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『文藝春秋』十二月号のP.92・93に、「日本人へ・百三」:「「がんばろう日本」は どこに行った?」とタイトルされた塩野 七生さんの文章が掲載されている。
読んですぐに、「週刊新潮」、櫻井よし子さん、曾野綾子さんらが思い浮かび、笑えた。申し訳ないが、塩野さんらは、とても近い価値観・感性・論理性を共有しているのではないかと思う。
『文藝春秋』十二月号に掲載された塩野さんのエッセイは、端的に言えば、福島第一の原発事故以降、日本とりわけ東北・関東で顕著な放射能被害を避けようとする人々を、同胞を傷つける“人でなし”、非理性的な生き方をする愚かな者と揶揄(罵倒)したものである。
■ 同胞をイタリアで奴隷的にこきつかう悪徳中国人企業家は刑務所入りのリスクを負っているが、福島県産のものを買わなかったりがれきなどを受け入れない人たちは、「不安の声」という「衣」をかぶせるのだから始末が悪いと言い、「何という卑劣な残酷さ」と非難している。
【コメント】
作家ならでは作文能力である。
放射性物質に汚染された可能性がある“もの”を避ける行為を、非合法に入国した同法中国人を酷使して稼ぐ中国人企業家と比較して非難する歪んだ価値観と非論理的な理性を疑わざるをえない。
日本人の半分ほどが持っている可能性もある「中国人像」を持ち出すことで、論理を構築することなく読者の感情に寄り添って、放射能汚染物質を極力遠ざけようとする日本人をとんでもない輩であるかのように刷り込もうとしている。
「「不安の声」という「衣」をかぶせるのだから始末が悪い」というフレーズは最悪で、現実に深刻な放射能汚染に見舞われており、ただでさえ高い“我慢値”(暫定基準値)をさらに上回る汚染の食べ物が今なお新たに出現している事実をシカトしている。
事実として問題がないことを曲がりなりにも説明しないで、「「不安の声」という「衣」をかぶせるのだから始末が悪い」とは、まともな知性の持ち主なら、恥ずかしくてとても書けるフレーズではない。
■「表面に出てこないヒステリー現象は数知れず存在するにちがいない。しかもそのほとんどは感情的なものにすぎなく、単なる思いこみだけで日本人が同じ日本人に対して拒絶反応を起しているのだから、卑劣な振舞いと言うしかないのである。このように振舞う人は、自分の胸に聞いてみることだ。不幸に見舞われてしまった同胞に対してかくも残酷になれるのが、他の誰でもなく自分なのだ、と。」
【コメント】
「週刊新潮」なども得意とする「ヒステリー現象」という用語法はともかく、ロジックが完全にすっ飛んでいる。
「日本人が同じ日本人に対して拒絶反応を起しているのだから、卑劣な振舞いと言うしかないのである」と言うが、福島県産の食べ物を避けること、“送り火”や“花火”で起きた問題が、どうして、「日本人が同じ日本人に対して拒絶反応を起している」ことになるというのだ。
多寡の違いはあるとしても、あくまでも放射能に汚染されたものを避けようとしているだけであり、それらを生産した人やより濃度が高い地域にすんでいる人たちを拒絶しているわけではない。
福島の人たちに汚染食材を食べろと言っているのならまだしも、福島の人たちにも放射能に汚染された食べ物を避けて欲しいと願っているのが“卑劣で残酷な人たち”であろう。
原発事故発生からこれまでの経緯を考えれば、「不幸に見舞われてしまった同胞に対してかくも残酷になれるのが、他の誰でもなく自分なのだ」という文章はまったく不的確・理不尽であり、「不幸に見舞われてしまった同胞に対してかくも残酷になれるのが、他の誰でもなく日本政府であり東電なのだ」こそが的確なのである。
事故後に被曝をできるだけ少なくする対策さえとらず、自分たちの給与はきちんと支払いながら家を追われた被害者への賠償は先延ばしにしてきたのは、政府であり東電である。
■「各地で起っている放射能騒わぎに至っては、醜悪以外の何ものでもない。「おしゃもじ」が「放射能測定器」に変わった、一昔前の主婦連を思い出してしまった。このような母親を見ながら子供は健全に育つと思っているのだろうか。」
【コメント】
塩野さんの基準に照らして健全に育つかどうか、そして、それが良いことかどうかもわからないが、放射能被害をできるだけ少なくしようとしている母親たちを、たぶんお嫌いなのだろうが、“主婦連”と同一視して揶揄している文章は寒過ぎる。
この文章のあとに、「母さんは母さんに出来る範囲のことは注意しますよ。それが母親の役割だからね。だからあなたたちは安心して、子供の役割に専念してほしいの。それは、よく学びよく遊ぶこと。これからは日本もふくめて世界中が大変な時代になるから、その時代を生き抜いていくには心身ともに逞しく育つのが一番。でないと、ガンでは死ななくても他のことで死んじゃうことになりかねませんからね」と“正しき育児法”を開陳している。
哀しく、笑えるのは、塩野さんが、非難し揶揄している母親の多くが塩野さんの“正しき育児法”をほぼ実践していることに気づいていないことだ。
自分でできる対応の限界から、我が子に“過剰な不安意識”を与えている人もいるとは思うが、「母さんは母さんに出来る範囲のことは注意しますよ。それが母親の役割だからね」と思い、塩野さんが罵倒する母親たちは生きているはずだ。
「でないと、ガンでは死ななくても他のことで死んじゃうことになりかねませんからね」は、唯一とも言えるロジカルなフレーズだが、こんな死を引き寄せるようなことを我が子に言う必要もない。
被曝の問題は、なにより、「被曝しなければ回避できた死や疾病に追いやられてしまう可能性がある」ということだ。
母親なら、子どもには言わないとしても、「いつかは死を迎えるのだけど、原発事故で被った被曝のために、我が子が、死が早くなったり病気で苦しみ充実した人生を送れなくことはできるだけ避けたい」と思い、放射能から少しでも遠ざけようとするのは当然である。
■ 「今回の原発事故で、われわれ日本人は、「絶対安全」などというのは神話にすぎなかったと知ったのではなかったか。それなのに、ミリシーベルトとかベクレルとかを唱えることで、もう一つの「絶対安全」を求めようとしているのか。」
【コメント】
「絶対安全」がないとわかっているからこそ、相対的に安全なものや条件を探しているのですよ、塩野さん。
■ 「東日本大震災という不幸を契機に、せめては絶対安全神話から卒業しようではないか。そして、風評被害の加害者になることから卒業し、日本全体で処理することによって、がれきからも卒業しようではないですか。」
【コメント】
放射能汚染に関して「風評被害」という用語法で裁断する人は、被害者よりも政府・東電を擁護するような人だと思っている。
景観はともかく衛生的も復興のためにも早く処理をしなければならない“放射能汚染がれき”の問題は、除染の問題とも共通するが、まずもって決めなければならないのは、最終(言葉は“中間”でもいいが)処分地とそこでの処分法である。
震災=原発事故から8ヶ月以上経過しているのに、ただ、低い汚染度の瓦礫は全国の自治体が受け入れて処分して欲しいというのは中央政府の怠慢以外のなにものでもない。
放射能汚染物質はできるだけ動かさないのが原則である。しかし、瓦礫処理施設を被災地の近くに建設する話も聞かないし、中間処分地は福島でという話がぽつりぽつり聞こえてくる程度だ。
瓦礫は、燃やせば放射性物質の濃度が飛躍的に高くなる。土壌などの除染も、高い放射能濃度のものが集積することになる。家屋などを洗っても、放射性物質が消え去るわけではなく、どこかへ流れていくだけで、その家屋は環境が良くなるにしても、どこかにしわ寄せがある話だ。
最終処分場所と処分方法を決めて、放射能汚染の度合いが強いものから優先的に処分し、その場所では処分できない残りの瓦礫をごく低い汚染度のものに限って、東京を含む周辺自治体が処分に協力するというのならまだ話がわかる。
薄い根拠で、大丈夫、安心、問題ないといったフレーズを語ることで、放射能に汚染された瓦礫を全国に運んで処分できるという態度では、各地の住民が反対するのは当然であり、処分の全体像を示さなければ、いつまで経っても、健康問題や復興阻害につながる瓦礫の処理ができないだろう。
※ 最後に:
【引用】
「幸いにも今のところは、外国メディアはこの種の現象を報じていない。だが、遅かれ早かれ彼らも気づくだろう。あれだけ震災直後の日本人の毅然とした態度と思い遣りの深さに、賞賛を惜しまなかった彼らのことだ。その同じ日本人が、我がこととなるとかくも酷い仕打ちを平然と出来てしかも恥じない、という一面を知れば、喜び勇んで報道するだろう。」
【コメント】
塩野さんが「風評被害」と呼ぶ理由で、日本産(地域の範囲はそれぞれ違う)の農産品や魚介類を輸入制限している国がどれほどあるかご存じなのだろうか。
カナダともう一ヶ国だけが輸入制限を広く解除しただけで、塩野さんがお住まいのイタリアを含むEUも、日本産を厳しく輸入制限している。
だから、放射能汚染食材を避けようとしている日本人を、「酷い仕打ちを平然と出来てしかも恥じない」と喜び勇んで報道すると、塩野さんと同じで、大きなしっぺ返しを受けることになる。
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『文藝春秋』十二月号のP.92・93
日本人へ・百三
「がんばろう日本」は どこに行った?
塩野 七生(作家・在イタリア)
イタリアにも中国人の経営者が進出してきているが、その多くは合法的に入国した中国人が非合法に入国した同国人を奴隷のような環境で働かせていて、しばしばイタリアのメディアで問題視されている。それを見るたびに私は、日本人ならば同胞をこうも酷くあつかうことはしない、と思っていたのだった。
ところが一年ぶりに帰国した日本で、日本人の残酷さに直面して愕然としている。世に言う「風評被害」である。
イタリアにいる中国人は、少なくとも刑務所入りというリスクは日日している。つまり、自らの手を汚すことはしているのだ。それなのに風評被害の加害者たちは、自らの手は汚していない。ただ単に、福島県産というだけで買わないか、場合によっては当局側に抗諌の電話をかけるかメールを送りつけるだけ。それもその「抗議の声」なるものには「不安の声」という「衣」(ころも)をかぶせるのだから始末が悪い。そして、それらを受けた当局側は、理をつくしての説得をするわけでもなくビクつくだけで、結果は「中止」で幕を引くことになる。
何という卑劣な残酷さ。「がんばろう日本」なんて言っていたのは、どこに行ってしまったのか。
幸いにも今のところは、外国メディアはこの種の現象を報じていない。だが、遅かれ早かれ彼らも気づくだろう。あれだけ震災直後の日本人の毅然とした態度と思い遣りの深さに、賞賛を惜しまなかった彼らのことだ。その同じ日本人が、我がこととなるとかくも酷い仕打ちを平然と出来てしかも恥じない、という一面を知れば、喜び勇んで報道するだろう。
京都五山送り火をめぐつての一騒動。
愛知県日進市で起った花火をめぐる騒ぎ。
大阪府河内長野市の、橋桁をめぐる騒動。
福島県産というだけでの、食品への拒絶現象。
これらは日本のメディアさえも問題視した例で、これ以外にも表面に出てこないヒステリー現象は数知れず存在するにちがいない。しかもそのほとんどは感情的なものにすぎなく、単なる思いこみだけで日本人が同じ日本人に対して拒絶反応を起しているのだから、卑劣な振舞いと言うしかないのである。このように振舞う人は、自分の胸に聞いてみることだ。不幸に見舞われてしまった同胞に対してかくも残酷になれるのが、他の誰でもなく自分なのだ、と。
この恥ずかしい騒ぎの中でも最も情けない現象が、被災地で出たがれきの処理をめぐって起っている騒動である。その処理への協力を申し出たのが東京都と山形県だけと知って、私はまたも愕然となった。しかも今のところ処理しようとしているのは、原発とは無関係の岩手と宮城の両県のものだけではないか。それでも東京都庁には、抗議と不安の声が多く寄せられたそうである。それも最初は、処理に手をあげたのは四十二都道府県、五百七十二の市町村であったのに、住民側からの抗議と不安の声に“寄りきられ”て、上げていた手も下げてしまったという。
まるで今の日本は、「抗議」と「不安」だけが肩で風切っているようだ。それをささえているのが、自分の考えることだけが正義であるという思いこみ。この種の思いこみくらい、互いに力を合わせないと機能していかない住民共同体にとっての害毒はない。「住民共同体」の語源はラテン語のレス・プブリカで、日本では普通、「国家」と訳されている。
各地で起っている放射能騒わぎに至っては、醜悪以外の何ものでもない。「おしゃもじ」が「放射能測定器」に変わった、一昔前の主婦連を思い出してしまった。このような母親を見ながら子供は健全に育つと思っているのだろうか。
私ならば、この種の振舞いこそ拒否する。だが、子供には言うだろう。「母さんは母さんに出来る範囲のことは注意しますよ。それが母親の役割だからね。だからあなたたちは安心して、子供の役割に専念してほしいの。それは、よく学びよく遊ぶこと。これからは日本もふくめて世界中が大変な時代になるから、その時代を生き抜いていくには心身ともに逞しく育つのが一番。でないと、ガンでは死ななくても他のことで死んじゃうことになりかねませんからね」
そう言うと、高校生ぐらいだと言い返してくるかもしれない。「母さん、政府や役所や東電の言うことは信じられないんじゃないの」それで話を、高校生の水準に上げる。「疑心暗鬼に駆られたあげくに立ち止まってしまい、後から来る人たちに押しつぶされて死ぬか。それとも、危険を避けながらも走り抜けるカは自分にだってあると信じて走り出すことで生きるか。放射能もガンの原因になるかもしれないけれど、ストレスなんてもっとガンの原因になるのよ」
今回の原発事故で、われわれ日本人は、「絶対安全」などというのは神話にすぎなかったと知ったのではなかったか。それなのに、ミリシーベルトとかベクレルとかを唱えることで、もう一つの「絶対安全」を求めようとしているのか。
イタリアに行ってすぐ友人になった一人に、青少年期をファシズム下で過ごし、それが打倒された戦後には一変して共産党に入党した小説家がいた。その人と話しながら思ったものである。寄って立つ支柱がなければ生きてこられなかった人は、その支柱が倒されても必らず別の支柱を求めるようになる、と。
東日本大震災という不幸を契機に、せめては絶対安全神話から卒業しようではないか。そして、風評被害の加害者になることから卒業し、日本全体で処理することによって、がれきからも卒業しようではないですか。
(十月二十三日記)
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