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決死の原発作業員 福島第一「3・11」の証言
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011122302000041.html
2011年12月23日 東京新聞 朝刊
東京電力が二十二日に公表した報告書は、福島第一原発が三月に事故を起こした直後の状況を、作業員から聞き取った肉声により再現していた。そこには「死」の文字がいくつも並び、あらためて現場の過酷さが浮かび上がった。
十一日午後、大きな揺れに襲われた後、運転員や作業員たちは装置の点検に回った。
作業員は建屋の大きなシャッターの下から水がしみこんでくるのに気づいた。その直後にシャッターが吹き飛び、津波が建屋内に流入。必死で逃げた。恐怖でふるえた。
4号機では、地下の非常用ディーゼル発電機をチェックしようと建屋に入った作業員が中に閉じこめられた。建屋を津波が襲い、内部の水位は刻々と上がった。あごの下まで水が上がり、「もう死ぬのか」と観念。外から同僚がドアのガラスを割ってくれ、九死に一生を得た。
翌日には1号機が水素爆発を起こした。
消防車内で注水に向けた準備をしていた作業員は、爆風で目の前の風景が「一瞬ゆがんだ」と感じた。窓ガラスが割れたのに驚くひまもなく、ロケットのように飛んできたがれきを必死でよけた。
爆発で放射線量が上がって作業が難しくなり、2、3号機の状況も悪化。結婚指輪が汚染されるのを嫌い、一度は外したが、「最悪の事態が起きたときに、自分だと分かるよう」考え直し、はめて作業に出た人もいた。
危うい状況の3号機の中央制御室に交代で行く順番が回ってきた作業員は死を覚悟。故郷の父親に電話で「俺にもしものことが起きたら、かみさん、娘をよろしく」と伝えた。
制御室の放射線量は刻々と上昇。三秒に〇・〇一ミリシーベルトという異常な上がり方だった。そんな恐怖と、空腹とも闘うことになる。
「生きるためには食べるしかない」と、内部被ばくを心配しながら乾パンを口にする作業員がいれば、「これで終わりなんだ」とあきらめの気持ちを抱く作業員もいた。
原子炉建屋地下へ向かった作業員は、暗闇の中で「ゴー」という音を聞いた。圧力容器から格納容器へ蒸気を逃がす音で、振動を感じるほどの大きさだった。「蒸気が外に漏れたら死ぬだろうな」と思いながら、弁の操作をした。
十四日昼前には、3号機が水素爆発を起こした。「タービン建屋の廊下はほこりで真っ白になった。外を見ると、車がふっとんでいた」。現場はパニックになった。
爆発直後、吉田昌郎所長(当時)が「2号機の水位が下がった。また爆発させないように」と現場に指示を飛ばした。十五日午前六時すぎ、三度目の衝撃音が響き、4号機の原子炉建屋上部が壊れた。吉田所長の命令で約六百五十人が撤退し、約七十人が発電所に残った。
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