42. 2011年3月14日 23:03:05: MMSvM0uhE2
放射能の脅威に揺れる原発の町、富岡2011年 3月 14日 20:36 JST 【福島県富岡町】11日の大地震後に襲った津波を辛うじて逃れ、その後数千人の町民の避難を手助けした林紀夫さん(48)は、地震から24時間以上たっても妻と3人の子どもと連絡が取れずにいた。
------------------------------- Reuters 福島原発付近から避難した後、被ばくの可能性が疑われるため隔離された娘にガラス越しに語りかける母親 -------------------------------- 福島県富岡町の都市整備課に務める林さんは、マグニチュード9.0の地震が襲ったとき、町の水道システム点検のため地下にいた。急速に減っていく食料品や水を配りながら、その日は眠れぬ夜を過ごした。富岡町の被害は深刻ではあったが、さらに北の一部沿岸部ほどひどくはなかった。それでも林さんは家族の消息を一切つかめずにいた。
12日の午後、避難所の駐車場からミニバンを急発進させると、林さんは車内の人たちに、申しわけないが少し遠回りする、自宅に寄らなければならないので、と述べ、実は家族の行方が分からないとぶっきらぼうに言った。そう話す林さんは指の関節が白くなるほど強くハンドルを握りしめていた。 林さんは数分後、緑に囲まれた地域の裏通りにある2階建て家屋の脇に車を止めた。他の近隣の家々同様、その家も人けはないが、無傷に保たれていた。ドアを開けて中に入ると、手書きのメモが貼ってあった。 林さんはメモを一目見ると、きびすを返し、走って戻ってきた。その全身にあふれる安堵(あんど)感はすべてを物語っていた。妻と子どもたちは、川内町の避難所に向かっていたのだ。「ありがとうございました」。林さんは照れくさそうな笑みをうかべながら、興奮した口調でこう言った。 林さんは、福島県富岡町で生まれ育った。富岡町は東京地域に電力を供給する2カ所の原子力発電所に隣接した人口1万600人の小さな町だ。 林さんは今、他の数十万人の日本人同様、住み慣れた町を離れることを余儀なくされている。富岡町が地震と津波に加え、放射能汚染の脅威に立て続けに見舞われたためだ。富岡町からわずか数十キロ離れた場所に位置する東京電力福島第1・第2原子力発電所で12日、問題が発生し、町当局が近隣地域住民に避難を指示したことをきっかけに、放射能漏れの脅威は今、日本国民全体を動揺させている。 林さんは、われわれは準備に準備を重ね、長い間安全対策について話し合ってきたが、正直このような事態が発生するとは思ってもいなかったとし、彼もその他の住民も誤った危機意識を植え付けられていた可能性があると述べた。 12日の夜明け前、富岡町当局は、林さんが働いていた避難所にいた住民を、さらに内陸の川内町の避難所に移動させることを決断した。地震や津波の被害を免れたその他の住民にも同様の指示が出された。その際、それは、東京電力技術者による近隣の福島第1原発の原子炉停止に伴う問題発生の報告を受けた予防的措置だと伝えられた。林さんは、パニックに陥るような感覚はなかったと述べた。 その後数時間かけて、8〜10台の民間と公共のバスが2車線の曲がりくねった道路を40分ほどかけて往復し、急きょ避難場所となった川内市内の中学校に住民を運んだ。 だが、最後のバスが富岡町の避難所を離れた12日午後2時ごろまでには、福島第1原発の状況は著しく悪化していた。原子炉の1つで過熱が進んでいたのだ。 ちょうど午後3時を過ぎたころ、公民館の2階でボランティアグループは閉会式を行い、その後解散した。 林さんのミニバンは川内市内に発つ最後の一団の1つだった。政府からの避難指示にもかかわらず、十数人の富岡市当局者は、酸素吸入器の付いた放射線防護服を身につけ公民館に残った。これら当局者の運命は知る由もなかった。 3時10分ごろ、林さんは着の身着のままで自分のミニバンに乗り込み、富岡町を後にした。目の前に続く道路は一部、地震の影響で亀裂が走っていた。 午後3時45分ごろ、ミニバンが目的地の中学校に近づくと、十数組の家族連れや10代の子どもたちが外をうろついているのが見えた。一部は、数百メートル先にある町で唯一のコンビニと公衆電話に向かっていた。 林さんは、校庭に数百台並ぶ車の中にミニバンを止め、避難所に入っていった。林さんが家族と再会できたどうかは分からなかった。 その数分前の3時36分、川内避難所の人々が知らない間に、福島第1原発の原子炉の1つでは建屋が爆発し、巨大な噴煙を空に舞い上げていた。 数時間後、中央政府は福島第1原発から半径20キロ圏内の人々に対して避難指示を出した。これには明らかに川内避難所に集まった人々も含まれていた。 林さんは、東京電力の気前良さによって与えられた、のんびりとした町の生活をいとおしそうに語った。林さんは核施設の職員ではないが、安全性に疑問を持ったことは一度もなく、数十年にわたって安全性が保たれてきたことを指摘した。 福島原発は1970年代に操業を開始し、富岡町をはじめとする地元地域に高賃金の職と税収をもたらした。町の公民館の正面には、富岡町は原子力エネルギーに支えられていると記載された大きな電光掲示板が掲げられている。 林さんは、この町は多くの顔の集まりであり、その顔が消えたら、町も消えると述べた。さらに目頭をぬぐいながら、今後この場所がどう変わっていくのか想像もできないし、想像し始めることもできないと述べた。 記者: Yoree Koh and Chester Dawson http://jp.wsj.com/Japan/node_198605 |