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放射性物質に狙い撃ちされた村
飯舘村の悲劇(前篇)
2011.10.06(木)
烏賀陽 弘道
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/24801
福島県飯舘村は、福島第一原子力発電所から北西に40〜50キロほどのところにある。阿武隈山地に抱かれた、標高500メートルほどの風光明媚な山村だ。今回はこの飯舘村の被曝の悲劇について書く。
前回、前々回と書いた福島第一原発から半径20キロの立ち入り禁止区域の記事と対比して読んでほしい。官僚が地図の上に線を引いただけの20(あるいは30)キロの規制ラインと、現実の放射性降下物の飛散がいかにまったく無関係だったか、そして住民を被曝から防ぐ意味でいかに無意味だったか、如実に示しているからだ。
原発20キロ圏内の陸地は、半円を塗りつぶしたように人が入れなくなった。家に帰れなくなった。会社や職場に行けず、失業状態になった。なのに、円形の立入禁止区域内には線量が外部とほとんど同じくらいの低さでしかない場所がけっこうある(20〜30キロラインの中間地帯も物資輸送が止まり生活が破壊されたが、今回は話を分かりやすくするために深入りしない)。
ところが、政府が当初「安全圏」(30キロラインの外側)として「避難の必要がない」とさえ言った飯舘村は、高濃度の放射能雲が飛来し、高い線量に空気や農地、山林、上水道が汚染された。
なぜこんなちぐはぐなことになったのか。データベースを見てみると、4月中旬の段階で政府はこう言っている。
「事故の直後、放射性物質の分布を予想するのに必要な情報が限られている中、しかも迅速に判断をする必要がある状況で、緊急的に同心円として対策区域が定められた」
「地面の放射性物質の量や、放射線の強さの分布に関する情報が得られた段階では、同心円にこだわらず、適切な対応が取られることになります」(首相官邸災害対策ページ、4月13日)
善意に解釈してあげよう。「放射性物質が北に飛ぶのか南に飛ぶのか分からない初期段階では、全方位=円内全部警戒しましょう」
それは間違っていない。だが、この論法は二重三重に間違っている。
(1)まず「20キロ」という半径は小さすぎて間違っている。
(2)危険は「原発からの距離」ではなく「風向き」で警告されるべきであることはチェルノブイリ事故そのほか放射線防災の常識である。
(3)危険を警告し、住民の被爆から救うためには「地面の放射性物質の量が分かった後」では手遅れだ。
(4)そうした風向きや天気などをを総合して放射能被爆から住民を救うために、政府には「SPEEDI」というシステムがあった。
(5)汚染区域は風に乗ってランダムに広がるのはあらかじめ分かっている。
だから、日々、危険区域の予測をアップデートし続けなければならなかったのだ。なのに、4月から基本はそのままである。「国民の生命、財産、健康を守る」という視点からすると、あまりにお粗末なのだ。
自分たちの住まいに放射性物質が到来していることを知らされなかった6000人の村民と、海岸部から飯舘村に避難していた1300人が被曝してしまった。いま村からはチェルノブイリ周辺に匹敵する土壌汚染や、プルトニウムすら見つかっている。結局、全村民は避難。村は「無人」になってしまった。それでも「立入禁止」ではない。
今さら新天地に行こうとは思わない
このちぐはぐな放射能災害対策を村民たちはどのように受け止めているのか。
とはいえ、飯舘村には知り合いが誰もいない。取材の窓口になってもらったのは、村の実情を知らせるためにネットを駆使して活動する若手グループの「負げねど飯舘!!」だ。彼らが東京に来て記者会見をした時、主要メンバー3人と知り合いになった。村の窮状をずっと取材し続けている、芸人のおしどりマコさんに紹介してもらった。
山村というと、高齢者や農家のイメージがある。都市部の壮年層には遠い世界に思えた。3人は、そんなステレオタイプをひっくり返してくれた。彼らの普通の暮らしが見たい、と頼んで案内してもらった。
2階建ての自宅、玄関を入った右手に彼の寝室があった。2段ベッドの上層、敷き布団の上に線量計を置く。ぎょっとした。デジタル数字は毎時2マイクロSv(シーベルト)を示している。宿を取っている福島市は海側から風が吹いた時で1マイクロSvだった。20キロラインの立入禁止区域で南部が分断された南相馬市でも、0.5から1.5くらいだった。
「今日は2(マイクロSv毎時)ですか。だいぶん下がりましたね。いっときは4ありましたから」
ロシア製の線量計を片手に村を案内してくれた愛澤卓見さんは、カジュアルにそう言った。39歳、独身。生まれ育った実家に住んでいた。村の小学校に事務職として勤める。現在村の小学校は隣町に避難しているので、愛澤さんもそちらに通勤している。
ここで毎日寝ていたんですよね?
私はそう聞かずにはいられなかった。ハイそうです、と愛澤さんは律儀に頷いた。
この家から避難されたのはいつですか?
「結局、7月20日まで引っ越せませんでした」
私は愕然とした。ここ飯舘村に福島第一原発から漏れ出た高濃度の放射能雲が到達したのは、震災の4日後、3月15日であることが文部科学省の調査でも公表されている。愛澤さんは、4カ月以上、そんな高濃度の放射性物質が降り積もった環境にいたというのだ。国が全村民に避難を指示したのは4月22日である。
早く逃げようと焦りませんでしたか?
「いや、なんていうか、もうどうせ被曝しちゃったしなあ、という感じなんです」
「生まれてから一度も引っ越ししたことがありません。ずっとこの家に住んでいるんです。自分と一緒に育ってきた家財道具がここにある。とてつもない量なんです。ここを出て新天地に行くなんて思うだけで憂鬱です。もちろん津波で一切合切を流された人たちもいますから、被災者としてはいい部類だと思うんですが・・・」
私は返す言葉がなかった。愛澤さんはさらに付け加えた。
「実はきのう、福島市でホールボディーカウンターで内部被曝量を調べてもらったんです」
結果はどうでした?
「セシウムが1600ベクレルとか出ました。2000以下はたいしたことない、と言われたのですが・・・」
放射性物質が降り注いでいるなんて誰も教えてくれなかった
愛澤さんが言った「どうせもう被曝しちゃったしなあ」という言葉を、ほかの住民からも何度も聞いた。
一体、何があったのか。
3月11日の震災後9日間、飯舘村の住民たちは自分たちが危険な場所にいるという自覚はまったくなかった。地震そのものの被害は少なく、山に囲まれた村なので、津波とは関係がない。福島第一原発の暴走はニュースで見つめているが、政府が言う「危険区域」はいちばん外側の「屋内退避」区域で半径30キロだ。飯舘村の人々は「ここは放射能からは安全だ」と思った。
村には、太平洋岸と福島市や会津地方を結ぶ道路が何本か貫いている。道路は海岸部から逃げてきた人たちの車で混雑していた。「福島第一原発が危険だ」という情報を聞いたものの、政府や県、市町村は「どの道路を通って、どの避難所に逃げるのか」という指示をまったく出さない。「とにかく原発から遠く」を目指す人たちが、どこに逃げたらいいか分からないまま、村に続々とやってきた。
飯舘村の人々は、役場に集まり、地元の小学校を避難所として開放することに決めた。ある人は村の上水道をつかって炊き出しをし、ある人は毛布や布団、食糧を車に積んで役場にかけつけた。外に出て自発的に道路の交通整理をする人もいた。人口6000人の村に、避難民1300人が身を寄せた。
色も匂いもない放射性物質の雲が、海からの風に流されて、福島第一原発から飯舘村に流れてきたのは、3月15日だ。放射能の雲は、ちょうど村の上で、村を包む山にぶつかり、雨と一緒に地面に降り注いだ。翌日は雪になった。
「でも、そんなこと全然知りませんでしたよ。誰もそんなこと、教えてくれなかった。僕らみんな何の防護もなく、いつもどおり外を出歩いていた。ぼくも(勤務先の)学校で避難してきた人たちの車の交通整理をしていたんですよ」
愛澤さんはそう嘆く。
村人たちは、村が放射性物質で汚染されていることを知って大騒ぎになったのは、3月20日のことだ。村にはきれいな湧水があるので、簡易上水道の水源は村内にある。厚生労働省の調査で、その水道水から規制値の3倍を超える1キロあたり965ベクレルの放射性ヨウ素を検出したのだ。
ここに至ってようやく、村に尋常ではない量の放射性物質が降ったことが分かった。「水道を使うな」と通達が出た。給水車が来た。ペットボトルの飲水が大量に運び込まれた。しかし、遅かった。村人はその水道水を飲み、お茶を沸かし、ご飯を炊き、おかずを煮炊きしていた。避難してきた人たちも、もちろんそうだ。みんな真っ青になった。
高濃度汚染されているのに人が行き交っている
3月15日、飯舘村に何が起きていたのか。文部科学省が発表した「文部科学省と米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の図を見てほしい。4月末時点における「福島第一原子力発電所から80km圏内のセシウム134、137の地表面への蓄積量の合計」を示したものである。
福島第一原発から左上(北西)に伸びたオレンジ色の部分がある。1平方メートルあたり300万〜3000万ベクレルという、チェルノブイリ以上の放射性セシウムが蓄積された地域だ。まさにこの地域にあるのが飯舘村なのだ。
プルトニウムさえ検出されている。福島第一原発がある地元の双葉町と大熊町を除けば、これほどのひどい汚染を被った自治体は飯舘村とあと少ししかない。
念のために繰り返すと、こんな高濃度の汚染が日常化してしまった飯舘村だが、原発20キロ圏内のような「立入禁止」ではない。村に住民票を持つ人々は村外の住宅に引っ越した(避難した)。が、村には平常通り営業して、従業員が通勤している企業もある。
県道など幹線道路は通行止めになっていないので、南相馬市など、太平洋沿岸部との間で、車やトラックが行き交っている。空き巣や泥棒防止のための見回りの村民や、日用品を取りに、イヌやネコに餌をやりに昼間だけ自宅に戻った人たちがクルマや自転車で通っている。
高濃度汚染されているのに、風景は20キロ圏内のような「無人の街」ではないのだ。村に立って、まずこの矛盾で頭が混乱した。
もう1つ頭が混乱したのは、村内で線量計が示す数字の高さだ。取材の手始めにと飯舘村役場に行ってみると、銀色に光る大きなデジタル式線量計が、気温湿度表示のように庁舎の前に設置されていて、まずぎょっとした。赤いデジタル数字は毎時2.90マイクロSv。それを見て一瞬「えっ!?」と戸惑う。
ちょっと車で走った。蓮の花がうつくしい池が道路脇にあった。蓮の葉の上でカエルがけろけろ鳴いている。何と平和で美しい、と写真を撮った。が、線量計を取り出したら、毎時5.18マイクロSvだ。ぎょっとして後退りした。
平和で美しい蓮池の風景。しかし放射線量は毎時5マイクロSvを超えていた。
先ほどまでいた福島市内では、ふだん線量計は0.2〜0.5くらいを指している。1マイクロSvに上がろうものなら心臓がドキドキした。ケタが1つ違うのだ。
「いやいや、そんなもんじゃありませんよ」
案内役の愛澤さんは眉ひとつ動かさず、そう言った。
それぞれ線量計を持ち、まずは7月まで愛澤さんが暮らしていた実家に行った。木枠のつるべ井戸や木造の納屋が残る、大きな農家である。建物の裏は山林の斜面だった。ここなんか高そうですね、と積もった落ち葉の上に線量計を置くと、とたんに12.06マイクロSvに数字が跳ね上がった。ピーピーと音がする。心臓がばくばくする。線量計の警告音だった。
ちょっと置き場所を変えても数字は10を切らないままだ。
ケタ違いの放射線量の高さに恐怖を味わう
杉林の中へ。「ここはきっと高いですよ」とシイタケ栽培の苗木に線量計を置く。2.9。
「あれ? 意外に高くないですね」
愛澤さんが言う。
いや、十分高いと思うんだけどな。感覚が違う。
背中を一筋、冷たい汗が流れた。落葉を踏みしめている靴の裏がむずむずする。ここは住まいの裏庭ではないのか。
こんなに高くて、大丈夫なんですか?
すると愛澤さんはまた寂しそうに言うのだ。
「いやあ、ぼくらはもう、たっぷり被曝しちゃいましたからねえ」
しかし確かにこれは「ほんの序の口」だった。
除染実験中の田んぼそば=毎時3.47マイクロSv
雑草の草原になった田んぼ=同1.73
稲の土壌浄化実験中の田んぼ=同3.24
そして福島第一原発の方向、南東の村境へとプリウスは進んだ。車内なのに、線量計は2から4へと数字がじりじりと上がっていく。額から汗が流れた。
日が落ちた頃、浪江町との境界に近い「長泥」集落の十字路に着いた。まさに3月15日の放射能雲が山にあたって地面に雨と一緒に降り注いだ最初の地域である。
人家はあるが住民は避難して無人だ。あたりは暗い。街灯の下以外は墨を流したような闇が広がり、そこから無数の虫の声だけが響いている。
「ここは測定2日目で毎時95.1マイクロSvを叩き出しましたからね〜」
十字路の角に放射線測定用らしい木の箱が据え付けてあった。政府が測定ポイントに定めているらしい。道路に赤いテープでX文字が描いてある。ボードに掲示された線量計の表を懐中電灯で照らす。・・・3月17日 毎時95.1マイクロSv・・・19日 59.2マイクロSv・・・本当だ・・・。
異常な数値を計測、小数点の位置を見間違えたのか?
十字路そばの民家の軒下に入った。雨樋の排水口が口を開けている。その真下の地面に線量計を置いた。
「353.6」という想像を絶する数値を示す線量計
次の瞬間、私は息が止まるかと思った。線量計のデジタル数字が一瞬、瞬くように見えなくなったかと思うと「9.99」を指して止まってしまった。つまりメーターが振り切れたのだ。
「それじゃダメですね〜」
愛澤さんがロシア製の線量計を置くと、またピーピーと警告音が鳴った。本当にイヤな音だ。
353.6?
はい?
私は自分の目を疑った。そろそろ老眼が来て、小数点の位置を見間違えたのだと思った。しかし、間違いではなかった。線量計は確かに毎時353.6マイクロSvを示している。
353.6マイクロSv=0.3536ミリSvではないか。私は頭の中で掛け算をした。つまり、ここに3時間このまま立っていれば、3.11以前の国の被曝基準値である積算1ミリSvを超えてしまうのだ。たったの3時間だ。
私はかつて福島第一、第二原発で働いていた人の言葉を思い出した。1ミリSvなんて数字、原発の現場でもめったに出ない。出たら逆に大騒ぎになる。ということは、原子力発電所の内部とほとんど同じ環境が突然山村の十字路に出現したということではないのか。
背後の暗闇に、なにか獣がいるような気がした。
この時の私の気持ちを正直に書くと「怖かった」だ。自分のいる環境、吸っている空気から、立っている地面、足元の泥、雑草までが危険なものに思えてくるのだ。
村民も避難民も無防備なまま「放射能の雨」を浴びた
草野小学校に着いたころには、もうあたりは真っ暗だった。私ももう打ちのめされて、言葉もほとんど出てこなかった。
校門を通りぬけ、正面が校舎の玄関だった。そこだけぽつりと明かりが灯っている。大きな庇屋根が玄関を覆っている。冬の村は雪に包まれるのだ。その左に、水道の蛇口と洗い場が見える。ちょうど屋根の下だ。雨樋の排水口も近くに見える。泥や落ち葉がたまり、苔や雑草が生えている。
悪い予感がした。すぐに線量計を洗い場に置いてみた。
やはり。またしてもデジタル数字が9.99を指して振り切れたのだ。愛澤さんの線量計は?
ピーピー。毎時52.41マイクロSv。ピーピー。
のどがからからに乾いた。ここは小学校なのだ。放射性物質の影響を一番受けやすい子どもたちが集まる小学校、それも校舎の玄関なのだ。私は暗澹たる気持ちになった。
「ここの小学校、実は僕の勤務先だったんです」
愛澤さんの声に振り返った。そうか。小学校の職員だと言っていた勤務先はここだったのか。
ちょっと待て。
2つの事実が頭の中で一列に並んだ。村外からの避難民が身を寄せていたのはここの体育館なのか。私はうめいた。放射能被曝を避けようと、太平洋岸から必死で逃げてきた人たちの上に「放射能の雲」がやってきて「放射能の雨」が降り注いだのだ。そして政府も県も、誰もそのことを知らせなかった。だから大勢の人が無防備なまま被曝した。大量の被曝者が出たのだ。
「ヒバクシャ」。頭に浮かんだ言葉のあまりの恐ろしさに、私は頭を振った。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/24801?page=7
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