108. 2012年9月07日 17:53:41
: Kse53zYp5s
ついでにこんな記事もありました。(結論:日本の放射線医学界は原発に関わる能力も資格もない!) ↓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://medical.nikkeibp.co.jp/ Cancer Review 2012. 9. 1 特集 想定外の複合災害で対策が後手に 被曝事故医療の専門家が埼玉県で反省の集い 関連ジャンル: 化学療法(癌)
低線量放射線被曝によって、甲状腺がんの増加など広域、長期の健康被害が懸念されている原発災害。「東京電力福島第一原発事故を受けた緊急被曝医療体制の再構築にむけて」と銘打った研究会が8月27日、埼玉県和光市で開催された。会の名称は「放射線事故医療研究会」。わが国を代表する被曝医療専門家が結集したこの会は、冒頭からさながら反省会の様相を示すことに。専門家らは何を見誤ったのか、そしてそこから何を得たのか。 --------------------------------------------------------------------------------
写真1 第15回研究会長の国際医療福祉大学の鈴木元氏。 (写真◎柚木裕司)
「東京電力福島第一原発事故は、私たちの想定を超す過酷事故となってしまった。これまでの地元医師会の医師らとの交流会では、過酷事故は起きないと説明してきた研究会の幹事の1人として、真摯に反省するとともに、福島県の皆様には心からお詫びしたい」 第15回放射線事故医療研究会は、大会長である鈴木元氏(国際医療福祉大学クリニック院長)の基調講演の冒頭、自らの見込み違いを率直に認める発言での幕開けとなった。 この日の研究会では鈴木氏に続き、事故直後から現地入りして対応に走り回った国立保健医療科学院や放射線医学総合研究所、日本原子力研究開発機構の関係者ら8名が事故後の対応と課題を報告した。 (左)写真2 会は今回の震災による犠牲者への黙祷で始まった。 (右)写真3 会場となった埼玉県和光市の国立保健医療科学院。 写真4 三菱重工神戸造船所の産業医である衣笠達也氏は防災作業員の健康管理を報告。 広域、多人数、低線量の被曝事故
報告者の1人で、原発内で医療支援を行った三菱神戸病院の衣笠達也氏は、今回の事故の特徴を「広域に汚染され、多くの住民が被曝、その被曝線量は低線量であったこと」と指摘した。 広域の汚染が引き起こされたことによって、事前に頼みの綱と想定されていた原発近くの医療機関の多くが機能不全に陥ってしまった。福島第一原発で放射線、放射能漏れを伴う事故が起きた場合、南相馬市立総合病院や双葉厚生病院など初期被曝医療機関に指定されている5つの病院が初期被曝医療に対応すると取り決められていた。ところが、地震、津波でほとんどの医療機関が診療を行うことができず、震災翌日の3月12日に設定された避難区域が「原発から20km圏内」へと拡大された結果、3つの初期被曝医療機関がこの避難区域に入ってしまった。震災直後から現地入りした放射線医学総合研究所緊急被ばく医療研究センターの富永隆子氏によると「被曝医療機関として汚染のある患者を受け入れた医療機関がほとんどない」という状況となった。 オンサイト状態になったオフサイトセンター
さらに今回の原発事故が、地震や津波も加わった複合災害であったことも事態を悪化させた。災害発生時には現地対策本部(オフサイトセンター;OFC)が設置され、災害対策の細かな指令を発することになっていた。大熊町OFCには、除染施設である福島県環境医学研究所が隣接されていたが、停電と断水があり対応可能なスタッフを確保できなかった。 写真5 放射線医学総合研究所のチームは事故直後から福島入りした。富永隆子氏が現場の状況を報告。 そこで、汚染した傷病者を離れた医療機関に搬送する必要に迫られたが、緊急被曝医療への日ごろの訓練が限られた地域でしか実施されていなかったことがあだとなり、訓練されたスタッフや対応できる施設がない医療機関では、患者の受け入れを拒否される事態となった。3月14日には、福島第一原発3号機の水素爆発により、11名の負傷者が発生したが、「搬送先の確保が非常に困難になった」と富永氏は報告した。 事故が起これば近隣の病院で迅速に対応するという想定が裏目にでた。結果論ではあるが、より広汎な被災を想定し、広域の医療機関を確保しておくべきだったいえよう。 避難者は安定ヨウ素剤を服用すべきだった?
放射線被曝による健康障害で真っ先に問題視されるのが、放射性ヨウ素が取り込まれた結果起こる甲状腺がんの発生だ。安定ヨウ素剤を服用すれば、放射性ヨウ素の甲状腺への取り込みが阻害され、甲状腺がんの予防に有効であると確認されている。この安定ヨウ素剤の服用を巡っても、事故後は情報が錯綜した。 原子力安全委員会は、避難所で実施する体表面汚染スクリーニングにおいて、「体表面スクリーニングレベル10,000cpm以上なら安定ヨウ素剤を投与すべき」との助言を2度にわたり経済産業省緊急時対応センター(ERC)に送った。しかしこの情報が市町村に共有された形跡がない。政府対策本部から福島県知事に20km圏残留者の移動に際して安定ヨウ素剤の服用指示が出たのは3月16日の10時であり、この時点で福島県は「安定ヨウ素剤投与が必要な避難地区残留者はいない」と判断。 一方、15日に住民に安定ヨウ素剤を配布した三春町では、一部の住民が服用。福島県は17日に回収を同町に指示し、21日には原子力災害対策現地本部から「安定ヨウ素剤の服用は本部の指示を受け、医療関係者の立会いのもとで服用するものであり、個人の判断で服用しない」(「安定ヨウ素剤の服用について」)という指示が県知事と関係市町村長に発出された。 結果的に、本来対策が不要であった三春町の町民以外は安定ヨウ素剤を服用しなかったということになる。ヨウ素剤を過剰に服用すると甲状腺機能低下症などの副作用を引き起こすことは確かだ。したがって行政が適応のない安定ヨウ素剤の服用を制限する姿勢を打ち出したのは妥当といえる。 それでも、鈴木氏は「避難した後でも安定ヨウ素剤を服用すべきだった」と指摘した。「避難すれば服用は不要と考えられたが、避難方向によっては避難終了直前まで、プルーム(放射線物質の濃度が高い空気の塊)曝露があったと考えられる。避難所到着時の服用には意味があった」。放射性ヨウ素を吸入した4時間後でも、安定ヨウ素剤の服用は50%の防護効果がある。 国際原子力機関(IAEA)では、最初の7日間の被曝線量が50mSvを超えると判断した場合には、安定ヨウ素剤の使用を推奨している。当初の予定では、SPEEDIという放射能拡散・被曝線量予測シミュレーションと実際の放射線量をモニターして、対応を決定することになっていた。ところが放出された放射能の情報がないためSPEEDIは線量を計算できず、実際に線量を計測するモニタリング・ポストのほとんどが震災と津波で破壊され、データを収集することができなくなっていた。線量というリスクを正確に把握し、正しい対応―。この行動計画の前提が成立しなくなっていた。「今後は正確な線量が不明な場合でも状況を考慮して、行動を起こすことができる計画を用意しておくべきかもしれない」と鈴木氏は指摘する。 写真6 福島県立医大の長谷川有史氏は「大学としてフクシマに暮らすメリットを住民や作業員らに提供したい」という決意を表明。 情報が届かなかった福島県立医大
突然、原発事故の渦中に投げ込まれた福島県立医科大学附属病院からも救命救急センターの医師の長谷川有史氏(助教)からの報告があった。同氏によると、原発の最も近くにある医大であったにもかかわらず、「事故が起こるまで、院内の除染施設の場所も院内緊急被曝医療マニュアルの存在も知らなかった」。「原発事故の発生もテレビで知った。行政サイドからの正式な情報提供というものは何もなかった」。その後刻々と変わる情勢を知る手段も、もっぱらテレビやラジオのニュースだったという。 3月11日の地震や津波被害の発生直後には、低体温や骨盤骨折傷病者などの搬送が相次いだが、14〜15日になって4名の被曝傷病者が搬送されてきた。情報がなく、現場は半ばパニックとなったが、15日午後に被曝医療を専門とする長崎大学・広島大学合同REMAT(Radiation Emergency Medical Assistant Team)が来院、ここで初めて、原発事故の現状説明を受けたという。 「一度泣くと人間は強い」
「スタッフは最初、悲観的、抑うつ的な精神状態に陥っていましたが、学外専門家のクライシスコミュニケーションにより蘇生され、肝をすえた。緊急被曝医療班の立ち上げは学外支援なしには不可能だった」(長谷川氏)。そこで緊急被曝医療班が発足したが、班員には「被曝医療は一定の危険を伴う業務である」ことをまず周知した。 しかし事態を受け入れつつも、夜間の就寝時には、「医療スタッフの全員が一度はさめざめと泣いた」と長谷川氏は語った。「しかし一度泣くと、人間は強い。恐怖を吹っ切って事態収束に当たった。このプロセスは、(終末医療の専門家の)エリザベス・キューブラー・ロスが指摘した、がんであることを告知された患者の精神プロセスに近いと思った」 写真7 客席から自衛隊中央病院内科部長の箱崎幸也氏(立位)が自衛隊における準備状況を説明した。 キューブラー・ロスは、著書『死ぬ瞬間』の中で、病名を告知されたがん患者の心理状況が、否認、怒り、取引、抑うつ、受容という5つの段階で変遷することを報告している。長谷川氏によれば、この心理プロセスが原発事故に遭遇した医大のスタッフにも見られた。 同大学では地震から半年を経過した現在も、除染業務担当自衛隊、学外医療チームの支援のもと緊急被曝医療体制を維持している。毎朝多職種会議で知識を充填、原発の最新情報、達成事項、未解決問題を明確化する作業を続けている。 「“フクシマ”に暮らすメリット、放射線によるデメリットを正しく比較し、判断、行動するための情報提供を行うことも我々の責務である。私は新潟出身ではあるが、福島が大好きであり、これからも福島に住み続けたいと思う」と締めくくった。 写真8 放射線モニタリングの状況を報告した日本放射線技師会の諸澄邦彦氏。 放射線技師が遺体の放射線量も測定
避難所や検案(検死)前の遺体の放射線サーベイには現在も放射線技師らがあたっている。サーベイ作業に従事する放射線技師(サーベイヤー)を派遣している日本放射線技師会からの報告もあった。報告した諸澄邦彦氏(埼玉県立がんセンター放射線技術部副部長)によると、3月13日に内閣府原子力委員会と厚生労働省医務指導課から放射線サーベイヤー派遣の依頼が日本放射線技師会にあり、技師会の募集に全国から12名の放射線技師が応じ、福島県での活動を開始した。さらに4月には福島県警察本部から検案前の遺体に対する放射線サーベイの依頼があり、遺体の放射線サーベイも開始した。 3月16日から4月17日に55名の放射線サーベイヤーが派遣され、放射線サーベイ終了後にはスクリーニング済証を発行する業務も行った。検案前の遺体の放射線サーベイには4月11日から6月末までで630体を数えたという。 写真9 代表幹事の前川和彦氏は研究会を学会に昇格させ、活動の強化を提案。 遺体の放射線サーベイに従事するサーベイヤーには60歳を超えた「人生の先輩たち」(諸澄氏)を中心に派遣したという。「数多くの遺体に接することを考えると人生経験が豊富な技師の方々が適任と考えた」からだ。しかし、それでも技師たちにかかったストレスは無視できないものがある。「夜、作業報告の電話で、『今日、検案した乳児はおんぶ紐しかつけていなかった』と話す人もいた。ちょうど、その方の孫と同じくらいだった」 急逝した福島県放射線技師会長
そのような状況が続くなか、技師会に衝撃が走る事件が起こった。日本放射線技師会理事で福島県放射線技師会長であった鈴木憲二氏が、震災から4カ月後の7月16日に急逝したのだ。「深夜に変調に気づき、救急搬送で病院に到着した時点で心肺停止状態だった」(諸澄氏)。 鈴木(憲)氏は、事故直後から長期にわたる福島県への放射線サーベイヤーの派遣計画を策定する上で中心的な役割を果たした。その後も、全国から応援に入る技師と現場の仲立ちとなって活動していた。 「昼夜の区別なく働いていた。全国から集まった技師らが活動しやすいようにといろいろと配慮し、夜は技師らが宿泊するホテルに缶ビールなどの差し入れも行っていた」(諸澄氏)。激務が直接の死因となったかは明らかではないものの、技師らの間では「戦死」とささやかれている。被災した住民だけではなく、復興対策にあたるスタッフの心身の管理も行うシステムの重要性を物語る事例といえるだろう。 写真10 パネルディスカッションではリスクコミュニケーションのあり方などが議論された。 専門家間のコミュニケーションにも課題
今回の福島第一原発事故では、いくつかの課題が浮き彫りになった。 鈴木氏は、とりわけ大きな問題として「OFCが本来の役割を果たせなかった」ことを挙げ、「OFCで行政や防災関係者、事業者や原子力の専門家が情報を共有し、意思決定し、情報発信するという仕組みが機能しなかった」と指摘した。原子力災害対策特別措置法の想定とは異なり、全ての意思決定が政府対策本部に一元化されたことも関係者間での情報共有という面では事態を混迷させる一因となった。 福島県立医大の長谷川氏は、国民・福島県民とのリスクコミュニケーションでは、「原子力や放射線の専門家の間で、発信された情報に矛盾したものがあったことが事態を複雑にしてしまったのではないか。このような事態では特にリスクコミュニケーションの重要性が問題にされるが、専門家間の見解の違いが健全なリスクコミュニケーションを実現する上で障害になったのではないか」と問題を提起した。鈴木氏は、「今回のオペレーションで何ができて、何ができなかったかを今後も検証し続ける必要がある」と総括した。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ |