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広島と長崎で大勢の命を奪った原爆の「平和利用」といわれた原発。そのわが国への導入の動きは、独立を回復した一九五二(昭和二十七)年にさかのぼる。原発はどんな議論を経て日本に建設されたのか。安全はどう留意されていたのか。連載第五部では、独自入手した資料や関係者の証言をもとに「安全神話の源流」をたどる。
「今日から出発しないと世界に遅れる」
一九五二年十月の初め、全国の物理学者に向けて一通の手紙が出された。差出人は物理学者で大阪大教授の伏見康治。占領軍の呪縛が解けた今こそ、日本でも原子力研究を準備しようという提言である。
日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹の共同研究者で名古屋大教授の坂田昌一の遺品に、その手紙が残されていた。
二年程度の準備期間を経て、三年ほどかけて実験用原子炉を建設する。その後には工業用原子炉と発電施設を建設する。今にも破れそうなわら半紙には、そんな構想とともに(1)軍事目的の研究は行わない(2)研究結果は公表する−など、後に原子力開発の大原則となる「公開」「民主」「自主」の三原則につながる私見もあった。
提言は「科学者の国会」である日本学術会議の副会長茅誠司との共同作戦だった。茅は七月、学術会議の運営審議会で「原子力を考える時機になった」と「原子力委員会」設置を政府に申し入れるよう提案していた。
その素案を練ることになった伏見は、各地に物理学者を訪ね、意見を聞いた。賛成もあったが、被爆国で原子力研究などとんでもない−とつるし上げられたこともあった。
迎えた十月二十二日からの総会。茅と伏見は連名で政府への申し入れを提案する。
翌日の議案審議は荒れに荒れた。学術会議が所蔵する鉛筆書きの速記録に、激論の一部始終が残っている。
急先鋒(せんぽう)は広島大教授の三村剛昂(よしたか)だった。爆心地から一・八キロの近さで被爆し、辛うじて命拾いしていた。
「原爆を受けた者としまして、絶対に反対だ」「相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります」
米ソの緊張が解けるまで原子力の研究はすべきでない−。迫力ある主張に賛同者が相次ぎ、茅と伏見は提案撤回に追い込まれた。
伏見は後年、長男の譲(68)にこう嘆いた。
「あれは科学的態度でない。情緒だ」
■
軍事転用を恐れ、前に進めない学者たち。それを尻目に、政界が動く。中心は改進党の若手衆院議員で「青年将校」といわれた中曽根康弘(93)だった。
五三年夏に訪米した中曽根は、原子力研究の実情を視察。年末の帰国前にカリフォルニア大に物理学者の嵯峨根遼吉を訪ね、助言を受けていた。
時を同じくして、アイゼンハワー米大統領が国連総会演説で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を世界にアピールする。軍事機密としてきた原子力。その技術を提供するという方針転換である。
翌年二月二十日、改進党秋田県連大会に出席した地元衆院議員の斎藤憲三らは、原子力推進で意気投合。新年度予算の修正案を出そうと申し合わせる。
表に立ったのは衆院予算委員会理事の中曽根だった。少数与党の自由党と交渉し、初の原子力予算を三月二日の予算委に共同提案する。原子炉築造費二億三千五百万円を含む予算に学術会議側は仰天し、騒然となった。
「まことに寝耳に水のこと」「そのままにしておくことはできないと考えました」
原子力問題を話し合う委員会の委員長だった藤岡由夫(東京教育大教授)は、翌月の総会でこう報告した。
藤岡らは国会に出向いて反対を訴えるが、予算案は三月四日に衆院を通過。四月三日に自然成立した。本人は後に否定したが、小田原評定を続ける科学者らに、中曽根はこう言ったとされた。
「あんたたち学者が昼寝をしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」 (敬称略)
(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011121190071611.html
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