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無理です山下さん、やめてください福島県
http://medg.jp/mt/2011/11/vol318-12.html
医療ガバナンス学会 (2011年11月18日 06:00)
亀田総合病院 小松秀樹
2011年11月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
○クライシス・コミュニケーション
長崎大学教授の山下俊一氏は、福島県に招聘され、「火中の栗を拾う覚悟で」放射線健康リスク管理アドバイザーに就任しました。放射線に対する過剰な恐怖がもたらす害を心配したためだろうと思います。放射能トラウマ(文献1)が、子供たちにまで影響を与えているらしいことを考えると、先見の明があったと言わざるをえません。このためでしょう、山下氏は住民を対象に講演を繰り返しました。m3の橋本佳子編集長によるインタビューで以下のように答えています。
「最初は危機管理、クライシス・コミュニケーションの立場からお話していたのですが、4月に文科省から『数字』が出た以降は、リスク・コミュニケーションに変わりました。」
「クライシス・コミュニケーションの基本は、白黒はっきりしたことを言うこと。危ないか、危なくないか。皆をパニックにしないことが重要だからです。しかし、リスク・コミュニケーションの場合は、分からないところ、グレーゾーンの議論が出てきます。」
クライシス・コミュニケーションとリスク・コミュニケーションで、説明内容が異なるとすれば、同一人格が両者を担当すると、信用されなくなります。
さらに、このようなコミュニケーションの分類を提案したのが、外国の学者だとすれば、信用するのは馬鹿げています。第一に、原発事故のような修羅場は、想像力でカバーできるものではありません。原発事故によるクライシスへの対応は、選挙の洗礼を経ていない学者には無理というものです。第二に、納得の仕方は歴史と文化に根ざしているので、背景となる文化ごとに適切な方法が異なります。
ネット上には、山下氏の講演での発言として、以下のような文言が挙げられています。発言の映像もネット上で見ることができます。
「これからは福島。フクシマ、フクシマ、フクシマ。福島は何もしないで有名になった。広島、長崎は敗けた。」
「放射線の影響は、にこにこ笑っている人には来ません。くよくよしている人に来ます。」
「私は安全を皆さんに言っていない。安心を語っている。」
映像を見て、驚きました。ジョークがジョークになっていません。聴衆がいら立っているのが見てとれました。病院では、医師にひどいことを言われたという投書は、珍しいものではありません。確かに問題のある医師もいます。しかし、患者・家族は追い詰められた状況にあるので、人によっては、医師のささいな言葉で傷つきます。通常の対話では問題にならないことで、大騒ぎになることがあります。このあたりの機微に疎いと、普通の社会人では問題視されないレベルでも、研修医は要注意扱いになります。臨床医として経験を重ねるうちに、対話能力は向上します。慎重に言葉を選びながら、相手の反応を確認しつつ対話を進めるようになります。山下氏は臨床医としての経験があったのでしょうか。
山下氏は、住民に安心を与えることには失敗したと思います。一部の住民に嫌われ、解任の署名運動が起こりました。
○リスクの相対化
私は、被ばくについて、大きな健康被害はないだろうという、山下氏の発言はたぶん正しいと思っています。ただし、実際の被ばくの状況を再現できるような完璧な情報があるわけではないので、注意深い監視が必要です。私は、被ばく医療については素人ですが、素人による大きな枠組みの科学的議論は有用だと思っています。東日本大震災と原発事故は、プロがあてにならないことを示しましたから。
現時点の外部被ばくについては、南相馬市立総合病院の玄関先で、空間線量は毎時0.2から0.3マイクロシーベルト程度です。0.4と多めに見積もって、 24時間、365日、屋外で生活したとしても、年間3.5ミリシーベルトにしかなりません。南相馬市立総合病院の及川友好医師や東大医科研の坪倉正治医師たちによるホールボディーカウンターのデータでは、内部被ばくは、チェルノブイリよりはるかに軽度でした。南相馬で4月以後活動している坪倉医師に内部被ばくは生じておりません。今後、一定以上に汚染された食物を摂取しないという条件が守られれば、健康被害が生じる可能性は低いだろうと思います。
そもそも、環境中には自然放射線として、地殻と宇宙線による外部被ばく、放射性カリウムなどによる内部被ばくがあります。宇宙ステーションに滞在すれば1 日、1ミリシーベルトの線量を被ばくします。加えて、日本人は、医療被ばくが多いと言われています。放射線医学総合研究所によると、CT検査1回あたりの被ばく線量は、5〜30ミリシーベルトです。それでも、検出できるほどの健康被害が生じるとは思われていません。CTは有用ですが、病変を実際に描出するより、念のために撮影されることがはるかに多いのが現実です。CT検査による被ばくを少なくしようという意見はあるものの、CTによる具体的被害が問題になったことはありません。
山下氏は、ミスター100ミリシーベルトと呼ばれました。過去に、年間100ミリシーベルトの被ばくで、大きな被害が知られていないこともその通りです。放射線被ばくに安全域がなく、少しでも被ばくすると、その分、がんが発生するという仮説があります。これが正しければ、年間、1ミリシーベルトでも100 ミリシーベルトでも、がんの発生は線量に応じて増えるはずです。外出しても、飛行機に乗っても、がんの発生が増えることになります。そもそも、日本人の 30%が、がんで亡くなっています。死亡原因にならないがんも多数あります。前立腺がん以外の病気で死亡した男性の前立腺を細かく調べると、高率に前立腺がんが見つかります。80歳以上の男性では、50%以上に前立腺がんが認められます。被ばくによるがんの発生の増加があったとしても、100ミリシーベルト程度なら、増加幅に比べて、普通の日本人のがんの発生率が大きすぎるので、統計学的に差を検出するのは難しいと思います。実際、たばこに比べると、増加幅は、はるかに少ないはずです。
私は100ミリシーベルトまで平気で浴びなさいと主張しているわけではありません。被ばく線量が少なければ少ないほど望ましいのは間違いありません。それでも、被ばくを恐れて、シェルターにこもりっきりになれば、社会との付き合いがなくなり、経済的に破綻します。社会的孤立や貧困は健康をひどく損ねます。子供の将来にも大きな影響を与えます。健康を損ねて病院に行けば、医療被ばくを増やします。どこまで犠牲を払って対応するのか、リスクを相対化して考える必要があります。
○安心を伝えるのが善か
3月12日、原子力保安院の記者会見が、かえって国民の疑心暗鬼を煽るものだと思ったので、知人の与党幹部と経産省の幹部に以下のようなメールを送りました。
「原子力保安院の記者会見は危機管理になっていません。半径20キロ以内を避難させる理由が説明されていません。官僚が重要なことを隠しているというメッセージになっています。」
「最悪の事態を覚悟していること、日本に降りかかった難局に責任者としてあらゆる対応をとる覚悟であること、日本人の難局に当たっての能力を信頼していること、協力をお願いすることなどを、菅総理自ら率直に国民に語るべきだと思います。」
経産省の幹部からは以下のような返事がきました。官邸にも私と同じ考えがあったことをうかがわせます。
「夜以降の発表は、総理、官房長官、経産大臣が、納得がいくまで、話を聞いて、彼らが発表することにしました。」
「最悪の事態を覚悟して」というところには、異論があろうかと思います。私は、当時、再臨界になるのではないかと心配していました。もし、東京の住民が先を争って避難する事態になれば、大量の餓死者がでると推測していました。再臨界になった時の政府のとるべき方針も考えていました。素人の思いつきレベルを超えるものではありませんが、「被ばくのリスクと、東京からの脱出のリスクを比較して、東京で屋内にとどまる方が、リスクが少ないと説得する」というのが結論でした。実際には、被ばく量の予測、避難計画、水や食糧の生産・輸送能力の推計などから、避難した場合としない場合の被害を比較検討しなければなりません。再臨界が発生した場合の対応を考えると、その前から「最悪の事態を覚悟して」という文言を流しておくことは悪いことではないと思っていました。
私は、医師としての長い生活で、絶望的な状況にある人たちと対話を繰り返してきました。たいていの日本人は危機的状況に冷静に対応できると思っています。下手に安心を与えようとすると、嘘や隠蔽が避けられません。かえって、不信の原因になり、以後の対応がとりにくくなります。
アウシュビッツを描いたフランクルの『夜と霧』を読んで、最も印象に残ったのは、絶望的な状況の中で希望を持つと、それがかなえられなかったときに、人格が破壊されることを述べた部分です。私は学生時代、山岳部のリーダーだったのですが、冬山では、ばてたときは余裕のある間にギブアップするように言っていました。もうちょっとだから頑張れというのは禁句です。先の見通しなしに、本当に頑張ると、ひどく危険なことになりかねません。
危機的状況で、安心だと説明して励ますことが、必ずしも、有用だとは思いません。自分の善性をアピールしたいという利己的願望に歪められた言説だと思います。
○山下俊一氏の勘違い
山下俊一氏の最大の問題というか、勘違いは、安心を与えようとしたことです。これは、大それた行動で、宗教的と言ってよいかもしれません。自分では、科学者としての発言だとしていますが、「安心」を口にするときは科学的ではありませんでした。
中西準子氏は、中央公論2005年3月号の「『安心・安全』の氾濫が作り出す不安」で以下のように、安心を与えることの問題を指摘しています。
安心という心の状態は、システムで得られるものではないし、また、通常は、生きている間にはなかなか得られない。もし、得られるとすれば、個人が自己との闘いの末、ある種の欲求を捨てることと引き換えに得られるもののような気がする。その安心を与えるのは国や企業であるとなれば、だれもが自己との闘いをやめてしまい、結果として不安が大きくなる。私は、当初、安心というのは飾り言葉のように捉えていて、それを本気で受け取る人がいるとは思っていなかった。ところが、企業の経営者が年頭挨拶で「これからは、企業は安心を与えることを目標に」と述べるのを耳にし、テレビのキャスターが、「安全と言えるかもしれないが、国民は安心感をもっていない、そこが問題だ」というような発言をし、「老後は不安ですか?」というアンケートをとって、六割もの人が不安と答えた、国の政策はどうなっているのかと怒るレポーターを見ていると、不安との闘いという個人の心の課題が、いつの間にか国や企業の責任に代わりつつあることを実感するのである。これではかえって不安、不安という人が増える。
アーノルド・トインビーはギリシャ・ローマ世界のプロレタリアの宗教が、次の文明であるヨーロッパ世界の世界宗教になったことに注目します。これが、他の文明世界にも通じる一般的な事象だとして、壮大なスケールの文明交代物語『歴史の研究』を書きました。宗教がプロレタリアに始まるというのは正しいと思います。プロレタリアが宗教でまとまろうとすると、弾圧されますが、弾圧が宗教を強くします。宗教が大きな影響力を持つための最も重要な要素は受難です。イエス・キリストが磔刑にならなかったら、今のキリスト教はなかったと思います。十字架はキリスト教のシンボルなのですから。
チベット動乱以前、チベットでは、厳格な鎖国下に、宗教に基づいた政治がおこなわれていました。最高権威者はダライ・ラマでした。河口慧海の文章を読む限り、統治権力としてのチベット仏教は問題が多かったと思います。チベット動乱、1959年の十四世ダライ・ラマのインドへの亡命という苦難を経て、宗教として磨かれました。
山下氏は、弾圧を受けず、民衆と苦しみを分かち合わず、しかも、宗教的カリスマ性がありません。にもかかわらず、安心を説きました。私が言うのだから信じなさい、ということでしょう。現代の日本で、安心しなさいと言って安心を与えようとしても無理です。できるのは、科学的データを体系的に提示し、リスクを相対化して分かりやすく比較検討することだけです。後は、個人の心の問題です。
かつて、日本人の常識であった無常観、すなわち、あらゆるものは変化していく、という考えは、安定が一時期のものにすぎないこと、手放しの安心があり得ないという事実を受け入れやすくします。変化を冷静に観察する態度に通じるものがあり有用です。
<文献>
1.小松秀樹:放射能トラウマ. MRIC by 医療ガバナンス学会 メールマガジン; Vol.303, 2011年10月27日. http://medg.jp/mt/2011/10/vol303.html#more
(その2/2に続く)
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