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田中正造の言葉から福島原発事故を考える@特報
http://blog.livedoor.jp/ryoma307/archives/5313128.html
11月9日 東京新聞 特報 :Nuclear F.C : 原発のウソ
東京電力福島原発事故後、足尾銅山鉱毒事件の展示施設に足を運ぶ人が増えているという。鉱毒と放射能の違いはあれ、それを撒いた加害企業は政府と親密で、被害住民は塗炭の苦しみを強いられた。
1世紀以上の時間を隔てながらも、両者は酷似している。足尾事件で闘いの先頭に立った政治家、田中正造は命を懸けて政府を糾弾した。その言葉と歩みはいま、私たちに何を伝えるのか。(出田阿生、秦淳哉)
「己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が真の愚である。民を殺すは国家を殺すなり、法を蔑(ないがしろ)にするは国家を蔑にするなり、人が自ら国を殺すのである」(「田中正造之生涯」=大空社より。原文は旧字)
足尾鉱毒事件を告発した政治家田中正造は1900(明治33)年2月17日、衆議院でこう大演説をぶった。その4日前、鉱毒被害に苦しむ農民たち約2500人が警官隊と群馬県佐貫村(現在の明和町)で衝突。この「川俣事件」について、政府に抗議した。
正造は1841年、現在の栃木県佐野市に生まれた。県議を経て、90年に衆議院議員に初当選。帝国議会で足尾銅山の鉱毒被害について質問を繰り返した。1901年に議員を辞職し、被害住民救済を訴えるため、明治天皇に直訴を試みたが、失敗。その後も渡良瀬川の洪水防止を名目とした遊水地建設の反対活動を続けたが、13年に71歳の生涯を閉じた。
当時、政府が鉱毒被害封じ込めを図ったのは銅生産が「国策」だったため。原子力発電を国策として推進し、大事故後も再稼働方針を揺るがさない現代と共通する。
「世の中に訴へても感じないと云ふのは、一つは此(この)問題が無経験問題であり又(ま)た目に見えないからと云ふ不幸もございませう」(同)
同じ演説で正造はこうも述べた。大規模な鉱毒被害を引き起こしても当時の政府は実態を認めようとしなかった。目に見えない物質の影響がどの程度なのか。福島原発事故による放射性物質にもその構図は重なる。
1897年の衆議院での演説は、より辛辣だった。「先づ鉱毒で植物が枯れる。魚が取れぬ。人の生命が縮まる」「銅山に毒があれば動植物に害を与へると云ふことは古来学者の定論で、農商務の官吏が皆正直でさへあれば其れで宜(よろ)しいのである」「銅山の毒が何に障るかと云ふ位の事は分かり切つて居るのに、農商務省が分からぬと云ふは不思議千万」(同)
この言葉はすべての情報を開示していない現在の原子力安全・保安院や東電にも当てはまる。
正造が住んでいた栃木県谷中村は鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が造られることになり、強制廃村に追い込まれた。加害企業の古河鉱業(当時)と住民の賠償交渉も長期化。閉山した足尾銅山周辺では、いまも少量の鉱毒が流出し続けている。
今年3月13日、地元紙に一つの記事が載った。栃木県日光市にある古河機械金属足尾事業所の源五郎沢堆積場が、東日本大震災の地震の余波とみられる地滑りで崩れ渡良瀬川に有害物質が流入したという記事だ。
堆積場とは、銅を精錬した後に残った金属かすを貯蔵している場所。12日に同社が2キロ下流で実施した水質調査では、国の基準値を2倍近く上回る鉛が検出された。
NPO法人・足尾鉱毒事件田中正造記念館の島野薫理事は「堆積場や1200キロに及ぶ廃坑の坑道からも、有害物質が流れ続けている。足尾銅山の公害は、いまだに終わっていない」と話す。
田中正造の研究を続ける熊本大の小松裕教授(日本近代史・思想史)は「足尾鉱毒事件と今回の原発事故の構図があまりにも似ていて、本当にびっくりした」と語る。約百年前の正造の言葉を伝えたくて、9月に「真の文明は人を殺さず」(小学館)を出版した。
放射性物質と同じく「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食いすることを正造は「毒食(どくじき)」と表し、汚染地域の農産物の販売や結婚で差別が生じたことに心を痛めた。「低線量の放射線被害は未知の分野。足尾のように福島原発事故の被害者が見捨てられてはならない」(小松教授)
当時、被害住民は古河鉱業や政府に何度もだまされた。当時、「鉱毒除去のため設置する」と政府が表明した機械は、実は増産を目的とした銅の採集器だった。だが、この採集器設置と引き換えに示談交渉を進めた。
日清戦争時は「永久に苦情を申し立てない」という示談契約もあった。福島原発事故では東電が後に撤回したが、被災者の賠償請求書に「一切異議・追加請求を申し立てない」と盛り込んだ。
政府方針の裏付けしかしない“御用学者”たちもいた。足尾鉱毒事件では「銅山から出るのだから銅中毒に違いない」という説が主流だった。その中で、帝国大学医科大学(現在の東大医学部)の林春雄助教授がただ一人、「複合汚染」を疑った。足尾銅山の銅鉱石は硫化銅で鉛や亜鉛、マンガン、ヒ素やカドミウムも含んでいたためだ。
ところが、林助教授は複合汚染説を提唱した直後、文部省(当時)にドイツ留学を命じられた。林助教授が不在の間に政府は第二次鉱毒調査委員会を設置、遊水地を造って対策を終わらせた。
小松教授はメディアの責任も指摘する。古河鉱業が鉱毒予防工事を実施した後、当時のマスメディアは「鉱毒問題は終わった」と報道。実際は当時の技術では完全に鉱毒拡散を止められず、被害は広がり続けた。
北海道で反原発活動を続ける哲学者、花崎皋平(こうへい)さんは「日本社会における倫理観の欠如」を問題の背景とみる。「唯一の行動規範は経済による欲望の充足。欲望のまま、科学技術で何でもやっていいと国策で突き進み、足尾鉱毒事件や福島原発事故を引き起こした」
原発は半減期が数万年もの放射性物質を生む。放射性廃棄物の処理技術は確立していない。潜在的な核武装でもある−。ドイツ政府は宗教者が加わった「倫理委員会」でこうした論議を重ね、脱原発にかじを切った。
「現段階では、人間には原子力は扱えない。いくら技術があってもクローン人間をつくってよいのかという話と同じで、倫理的な観点が必要」と花崎さんは話し、正造の残した言葉を引いた。
「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」(田中正造の日記)
<足尾鉱毒事件> 1870年代から栃木県旧足尾町(現日光市)の足尾銅山周囲で起きた公害事件。実業家古河市兵衛が77年、渡良瀬川上流部で、銅の鉱業権を獲得。銅は日本の主要輸出品となったが、産出や精錬時に出る鉱毒を含む土砂が川の氾濫などで広がり、農作物や魚などに被害を出した。その後、対策として県内に遊水地を造る案が浮上。県は対象地の谷中村を1906年に強制廃村とした。
<デスクメモ> 足尾鉱毒事件の背景にあった「富国強兵」「殖産興業」の標語は今日、TPP推進派が掲げる「経済成長」に引き継がれている。一世紀以上も成長神話にひれ伏す中、それが市井の人たちを幸せにするのか、という根源的な議論は国政の議場からは聞こえない。この政治家の思考停止こそ犯罪的である。(牧)
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