http://www.asyura2.com/11/genpatu19/msg/480.html
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http://www.labornetjp.org/news/2011/1219pari
去る10月27日に「原発いらない福島の女たち」が経産省前で座り込みを始めたとき、たまたま東京にいたので、ささやかな応援を届けることができた。彼女たちのアクションと考え方は、佐藤幸子さん(「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク(子ども福島)」)と佐々木慶子さんが出演した11月3日のレイバーネットTV上でも紹介されたので、ぜひ見てほしい(http://www.ustream.tv/recorded/18280705)。このアクションは、12月1日から「未来を孕む女たちのとつき・とおかのテント村行動」に受け継がれ、孕む「十月十日」のあいだ、つまり2012年9月11日まで抗議をつづける予定だという。
経産省前には9月11日から「テントひろば」が設けられ、警察や経産省の立ち退き要求、ときには右翼活動家の妨害を受けつつも、市民の行動と交流の場になっている。今年の5月、スペインの「憤る者たち」の運動に始まり、ヨーロッパ各地やアメリカのウォールストリートにも出現した「オキュパイ」運動との類似性を見て(広場の占拠はアラブ世界における抗議運動、とりわけエジプトのタハリール広場にもつながる)、外国のジャーナリストがつぎつぎと取材に訪れているそうだ。一方、福島の女たちの行動についてもそうだが、日本のマスメディアでは一部の新聞をのぞくとニュースにしていない。9月19日の日比谷公園での6万人集会とデモについても、さすがに写真は載せた新聞が多かったが大きな記事にはならず、地上波テレビで大きくとりあげられなかったことに驚いた。日本でこれほど大勢の市民を動員した集会・デモは近年なかったのに、マスメディアの指導部では、これを重要な出来事だと判断しなかったということだろう。経産省前のテントは、全国や海外からさまざまな支援者が訪れ、イベントが催され、宅急便で差し入れが届く「社会的な場」になっている。そこに集まる人々はたしかに少数派だが、社会の動きという視点に立てば報道されるべき、とても興味深い現象だと思うのだが……。
経産省前のテントで出会った武藤類子さんは、「ものすごい閉塞感の中にいたので、なんとかして元気が出ることをやりたいと思った。新たな一歩を踏み出した」と語っていた。この座り込みに全国や海外の人々が参加し、テントひろばの時空間が広がり、11月23日には「脱原発をめざす女たちの会」キックオフ集会が催された。たしかに新しい一歩が踏み出されたのだと思う。
「脱原発パリ」の仲間たちも福島の女たちを支援するささやかなアクションを行ったが、そのとき「なぜ女たちなのか?」という質問が出たという。彼女たちはふたつのことを強調する。女性が命をつなぐ存在であること。そして、今回のような原発事故は男社会が生み出したものだから、女たちが前面に出て行く必要性を感じたという点だ。
子どもを産み育てる存在のみに女性をとじこめることは避けたいが、現実として、子どもを体内に孕み、産んでからは育てる役割の大部分を女性が担う場合が多いことから、命に対する感受性は女性のほうが強い傾向にあるだろう。年が若ければ若いほど、より被害を受けやすい被曝について、小さい子どものいる女性や妊婦がもっとも危機感を抱いているのが、現在の日本の状況をみてもよくわかる。反・脱原発運動がこれまでも今も、男女いっしょにやってきたのに対し、マスメディアに出てくる事故の当事者や対策・措置を担う人たちーー東電、政府や各官庁、地方自治体の役人、保安院や原子力安全委員会など公式機関のメンバー、御用学者や専門家ーーはほとんどすべて男だ。かろうじて政治家に少し女性がいるが、100年前と変わっていないじゃないかと唖然とするほど、男ばかり(記者会見の映像を見て、ジャーナリストにもなぜこんなに女性が少ないのかとショックを受けた)。
電力会社も官庁も自治体も、つまり政・経・学・メディア界の中核はこんなに男ばかりの国だったのか(裁判所、検察局、警察もそうみたいだ)と認識を新たにすると、「男社会が生み出した原発事故」という言葉は強い響きをもつ。放射能の発見段階ではフランスのキュリー夫人という例外があるが、科学技術を盲信し、原発を推進してきた原子力村のメンバーは、ほとんど全員男たちだ(フランスにはロヴェルジョン前アレヴァ社長という女性もいるが)。彼らは金儲け主義だけでなく、核兵器や原子力によって絶対的な権力、ひいては国際的に優位な地位を得ようという思考に動かされているようだ。つまり、20世紀の二度の世界大戦による大量殺戮の歴史から何も学ばず、反省せず、広島・長崎への原爆投下がもたらした惨禍の中に「核の威力」しか見ないーーそういう考え方や行動様式は、人間のもろさや命を育む歓びと難しさを感じることのできない人たち、男社会のエリートたちの傲慢で非倫理的な社会観に支えられてきたのではないだろうか。
フランスでは福島原発事故勃発後すぐ、ル・モンド紙のポンス記者が大江健三郎氏にインタヴューした記事(3月17日付、アメリカのニューヨーカーに寄稿されたテキストとほぼ同じ内容)が紹介されたこともあって、「原爆を受けた日本がなぜ、原発をこんなたくさん持つようになったのか?」という質問を頻繁に受ける(被爆・被曝について無知な人の多いフランスに比べて、日本では全員、原子力の脅威をよくわかっているはずだと思うのだろう)。そこで、1954年にアメリカの水爆実験で被曝した第五福竜丸事件の後、主婦の署名運動(3200万人の署名!)をきっかけに大規模な反核運動が起きたが、前年末にアイゼンハワー大統領が提唱した「原子力の平和利用」という幻想(ごまかし)にまんまとのせられたいきさつを説明する。「平和利用」宣伝の中心を担ったのが読売新聞と日本テレビの社主、後に原子力委員会の委員長になる正力松太郎であることを振り返れば、政・経・学界とメディア・広告業界が結託した大キャンペーンが50年以上前にそれほどの威力を発揮したことに、改めて衝撃を受ける。テレビという新しいテクノロジーや最先端の広告の戦術は、権力を握り、さらなる権力を望む人たちの武器として、最大限に利用(悪用と言いたい)されてしまったのだ。
しかし、いくら巨大・強力な宣伝や情報操作が行われようと、死の灰をもたらす核が平和な社会づくりに貢献すると反戦女性運動家までが信じてしまったのはなぜか、それをよく考えてみるべきだろう。その経過については加納実紀代さんが書いている(「ヒロシマとフクシマのあいだ」http://wan.or.jp/reading/?p=4416 以下wanのサイトで5回連載)。戦争に負けたのは「科学的に劣っていたからだ」という無反省なこじつけ、原爆被害を受けたからこそ利益を受けるべきだという代償の論理、大国として復興するための技術革新と生産性の追求……。そして、原水爆禁止運動の起動力となった女たちは、家事労働を軽減して便利な電化生活をもたらしてくれるはずの原子力「平和利用」に希望を託してしまった。高度成長以降は格好のターゲットとして、大衆消費文明にずぶずぶ浸かっていった。
現在、日本の大学では女子学生のほうが多いほど女性の教育水準は上がったが、社会の中枢の分野、とりわけ権力職には相変わらず圧倒的に男が多い状況がつづいている。従来のシステムが女性の進出を阻んでいるだけでなく、女性の側も、男社会のかけひきや慣習の中に身を置くのはばかばかしいと思うのかもしれない。こうして権力構造内の悪癖が温存される。また、悪癖と闘おうとした少数派の男たちの多くは、システムの外に出て行く(今回の原発事故で市民に情報と知識・分析を提供し、公益に貢献している独立ジャーナリストや科学者・技術者には、そういう人たちが多いようだ)。
つまり性差ではなくいちばんの問題は、同類の集団が永久的に権力を持続する非民主的なシステムが生み出すさまざまな支障(自省不能、外部コントロールの不在、権威に弱い、メンツが最も大事、思考停止、想像力・創意・人間性の喪失……)ではないだろうか。でも、そういうものと闘うために、女が前面に出るべきだという意見にわたしは賛成だ。企業人間(男に多い)は、人間の命や健康より、国の経済が弱まり秩序が乱れることをまず懸念するだろうし、権威に弱いから。
むろん、システム内の女性たちも、護身のために体制に服従し、フランスの原子力企業アレヴァ社前社長のように、ときには体制のトップの座につく女性もいる。それでも、決定を下す組織の核にもっと大勢の女性がいたら、いともたやすく法律を破って放射線線量の許容値を引き上げたり、子どもの疎開を求める人々の声を無視したりできただろうか、とふと思ってしまう。チェルノブイリ事故の際、ウクライナの首相にあたる地位にいた女性は、モスクワの指導部に対してキエフの子どもたちの疎開を断固として主張し、認めさせたという。もっとも、チェルノブイリの30キロ圏内の疎開においては、女性と子どもを優先的に避難させることを男の指導者たちが決めたのだから、日本政府の対応は全体主義体制の旧ソ連よりさらに劣るといえるだろうが……(自由報道協会での広河隆一さんの講演参照:http://www.ustream.tv/recorded/18854452)。
放射能汚染の広がりを示すニュースがあいつぐ中、「年内」にこだわる日本政府と東電は12月16日、「事故収束に向けた冷温停止状態の達成」を宣言した。毎時6000万ベクレルの放射能が洩れ続け、現状を把握できない壊れた原子炉について「冷温停止」という専門用語をあえて誤用し、事故が収束したような印象を与えようとするさもしい演出だ。さっそくニューヨーク・タイムズやドイツのメディアが現実を無視していると報道し、フランスの国営ラジオでは特派員が「もう誰も、東電や政府の言うことを信じていない」と報告していた。
「冷温停止状態」や「風評被害」など、事実をあらわすのに適切でない言葉が登場し、社会に浸透するのを見聞きするたびに、こうした言葉をひねり出す人たちの知的不誠実さに腹が立つ。事実を隠蔽・歪曲する造語や表現を無批判に、そのまま流布するメディアにも疑問を感じる。理念も良心もない人々が使うこうした表現を打ち破り、言葉を自分たちのものに取り戻すことも今、わたしたちがやっていかねばならないことだと思う。
2011.12.17 飛幡祐規(たかはたゆうき)
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