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福島第一原発の爆発事故があって7箇月が経過しようとしている。
その間、我々は、信じ難いものを見続けてきた。
例を挙げればきりがないが、私たちが信じてきた国家・社会が、「近代的」で「民主的」な国家とは、全く異なるものであることが曝されつつある。
8月26日に、文部科学省のモニタリング調査結果が公表された。その中で、ようやく「プルトニウム」という放射性核種が、原子炉から放出されているという事実が記載された。そのようなことは、ここに集う方々は、皆、当然知っていたことである。かつて「プルトニウムは比重が重いから飛ばない」「吸収しても大丈夫」という意見との戦いを、繰り返し、この場所で見た。
私が、今回のことで、最も、驚愕していること、それは、この国は、「封建社会」にも劣る非人権国家であったという事実である。
私がいう、この、封建社会というものついては、若干、論及しておきたい。この用語については様々な立場・学説から多くの見解がなされているが、ここで、私が言う意味の封建主義とは、突き詰めれば「安全保障」という意味におけるそれである。
ある者が生産し、親族らと共に暮らす。その地域を含む広範囲な地帯に、統一的な権力が存在しない場合、つまり、警察権が確立していない場合、私たちはどのようにして、自分と家族の安全を確保しようとするだろうか。自分たちの健康・生命・財産を、不法な侵奪者から守るためにはどうしたらいいだろうか。当然、自衛するというのが第一であるが、それにも増して重要なのが、いわゆる「集団的自衛権」というものである。つまり、私を攻撃した場合、私に連なる「大いなる力」があなたを攻撃する、としておくことによって、侵奪行為を阻止するのである。そして、そのための、連帯行為が、「臣従」の本当の意味である。つまり、封建体制の根幹には、かならず、この「臣従−保護」の互恵関係があるはずなのである。ある武士が主君の命で切腹をする場合、残された家族の「扶持」は保護されるはずである。自分と共に、家族も処刑されるのであれば、ほとんど多くの武士はそのような自殺行為はしないはずである。封建時代には、武士には帯刀(武力)が認められていた。つまり、これは、状況においては自力救済も可能とする意味を含んでいる。本来、封建制度というものはそういうものなのだ。
つまり、封建制度とは、自力救済・自律しうる「家・親族」の連合体という構造を骨格として持っている。そして、主君のために、率先して、滅亡していくことを美とするのは、江戸時代における儒学(朱子学)による観念的変容と言わざるをえない。
今、我々の目の前で展開されている状況を言い表すならば、もっとも適切な言葉として思い浮かぶのが「奴隷社会」である。
奴隷とは、人格のない、客対物である。これは、民法上の「動物」と同じものである。
客対物、つまり、所有・管理・譲渡・処分 の 対象物ということである。人間には、かならず、「人権」というものがあり、これを有するがために、そのような取り扱いを受けずにすむというのが、近代的権利の根幹である。
今回の福島原発事故後の国や一部の地方自治体の行為によって、福島県民が取り扱われている状態がまさにこれである。「何かの考究」の処分対象にされているのである。
繰り返すが、現時点においては、福島県を含む我々の社会は、封建体制にすら存在していた「互恵」という関係が完全に崩壊している。税金を払うことに意味がないのである。
私が言っていることは、陳腐なことである、このようなことは、多くの方が同様に思い、様々にコメントしてきたのである。
しかし、私は、言葉を替えて、はっきりと、言いたかったのである。そして、最後に、こう、言いたい。
ふざけるな! 私たちは、奴隷じゃない!
あなたにも訴える。もし、あなたが奴隷となれば、あなたの妻は「奴隷女」となり、あなたの子供は「奴隷の子供」となるのだ。
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