しかし無線による直接設備を備えていたところでは、
これを使って、被害の状況が全国に伝えられていった。
病院の災害は、特に悲しむべきものだった。病院は、野戦病院と化し、
特に高齢者と子供の命が次々と消えてゆくなか、多くの人は、この世の
終りかと思っていた。誰もが、悪夢を見ていると思った。薬がなく、
水がなく、消毒ができない状態であった。病院そのものが被害者であり、
さらにそこへ大量に運び込まれてくる被害者の骨折治療のための添え木
も、手術のための麻酔薬もない状態のまま、治療をおこなわなければなら
なかった。治療の場所さえなかった。遺体と病人が、並んで寝ていた。
病人に与える食べ物はどこにもなかった。被災者同士が必死で助け合い、
家族を探して泣きながら走り回っていた。
しかし最悪の事故が発生した場所は、静岡県の浜岡原子力発電所で
あってウランの核分裂を停止しようとしたが、制御棒を停止しようと
したが、制御棒の駆動装置はまったく間に合わなかった。溶接部分が
数万ヶ所もある原子炉は、いきなりドカンときた衝撃で、厚さ2センチ
の金属の溶接部分にバリバリと全周に亀裂が入ると原子炉の大口径パイプ
が破断して、高温の水蒸気が爆発状態で猛烈な勢いで噴出し始め、大事故
に向かった。このような原子炉の空焚きに備えていた緊急炉心冷却
装置(ECCS)も、やはり冷却水を送り込むためのパイプが同時破壊して、
まったく用をなさなかった。すさまじい熱で空焚き状態に突入してゆき、
メルトダウンの破局が目の前に迫った。
中央制御室にいた運転員たちは、何もできなかった。オペレーターたちは
ボタンを押そうにも、床に這いつくばって、大振動のなかで、立ち上がる
こともできなかった。一瞬で、すべての安全装置が吹き飛んでいた。すでに
巨大な津波が、ゴーっと空を揺るがす音を立てながら、浜岡の海岸に
次々と押し寄せては引き、引いては押し寄せる、とてつもない波動で襲い
かかっていた。
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