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避難の両親「村は死んでないんだよ」 田んぼに茂る雑草 故郷の福島・飯舘村を訪ねて
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111015/dst11101523110028-n1.htm
2011.10.15 23:08 産経新聞
東京電力福島第1原発の事故で福島県飯舘村が全村避難となってから3カ月以上が過ぎた。飯舘村に住む両親が南相馬市に避難するため、手伝いに行った7月以来、村を訪れた。すっかり肌寒くなっていた。実りの秋。稲刈りや芋掘りなど村中が慌ただしくなる時期のはずだが、今はひっそりと静まりかえっている。
(大渡美咲)
東北新幹線の駅がある福島駅から南相馬市までは車で約2時間。関東と東北を結んでいた常磐線は震災と原発事故の影響で、現在も広野町内から宮城県亘理(わたり)町内の約100キロにわたる区間でいまだに運休している。南相馬市にある原ノ町駅も運休区間に入っているため、東京からのアクセスは不便なままだ。
真新しい電化製品とテーブルだけだった避難先のアパートには、生活用品が多くなり、生活感が増していた。その分、2人とはいえとても手狭に感じた。両親はもう少し広いところに移ろうとアパートを探しているが、周辺の賃貸物件はいまだにいっぱいだという。母は「もうすぐお正月なのに、みんなが帰ってくる家もないのはね…」と寂しそうに話した。
飯舘村の自宅にも行ってみた。玄関の扉を中から固定して開かないようにしているため、裏口から出入りするしかない。カーテンを全て閉め切っているので、ひんやりと空気が冷たい。たった3カ月でも生活感はなくなり、寒々としていた。村内をパトロールする「見回り隊」をしている父は、仕事のある日は自宅に戻る。いくら暗くて寒くても、自宅の方が落ち着くのだという。母は村内の会社に毎日通っているが、仕事が終わるとアパートに帰る。避難後、すれ違いの生活が続き、2人だけの生活すらままならない状況だ。
両親が自宅近くの畑の草刈りをするというので手伝った。秋は稲刈りのコンバインが行き交い、農協などにはとれたての新米が集まる。田んぼに黄金色のわらが干されているのがこの季節の光景で、実家から送られてくる新米を食べるのが楽しみだった。体育祭や敬老会、文化祭などイベントも盛りだくさんの季節だからこそ、誰もいない田んぼに生えている茶色の雑草を見ると寂しくなった。
「あれは去年植えたブルーベリーだよ」「リンゴもなったんだけど取らなかったねえ」。草を刈りながら母が指さした木は枯れていた。葉が落ちた裸の桃の木には収穫されずにひからびてしまった焦げ茶色の実のようなものがついていた。大きい栗が地面に落ちていたが、拾うことはできなかった。
広大な畑を見回して、母は「元に戻れるのかね」とつぶやいた。村は2年後の帰還を目標に除染計画を進めているが、これだけ広大な土地の入れ替え作業は「途方もない」と感じた。畑や田んぼの土を入れ替えても、雨が降れば、山から水が流れてくる。県外に避難した知人の中には、もう村には戻らない考えの人もいる。農業を続けたい父を思って、母は、どこかに土地を借りて農業をしようかと父に勧めたという。しかし、父は今でも飯舘村の土地で農業をしたいと、母の提案を受け入れなかった。
薄暗くなった帰り道、7月と比べ、電気のついている家が少なくなったことに気づいた。その代わり、県道には車列ができていた。村唯一のコンビニは看板が外されていたが、その隣にあるガソリンスタンドは営業していた。母の会社も毎日、たくさんの人が村外から出社している。
「村に来ている人がいっぱいいる。村は死んでないんだよ」。母の言葉に胸が熱くなった。
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