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《・・・そこから、「余計な放射線は浴びないにこしたことはない」という、非科学的な言説が現実味を帯びる。・・・》
原発事故前に、長年、原子力安全・保安院の安全部会長を務めた村上氏だが、原発事故後も武田邦彦氏のような真剣な反省は見られない。
科学哲学や科学史が専門の方の限界か。想像力の貧困を憂える。
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http://blogs.yahoo.co.jp/atsunori517/52238907.html より
放射線許容量をめぐって 科学的言説には限界 村上陽一郎 識者コラム「現論」
共同通信社 10月28日(金) 配信
福島第一原子力発電所の事故以来、一般の人々の間に放射線量に関する関心が高まっている。ニュースなどでも、毎日、各地の線量の報告が行われ、一喜一憂の原因ともなっている。小さな子どもを抱えるお母さんたちの心配が、特に大きいのは、ある意味ではもっともである。医学や工学の学会などが、危険の閾値(いきち)に関して、明確な基準を提示してほしい、という要望も強い。
しかし、科学に決定的な答えを求めることは、今の段階では難しい。もちろん、しかじかの線種の放射線を、しかじかの時間内に、しかじかの量を浴びたら、人間にとって致命的な結果が生じる、という判断は可能である。しかし、ある量の放射線を、ある期間浴び続けると、あるいは、ある量の放射線を含んだ食品を、ある期間とり続けると、何年後にガンが発症するか否か、を決定するにはいくつかの問題がある。
▽不十分なデータ
一つには、データが十分整っていない、という面がある。その点で、強調したいのは、現在起こっている事例の保存と時間をかけた追跡調査を、今後重ねていくことが決定的に大切だということだ。例えば、大型動物であるウシが、しかるべき量の放射線を持つ飼料を摂取した、というような事例は貴重なデータになるはずで、こうした例は他にも多々ある。
第二には、影響を試算するために用いられる「道具」が、確率であるという点である。確率的な予言や判断は、現在でも可能な場合がある。しかし、確率は、多くの事象を取り上げたときに初めて、意味を持つものであり、個別事象に関しては、心理的な効果以外には期待できない。その一方で、杞憂(きゆう)でしかないような数値でも、絶対に起こらないわけではない。
もう一つの困難は、例えば、チェルノブイリ事故の際のデータのなかで、幼い時期にある程度以上被ばくした場合に、甲状腺ガンを発症する確率が高くなる、という点が確かめられている。しかし幼い時期に被ばくしたある個人が、甲状腺ガンを発症した際に、それが、被ばくのせいであるのか、別の原因によるのかを判定することも、至難である。もちろん、ガンが自然のままでも一定の確率で発生するからといって、それを増やすような原因を取り除く努力が必要ないはずがないのは、当然ではあるが。
もう一つの点は、本来自然に存在する放射線も、地域や場所によって相当異なることにある。現在、年間量で二・五ミリシーベルト程度が世界的な平均の被ばく量である。しかし、それをはるかに超える被ばく量を示す土地もあり、また、高度によっても大きく変化する。もともと自然放射線は、生物種の進化の一因であり、他方、ある程度までの放射線被ばくに対しては、地球上の生物はほぼ十分な耐性を備えているとも考えられる。
こうした状況を勘案すると、安全の基準の明確な数値化への科学的努力を惜しんではならないにしても、今の科学の立場では至難ということになる。そこから、「余計な放射線は浴びないにこしたことはない」という、非科学的な言説が現実味を帯びる。「非科学的」と書いたが、負の意味を籠(こ)めたわけではない。つまり、こうした問題に関しては科学的言説には限界があり、科学の外で、問題を考えなければならない、と言う事態を認めておきたいのである。
▽社会的な合理性
「事前警戒原則」と言われるものが、ここ十年ほど、国際的に浮上してきた。通常、科学的合理性の立場からは、まずリスクについての確率的な推論を行い、被害事象の規模を推定し、次に、いわゆるCBA(費用対効果分析)を行って、対応策の選択肢に優先順位を付けて実行する、という方法がとられる。しかし事前警戒原則では、CBAの結果優先順位が低くても、万一の被害事象が大きいときには、そちらに優先順位を付ける、という考え方である。
1992年のリオデジャネイロの環境サミット以来、環境問題ではとくに、この原則が、重要視されるようになってきている。このような「合理性」は、科学的な合理性とは質が違うので、「社会的合理性」と呼ばれたりする。今のような事態では、考慮すべき方法の一つであろう。(東洋英和女学院大学学長)
>影響を試算するために用いられる「道具」が、確率であるという点である。確率的な予言や判断は、現在でも可能な場合がある。しかし、確率は、多くの事象を取り上げたときに初めて、意味を持つものであり、個別事象に関しては、心理的な効果以外には期待できない。その一方で、杞憂(きゆう)でしかないような数値でも、絶対に起こらないわけではない。
確率的であるのが問題だと言うのなら、量子力学なんて、確率の話ですからね。電子1つ1つの振る舞いを記述できないから、全体をみたらどうだとかいっているのであって、1つ1つだと、シュレーディンガーのネコ(参照@)のように、ネコが生きているか否かは箱を開けた時点で決定されるとか、並行宇宙がある(参照A)って話になるんですが・・・.
その確率的な量子力学があるから、コンピュータも動いてるのですよ。
放射能の問題だって、核崩壊はいつ起こるかわからない、あくまでも確率的な話です。全体としては正確な話ができると言う意味で、量子論ですけど。
そもそも、医学は科学的ではないんですよ。教科書なんて出版された時点で役立たず。血糖コントロールは厳重なほど良いとして開始された研究は、厳格すぎると逆に死亡率が上がって中止となりました(ACCORD試験 参照B)
こんなの医学ではごろごろありますよ。
医学にも限界があります。数学だって、ゲーデルが限界を示したし(参照C)、数学で物事を記述する物理学にもどうしても折り合わない限界があります。そこは、認めないといけないと思います。
しかし、チェルノブイリで起こったこと、セミパラチンスクで起こっていることは正視しないといけないんじゃないですか?
参照
@シュレーディンガーのネコ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB
A多世界解釈
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A7%A3%E9%87%88
BNational Lung Heart and Blood Institute
Action to Control Cardiovascular Risk in Diabetes (ACCORD) Trial
http://www.nhlbi.nih.gov/health/prof/heart/other/accord/index.htm
Cゲーデルの不完全性原理(外部リンク:数学的に示していないのですが、感覚的にわかりやすい。)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
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