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放射能汚染を避けて沖縄に脱出した家族をオーストラリアのThe Age紙がインタビュー
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2011年12月9日 EX-SKF-JP
「あの日の放射線量がどれだけ高かったかを知ったとき、そしてうちの子が粒子を吸い込んで外部被曝だけでなく内部被曝もしたかもしれないと気づいたとき、なぜ誰も危ないと言ってくれなかったのかとものすごく腹が立ちました。事故そのものよりも、そちらのほうがよほど私にはショックでした。」
オーストラリアのThe Age紙に、福島第1原発事故からの放射能を避けて東京から沖縄に脱出した人たちにインタビューした記事が掲載されました。
以下、東京茶とら猫さんのご好意の翻訳をお届けします。記事の中でインタビューされている竹野内真理さんは翻訳家で、このブログでもご紹介した肥田舜太郎さんとご一緒に、『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(ラルフ・グロイブ, アーネスト・スターングラス著)を翻訳なさっています。
もとの英文記事はこちら。
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沖縄への脱出
オーストラリア The Age
ジェーン・バラクラフ
2011年12月6日
放射線量の高いホットスポットが東京にも現れ、国中が放射能汚染にあえぐなか、一部の日本人は福島からの放射性降下物を避けるために沖縄に逃れている。だがすでに手遅れなのだろうか。
日本で史上最大の地震が発生して巨大な津波が福島の海岸を繰り返し襲い、東京電力福島第一原子力発電所が放射能まみれの残骸と成り果てたその3日後、竹野内真理は赤ん坊を背負って東京の東部を必死に自転車で走っていた。
竹野内は東京生まれの翻訳家。わずかな時間でぎりぎりまで用事を片付けたあと、1歳の息子を連れて沖縄に逃げた。沖縄は日本の最南端の県であり、事故の起きた福島からは2000km離れている。空港に向かう途中、予約を入れておいた歯科医の治療に息子を連れて駆け込んだ。
竹野内も、ほかの数百万人の人々も、東京の上空に放射能の雲がかかっていることを知らなかった。3基の原子炉ではすでに全面的なメルトダウンが起きていた。ウランの詰まった燃料棒は過熱して融け、それが3月12日と14日に爆発を引き起
こした。
「かすかに風の吹く晴れた日でした。あの子を背負って自転車を漕いでいるときに、顔に当たった風のことは一生忘れないでしょう」と竹野内は振り返る。
竹野内と息子のジョーが本土を離れる前に外にいた3時間は、放射能の雲が最も濃くなった時間帯だった。竹野内が自転車で走っていたのは東京の世田谷区。その世田谷区で東京都が採集した空気の分析結果によると、ジョーが浴びた放射線量は平常時の背景放射線量の145倍に達する。
京都大学の測定によれば、放出の続く原発から20〜30km圏で住民が自主的に避難したホットスポットと、東京の数値は同程度だった。
「できるものなら時間を巻き戻したい」と竹野内は語る。「本当は朝の便で発つ予定だったのに、電話を修理したり歯の治療を終えたりといった用事を済ませたかったから午後3時の便に変更したんです。今思えばそんなことは沖縄でもできたのに。でも、あのときは東京は安全な距離だと聞かされていたから」
当時、東電は大規模な炉心溶融で放射能が漏れている可能性を過小評価していた。政府のスポークスマンのひとりはのちに、パニックを防ぐために当初は事故の規模を過小に発表していたことを認めた。政府が正式に3基のメルトダウンを認めるのはようやく6月になってからである。
しかし、爆発後に警戒感がなかったために、竹野内とジョーは半日余計に東京に留まり、放射性降下物を避けることができなかった。その降下物は、風雨や雪の残酷な気まぐれで少しずつまき散らされ、家に、畑に、野原に降り積もり、やがて竹野内の家の近くの校庭も汚した。
足立区の小学校では、自治体が定める安全基準値の16倍の放射線量が配水管の泥から検出された。これは、3月以降次々に現れたホットスポットのほんの一例にすぎない。
首都圏の南では、横浜の住民がストロンチウム90(骨がんとの関連が指摘される物質)を含む土砂を見つけた。その濃度は、福島で確認されている最高レベルの2倍。冷戦時代の核実験の名残りより10倍以上高い。
だが、放射能不安の一番大きな原因物質はセシウム137である。セシウム137は環境中に何十年も留まり、一定量以上の被曝をすると発がんリスクが高まるおそれがある。福島原発からのセシウム137の総放出量は、1986年のチェルノブイリ原
発事故時の約42%であると、最近発表されたノルウェーの研究は指摘する。
包括的核実験禁止条約に基づく世界各地のモニタリングステーションからデータを集めたこの研究によると、セシウム137の放出量は日本政府の公式発表の2倍以上になっている。日本政府発表の数値は、諸外国や海に流れた放射性物質が考慮されていなかったからである。
公式発表の数字にはここ数ヶ月間の放出量も含まれていない。破壊された原発はいまだに安定しておらず、融けた燃料が地面を侵食しないように懸命の作業が続けられている。
爆発当初の放射性降下物は、その約2割が最終的に地面に落ちたと見られている。田舎のみならず、人口の密集した都市の地面にも。
柏市では、ある公園の近くで1日当たりの地面付近の空間線量が非常に高く、個人の年間平均自然被曝量の2分の1以上の値になっている。これは、3月下旬にセシウムを含む大雨が何度か降ったためとされている。
竹野内はこうしたホットスポット問題が表面化する前に避難したものの、やはり自分の子供の健康を心配している。取り返しのつかないダメージを負ったのではないかと気がかりでならないのだ。
「大人に対してはもちろん、低線量被曝が幼い子供にどんな影響を及ぼすかは、世界中のどんな医者にもわからないんです。なのにどうして政府は、東京では健康リスクはない、と言えるのでしょう」と竹野内は言う。
3月11日の前日、竹野内は偶然にも「ペトカウ効果」に関する本の翻訳の仕上げをしていた。ペトカウ効果とは、低レベル放射能でも不治の病を引き起こす可能性があるとする仮説で、賛否両論ある。
低線量放射線の影響については科学者の間でも意見が一致していない。しかし、チェルノブイリの被害住民のあいだでは白血病、甲状腺がん、ダウン症、先天性欠損症が多発した。この唯一福島と同等以上の原子力事故を起こしたチェルノブイリで明らかになったこうしたリスクは、ある程度は日本にも当てはまると考えられる。
「あの日の放射線量がどれだけ高かったかを知ったとき、そしてうちの子が粒子を吸い込んで外部被曝だけでなく内部被曝もしたかもしれないと気づいたとき、なぜ誰も危ないと言ってくれなかったのかとものすごく腹が立ちました。事故そのものよりも、そちらのほうがよほど私にはショックでした。事故は前から予測されていたことでしたから」
地震が引き金となって日本の原発が停止するという予測を竹野内が知ったのは、10年前のこと。アメリカの原子力安全問題の専門家が開いたシンポジウムでのことだった。以来、原子力事故が起きたら沖縄に逃げて永住しようと心に決めていた。
東北地方を自然災害と原子力災害が襲ってから数日のうちに、竹野内は東京の住まいを引き払い、那覇のワンルームマンションに移り住んだ。那覇は、沖縄県民150万人の半数以上が集中する都市である。
沖縄はかつて貿易で栄えた王国であり、独自の文化と言語をもつ。東シナ海に位置し、台湾から九州にかけて連なる亜熱帯の島々で構成され、夏には日本のみならず台湾や中国からも観光客が訪れる人気の土地である。
竹野内が新たに腰を落ち着けたのは、那覇中心部にある久茂地地区。久茂地はバックパッカーや地元の活動家が集まる場所だ。地区の目抜き通りでは、今や日常茶飯事となった米軍基地反対デモの周囲を警官が穏やかにパトロールする。そしてこの地には新たなスローガンが生まれた。「脱原発」である。
最近行なわれた脱原発デモには、おもに本土から避難してきた人々200人以上が参加した。これはごく一部にすぎず、全体では今年3月から8月にかけて17,521人が本土から沖縄に移住している。前年の同時期と比べると12.3%の増加だ。
沖縄県は、日本で原発のない地域の中でもっとも大きい。
沖縄最大の島である沖縄本島には美しい浜辺が連なり、スローフードの文化が根いて、音楽や芸術が盛んな場所である。毎年、数千人の移住者を引き付けている。ところがつい最近になって、福島原発の事故以前には沖縄への移住など考えてもみなかった親たちが放射能を心配して沖縄に移り住むようになった。
竹野内が住む那覇の低家賃マンションには、本土の各地から避難してきた人たちがほかに30人暮らしている。ほとんどが幼い子供を連れた母親で、誰もが同じ不安を抱えている。彼女たちの話題は奇妙な発疹のこと、高熱のこと、鼻血のこと。そして政府と原子力産業の「絶対に許せない」怠慢のことだ。
3月11日の津波で仙台の自宅を失ったタナカ・ユリコは、福島県北西部との県境に近い仮設住宅に住んでいたが、そこを出る決心をする。子供にとって安全な場所だとは思えなかったからだ。しかも、4歳の息子の発疹がなかなか治らないのを心配していた。
「8月に発疹が出てから治らず、腕や手にまで跡が残っています。医者はステロイドの軟膏をくれましたが、かえって悪くなっただけでした」とタナカは語る。「同じ地域に住んでいた友人の子供にも、今年の中頃から似たような発疹が出ました」
それが福島からの放射性降下物のせいかどうかは証明が難しいものの、タナカは大事をとって沖縄に移住することを決めた。
クボタ・ミナホも沖縄本島に逃げてきたひとりだ。事故のニュースを聞いた瞬間、自分の人生が変わったと語る。クボタは2児の母。以前は福島第一原発の存在すら知らなかった。
クボタは原発から190km南の茨城県水戸市に住んでいた。7歳になる息子のダイトが外で遊んでいるとき、ラジオをつけると原発で一連の爆発が起きたことを知る。
「とにかく泣きました」とクボタは振り返る。「それからダイトの首に発疹ができたんです」
4週間後、すでに日本を離れることを考え始めていた頃、まだ赤ん坊の下の息子が初めて鼻血を出した。「日本のできるだけ遠いところに行こうと決めました。でも、夫を説得するのに2ヶ月かかってしまった。夫は『自分たちにはどうしようもないことなんだから、そんなに心配しても仕方がない』って言うんです」
近所の人や友人の多くが福島の話題を「タブー」にしているのと同じように、クボタの夫も放射能の話をするのをいやがった。
過度のセシウムが検出されて牛乳が回収される騒ぎがあったあと、クボタは学校に行って息子に牛乳を飲ませないでくれと頼んだ。学校はその要請を無視した。
「結局、息子がアレルギーだという作り話をしたら、ようやく牛乳を飲ませるのをやめてくれました」
クボタは避難する以外に「選択肢がなかった」と話す。「福島の事故のせいで病気になった人の統計に、いつか自分の子供が仲間入りするのかどうか。それをただ黙って見ているのはごめんです」
一方、いくつかのNGOは、一部の人たちの体調不良と福島の放射性降下物との関連を指摘している。
3月に大量のヨウ素131に被曝して避難していない福島の子供130人を検査したところ、10人に甲状腺異常が見つかった。
6月に、原発から60kmの地域で実施した戸別訪問調査からは、大勢の住民が長引く鼻血や下痢に悩まされているのがわかった。同じ症状は東京でも確認されている。
自身も広島の被爆者であり、チェルノブイリや広島の被害者向けに非営利の病院を運営している肥田舜太郎博士は、今年の中頃に単発のクリニックを開いて50人の患者を診察した。
「青あざ、鼻血、高熱、下痢、骨の痛み、極度の疲労といった症状が見られました」と肥田は語る。
こうした症状は、広島の原爆による放射性降下物に被曝した人々にも程度の差はあれ現れていた。広島の原爆にはセシウムやヨウ素はもちろんだが、高濃度のストロンチウム90も含まれていた。広島の被爆者に見られた長期的な影響としては、悪性腫瘍、脊椎の不具合、先天性欠損症、白血病、乳がん、甲状腺機能障害、放射線白内障、肝疾患、心疾患などがある。
放射線による複数の症状がクリニックで確認されたのを受け、肥田は東京の放射線を心配している。世界保健機関は、日本国民の健康がただちに脅かされることないと言うが、肥田は沖縄に逃げた人たちを決して被害妄想とは呼べないと考えている。
「これは個人が選ぶ問題です。何に優先順位を置き、健康リスクをどう認識するかは、人それぞれですから。ですが、放射性降下物による色々な影響を見てきて、すぐに現れる症状もあれば遅れて現れる症状もあるのを知っている者として、私はどちらかというと用心に越したことはないという立場です」
竹野内は、広島の被爆者に関する肥田の本で翻訳を手伝ったことがある。息子が、沖縄に着いてから2ヶ月で8回目の38度を超す熱を出したとき、彼女は肥田に電話をした。
「先生はこうおっしゃいました。すでに本土を離れているし、3月15日に放射能を浴びた時間はもう元に戻せないのだから、今はとにかくお子さんを愛し続けてあげて、沖縄で普通の暮らしを送らせてやるようにすることが一番です、と」
(ジェーン・バラクラフは、日本を拠点にするオーストラリアのフリー・ジャーナリスト。)
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